第45話 新たな任務
長州では、幕府との戦に備えた準備が着々と進められていた。
外交と内政に二分されていた政治機構を廃止して山口政事堂のもとに一元化し、それに伴い軍事も一本化された。新しく政治の中心となったのは、木戸、山田宇右衛門、広沢真臣である。
懸案だった馬関の軍事要塞化にも着手。事ここに至っては、外国との約定を気にしている場合ではないと、対岸の門司に最も近い山の上、そして彦島沿岸に、速やかに砲台の建設が開始された。
草月と田中が長州へ戻って来たのは、そんな折、桜のつぼみもほころび始めた二月の終わりのことだった。
懐かしの『一二三屋』にゆっくりと腰を落ち着ける暇もなく、二人の帰りを待っていた高杉、伊藤、井上、品川、中岡、そして長州滞在中の薩摩藩士・黒田了介に慰労会と称して連れていかれたのは、馬関有数の花街・稲荷町にある大坂屋だ。
京での任務完遂を祝う乾杯の後、我先にと京でのことを聞いてくるのに、草月と田中が互いに補い合いながら答える。寺田屋で坂本と三吉が幕吏に襲われたいきさつは特に彼らの度肝を抜いたらしく、間一髪の脱出劇と救出劇に、あるいはこぶしを握り締め、あるいは歓声を上げながら聞き入っていた。
そんな話の合間にも、草月はちらちらと中岡の様子を窺っていた。
(龍馬さんと中岡さんが京で一緒にいる時に刺客に襲われるんだから、なんとかして中岡さんを京へ行かせないようにすればどうだろう。……いや、でも、行かせない理由を聞かれても答えようがないし……。それとも、本当のことを打ち明ける? いやいや、未来から来たなんて、いきなり言われても絶対信じてもらえない。やっぱりここは、二人のどっちかに張り付いて、『その時』が来たら、どうにかして刺客をやっつけるしか……)
草月の物思いは、隣で飲んでいた高杉の言葉で瞬時に断ち切られた。
「おのし、中岡君に懸想しちょるのか」
「は!? な、なんですかいきなり」
「さっきから中岡君のことばかり気にしちょるじゃろう」
「え!?」
ばっちり見られていたらしい。まさか本当のことは言えなくて、咄嗟に弁解の言葉を探す。
「そ、それは……。べ、別に、深い意味はないです! ええと、ほら、中岡さんと一緒にお酒を飲む機会って、あまりなかったので、ちょっと珍しくて!」
「ほーう」
答える声はやけに低い。
高杉が妙にけんか腰なのは酔ったせいかとも思ったが、よく考えてみたら、今日の高杉は最初に会った時からどこか機嫌が悪かった。
「……なら、おのしは、惚れた男はいないのか」
「はい!?」
今度こそ声がひっくり返った。じわじわと顔が熱くなるのが自分でも分かる。
「な、何ですか、さっきから! 今日の高杉さん、変ですよ!」
「おのしとの付き合いも長くなったが、浮いた話の一つも聞いたことがないと思ってな。どうなんじゃ。いるのか、いないのか」
やけに絡んでくる。
「そ、それは……」
(あんただよ、馬鹿野郎!)
そんなことを言えるはずもなく、草月に出来たのは、ただ無言で高杉を睨みつけることだけだった。
「……その顔は、いるんじゃな。どんな奴じゃ?」
「た、高杉さんには言いたくありません!」
「教えてくれてもいいじゃろう」
「嫌です! 高杉さんにだけは、絶対に、教えません! 大体、高杉さんには関係ないでしょう、私が誰を想ってても」
「……そうじゃな」
不機嫌に吐き捨てた高杉は、ふいと立って部屋を出て行った。厠へでも行ったのだろう。その隙に、こそっと伊藤が耳打ちしてきた。
「気にするなよ。今、高杉さん、ちょっと問題抱えて気が立ってるんだ」
「問題? 何か難しい案件でも任されてるんですか」
「いや、仕事じゃなくて、もっと俗なこと」
伊藤は簡単に事情を話した。
高杉が正式に馬関勤務になったことに伴い、萩にいる母親と、妻・雅子が幼い息子を連れて馬関へ引っ越して来たそうなのだ。
家族に会えることは純粋に喜んでいるようなのだが、問題はおうのである。
この時代、妾を持つのはよくあることとはいえ、それでもやはり気まずいのか、高杉は雅子とおうのの間に立って難渋しているらしい。
伊藤などは「十倍の敵兵にもひるまなかった高杉さんが、あの慌てようったら!」などと言って面白がっているが、草月にはそんなことを言える余裕はない。自分が口を挟むことでないのは重々承知だが、面白くないものは面白くない。
「……そうなんですか」
高杉そっくりの据わった目で、盃に注がれた酒を一気に飲み干した草月だった。
*
いついつと指折り数えた桜はついに満開の時を迎え、暖かな陽気に浮かれ騒ぐ人々の絶え間ないおしゃべりの合間にも、周りの山々から美しい鶯の鳴き声が響きわたる。
草月が下宿している『一二三屋』の品書きにも、ふきのとうやこごみなどの山菜の天ぷら、鰆の塩焼き、筍の煮物といった春らしい名が並び始めた。
誰もが春の訪れを寿ぐ一方で、幕府との関係は緊迫感を増していた。
老中小笠原長行が、長州処分案を言い渡すため、広島へ出向して、長州藩主父子らの出頭を命じたのだ。
長州側は全員病気と称して出頭を拒否。
これに対し、果たして幕府はどう出るか。重ねて出頭を命じるか、それとも一気に戦へと突入するのか。
固唾を呑んで見守っているのは、何も長州や他の諸藩ばかりではない。日本を拠点に活動する諸外国の外交官や商人らもまたそうであった。
「で、す、か、ら! もし戦になったとしても、馬関海峡を封鎖するようなことは致しません。不審な動きがない限り、航行中の外国船に砲撃するようなこともないとお約束します。石炭や薪水の供給も、これまで通り行いますので、どうぞご安心ください」
応接掛に詰めかける外国人を相手に、今日だけで、もう何度同じ答えを繰り返しただろう。
草月は深々と息をついた。朝からずっと通訳を続けて、酷使した脳みそが爆発寸前だ。
幾分長くなった日もとっぷりと暮れてしまった。空きっ腹を抱え、そそくさと掃除を終えて、さあ帰ろうとしたところへ、ひょっこり伊藤が顔を出した。
「ああ良かった。まだいた」
草月に会わせたい人がいるんだ、と告げた伊藤は、同じく役所に残っていた井上も誘って、新地にある料亭へと向かった。
「おう、来たか。入れ入れ」
案内された先では、高杉が四十歳前後の男と楽し気に酒を飲んで談笑していた。ぼうぼうと飛び跳ねた長い眉毛が特徴的な男である。高杉は男を示して、萩で陶工をしている大賀大眉だと紹介した。
「大眉は松下村塾の出でな。その縁で、色々と協力してもらっちょる。奇兵隊への資金援助もそうじゃし、招魂場を造る時にも大いに力添えしてもらった。今日は草月に相談事があるそうでな」
「相談? 私にですか?」
「はい」
答えたのは大賀だった。
「唯野さんは、西洋料理にお詳しいと伺いまして……。『パン』というものをご存じですか」
「パン……。ええ、はい。小麦粉を練って焼いた食べ物、ですよね。西洋では主食として食べられている……」
「やはりご存知でしたか」
大賀は、至極嬉しそうに、目じりに皺を寄せて微笑んだ。
「実は、兵糧として使えぬかと考えておるのです」
「え……、パンを、ですか?」
「はい。開戦して万一、戦が長引いた際、今ある兵糧米だけでは、正直、心許ない。それに、これからの季節はどんどん気温が上がる一方で、炊いた米はすぐに腐ってしまいます。何か手立てはないかと探っていたところ、安政の頃に長崎でパンの作り方を見聞した中嶋治平様という方から、異国ではパンを兵糧として用いていると聞き及びまして」
言いながら大賀は、懐から薄い冊子を取り出して見せてくれる。
表紙には、『パン製造覚書』とあった。中を開くと、パンについての説明と、材料、作り方などが絵入りで詳しく記されている。
草月は、麦粉、卵、糖……と並んだ材料の一つを指差して、
「この『本』っていうのは何ですか?」
「これは『本』と読みます。パンの生地を発酵させるための酵母のことですな」
「あ、なるほど、イースト菌のことですか。あれ、でも、日本でイースト菌って、手に入るんですか?」
「いーすときん、というのがどういうものかは存じませんが、酵母なら酒の酵母があります。実家が酒屋を営んでおりますので、入手は難しくありません。窯のほうも、私が経営している窯元がありますので、それを使えます」
酵母に窯。パンを作るのに必要な条件がばっちりそろっている。
さらに詳しい話を聞くに、大賀が作ろうとしているのは、パンはパンでも、草月が最初に想像していた、ふっくらと柔らかいパンではなく、いわゆる乾パンのようなものらしい。確かにそれなら保存がきく。
「ただ、恥ずかしながら、私は紙上の知識だけで、実際にパンを作ったことはおろか、実物を見たこともないのです。木戸様にご相談申し上げたところ、あなたならご存知ではないかと言われまして。こうして高杉さんに仲介の労を取っていただいた次第です」
「そうだったんですか。……あの、わざわざ来てくださったのに、大変申し上げにくいのですが、私も、パンは一度作ったことがあるくらいで、それほど作り方に精通しているわけではなくて……」
それも、小学校の調理実習の時以来だ。もうほとんど記憶のかなたである。
困って井上の方を見やると、
「わしも駄目じゃぞ。俊輔と同じく、食う専門じゃ。確かにイギリスにいた頃は、良く厨房に入り浸っちょったが、それはメイドと話すのが目当てで、調理の方には大して注意を払ってなかったからな」
そんな偉そうに胸を張って言うことじゃない。
そんな言葉が喉元まで出かかったが、それを言うとまたひと悶着起きそうなので、呆れた視線を向けるに留めた。
「やはり、自分たちで試行錯誤するしかないのでしょうかなあ」
大賀が長い眉を下げてわずかに落胆の表情を滲ませる。
草月は両の拳をぎゅっと握り締めた。
せっかくはるばる萩から馬関まで、自分を訪ねて来てくれたのに。
馬関に入港する外国人に、パンの作り方を聞くか? いや、たとえ詳しい作り方を聞けても、やはり実際に自分で作ってみないと分からないことも多々出てくるだろう。
ならば――
「あの! 私が長崎に行って、実際にパンの作り方を習ってくるっていうのはどうですか? 私なら、少しは英語もしゃべれるし、一応作った経験もあるから、きっと覚えるのも早いと思うんです。そうしたら、私から大賀さんに詳しく伝えられますし。――確か、高杉さんと伊藤さんは今度、藩命で薩摩に行くんですよね? その時に、長崎を経由するって……。それに私も同行させてもらうことはできませんか?」
草月が言うと、高杉と伊藤が示し合わせたように顔を見合わせ、揃って盛大に噴き出した。
「やっぱりな。言うと思った」
「え?」
「まさしく。話に聞いた通りのお人ですな」
大賀もくすくすと笑っている。
「え? え? どういうことですか?」
「大眉と話しちょったんじゃ。おのしのことじゃけえ、もし作り方が分からないとなったら、きっと自分で長崎に行くと言い出すじゃろう、とな」
「まあ」
すっかり読まれている。
「遊学費用は藩に出してもらえばいい。木戸さんに話が通っちょるけえ、すぐに許可が下りるぞ」
「いや待て待て、勝手に話を進めるな!」
割り込んだのは井上である。
「応接掛は今、猫の手も借りたい忙しさなんじゃぞ! 草月、お前もいい加減、その場の思い付きで行動するのはやめろ。お前のような奴でも、いるといないでは大違いなんじゃ。それを、自分の仕事を放り出して長崎じゃと!?」
「放り出すわけじゃありません! 出来るだけ早く習得できるように努力しますし、習得したらすぐに帰ってきます。こっちでのパン作りも、応接掛の仕事に支障が出ないようにやります。……確かに、井上さんたち応接掛の皆さんには、本当に、本当にご迷惑をおかけすると思ってます。でも、兵糧のことで懸念があるのも事実でしょう? 兵糧管理の難しさは、遊撃隊にいた時に、私も身に染みてよく知っています。それを解決する方法があるというなら、私はやってみたい」
「私も唯野さんにそうしていただけると非常に助かります。その間、私は材料の調達や窯元の準備、職人集めに専念できますけえ」
草月の熱弁を、大賀が援護射撃する。高杉がにやりと笑って、
「どうやら草月の方に分があるようじゃぞ、聞多? それに、人手のことなら木戸さんに頼んで誰か回してもらえばいい」
「……」
井上はこめかみを引くつかせながら、長々と草月を睨みつけていたが、ついには盛大な嘆息と共に「分かった」と折れた。
「行くなら完璧に作れるようになって戻って来い。確かにパンを兵糧に使えれば有用じゃ」
「ありがとうございます!」
次の日、草月はさっそく高杉に書き方を教わりながら、パン製造方法習得のための長崎遊学願を書いた。藩庁に提出すると、三日と経たずに許可が下りた。
草月に与えられたのは、十五日の遊学期間と十両の支度金。
高杉・伊藤と共に、イギリス商人トーマス・グラバーの船に便乗して長崎に着いたのは、三月二十一日の夜半を過ぎてのことであった。




