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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第44話 寺田屋事件

「風邪だな」

 腫れぼったい顔の草月を見て、木戸が断じた。

 熱はそれほど高くないものの、喉が腫れて、つばを飲み込むのさえ辛い。

 草月はしおしおと項垂れた。

「すみません。何だってこんな時に……」

 喉奥から絞り出した言葉は、別人のようにかすれていた。

 坂本龍馬立ち会いのもと、改めて設けられた話し合いの場により、ようやく薩長の合意が成されたのはつい昨日のこと。その夜は盛大な宴が開かれ、一月二十二日の今日、長州使者一行は長期の京滞在を終え、帰国の途に就くことになっていた。

「慣れない環境で気の休まらない日が続いていたところに、あの池での騒ぎだ。盟約が成ったことで安心して、一気に疲れが出たんだろう。気付いてやれなかった私も悪かった。無理はしないで、ゆっくり養生するといい」

 木戸の声には非難がましいところは微塵もなく、ただ草月を案じる気持ちだけが感じられた。

「……はい」

 草月は素直に頷いた。寝込むほどでもないので、出来れば一緒に帰りたいというのが本音だったが、下手に同行して他の者にうつすことになったらそれこそ迷惑だ。

「田中君、すまないが草月についていてもらえるか。彼女一人では、何かと不便なこともあるだろう」

「もちろんですき!」

 養生するなら、小松邸より伏見藩邸の方が都合がいいということで、草月と田中は、木戸たちと伏見まで同道し、彼らが船に乗り込むのを見送った。

 それまでの厳しい寒さが嘘のように、この日は良く晴れて春を感じさせる穏やかな陽気だった。

「心配しっさあ、草月さあ! 木戸さあらは、こん黒田了介がしっかり長州まで送り届けっもんで」

 共に長州まで行くことになった黒田が、馬でも昏倒させそうな力でばしばしと草月の背を叩いた。草月は、口から胃が飛び出すのではないかと本気で思い、この馴れ馴れしい薩摩人を拳で殴ってやりたくなった。だがそんな物騒なことが起きる前に、木戸が言った。

「それではな、草月。しっかり体を休めて戻って来い。……田中君、くれぐれも草月を頼んだぞ」

「任せてつかあさい!」

 田中がどんと胸を叩いて肯う。

「本当に無茶はするなよ。お前のことだから、元気になった途端、情報収集だとか言って、ふらふら町に出て行きかねないからな」

「……品川さん、いくら私でもそんな無茶なことしませんよ」

「お前にその気がなくても、何か危険な事態に巻き込まれるかもしれないだろう。お前は何かと厄介ごとに縁があるからな」

「早川さんまで!」

「この数日のことを思えば、否定はできないんじゃないか」

 止めの三好の言葉に一言もない。本気でしょげたふうの草月に、木戸が執り成すように明るく笑って「皆、君を心配しているんだ」と言った。

「これから忙しくなるぞ。戦に向けて、本格的に準備していくことになる。君にも色々とやってもらうことになるだろう」

「はい。すぐに治して、追いかけます」

「ああ。長州で待っている」

 木戸たちを乗せた船は、ゆっくりと川を下って行った。


                  *


 こうして伏見藩邸で養生することになった草月だったが、医者にかかることだけは断固として拒否した。そんなことをすれば、女であることがたちどころにばれてしまう。

 喉の腫れに効くという薬を処方してもらって、布団の上に横になった草月は、枕元に座った田中にすみませんと謝った。

「迷惑ばかりかけて。帰ったら、お詫びに美味しいお酒、目一杯おごらせてください」

「おお、ほりゃあ楽しみやか。……けんど、俺はなんちゃ迷惑やなんて思っとらんき。それに理由は何であれ、せっかく滞在が延びたんじゃ。京や薩摩の内情を探る絶好の機会とも言えるぜよ」

「田中さんはいつも前向きですね」

「これは高杉先生の教えでもあるき! 『男子たるもの、いついかなる時も、困ったなどという軟弱な言葉は言ってはいかん』と」

「……へえ」

(前は少し悩んでたみたいだけど、高杉さんもちゃんとお師匠さんしてるんだ)

 可笑しくなってふふっと笑う。

 一日安静にしていたおかげか、幸いにもこじらせることなく次の日には喉の腫れも引いた。大事を取って早めに床に就いたところに、その事件は起きた。

 一月二十四日、夜明けにまだ少し早い八ツ刻のこと。突如、寺田屋を数十人の幕吏が取り囲んだ。目的は、寺田屋に泊まっている坂本と、坂本と共に入京した長府藩士・三吉慎蔵である。いち早く幕吏に気付いたおりょうが坂本らへ急を知らせ、二人が応戦している隙に寺田屋を抜け出し、伏見・薩摩藩邸へ事の次第を注進した。

 邸内は俄かに騒然となった。

 草月が田中と共に広間に駆けつけると、すでに留守居役の大山彦八が指示を飛ばし、邸内の僅かな人数を集めて坂本救出の手はずを整えているところだった。その中に、石のように身を固くしたおりょうがいた。

「おりょうさん!」

「唯野はん!」

 見知った顔を見て、少しほっとしたのか、強張っていたおりょうの表情がわずかに和らいだ。

「話は聞きました。大丈夫ですか? 怪我は?」

「うちは何ともあらしまへん。……坂本はんかて、あないなへぼ役人にやられるほど柔なお人やおへん。きっと切り抜けるに決まってる」

「……そうですね」

 おりょうの言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。

 空は次第に白み始めている。明るくなれば、幕吏に見つかる可能性はぐんと高くなる。一刻の猶予もない。今しも救助隊が市中へ探索に出て行こうとした時、今度は三吉が藩邸へ飛び込んできた。坂本は手傷を負って動けず、ここから少し先の川沿いにある材木小屋に隠れているという。大山は自ら藩士数名を率い、すぐさま舟で救出に向かった。

 運び込まれた坂本は両の指の根元をざっくりと斬られ、おびただしい出血により、意識朦朧としていた。待機していた医師が、すぐさま治療にあたる。

 坂本の怪我は、指の動脈が傷ついたらしく、なかなか出血が止まらなかった。厠へ立つにも難儀するほどだったが、数日して、ようやく容態が落ち着いてきたのを見計らい、坂本と三吉、おりょう、そして草月と田中は揃って京・二本松の薩摩藩邸に移ることになった。伏見藩邸は手勢が少なく、守るに難いためだ。

 京藩邸の留守居役・吉井幸輔が数十人の手勢を率いて迎えに来て、一行は彼らに守られながら京へと入った。草月はさながら自分が超重要人物になったような変な気分だった。

 御所に近接し、いざとなれば何千人もの藩士を収容できるほどの広大な敷地を有する二本松邸は、薩摩藩の京における重要拠点である。そのあまりの広さに、初めのうちは客間と厠の往復ですら迷子になりかけるという有様で、草月や田中ら新参者たちの間でしばしば笑い話の種になっていた。

 邸内では、最強と恐れられる示現流の剣術の鍛錬を見学したり――その鬼気迫る叫び声と初太刀の凄まじさに本気で肝を冷やした――、射撃場でミニエー銃の試し撃ちをさせてもらったり、仲良くなった薩摩藩士たちと酒を飲んだり、時には真剣に時勢を論じたり、はたまた宿賃代わりに屋敷の掃除の手伝いをしたりと、日々充実した時間を過ごした。

 草月と田中が長州へ帰る船便の都合がついたのは、二月に入って間もなくのことである。


                  *


 出立を明日に控えたその日、草月は午前中いっぱいかけて世話になった薩摩藩士たちに別れの挨拶をして回った。自室へ戻る途中の廊下で、草月の名を呼ぶ声がした。

「龍馬さん」

「やあ草月さん。もう出立の準備は済んだんかえ」

「はい。さっきまで田中さんと一緒に挨拶回りをしてたところです。……途中で田中さんは、『最後にもう一度飲み比べ勝負をするぞ!』って言われて、強引に連れていかれましたけど」

「ははは、真昼間から好きやのう。ところで、草月さんは参加せんのかえ?」

「とんでもない!」

 草月は大げさに目を剥いて見せ、

「田中さんも薩摩の人も、底なしなんですもん。鯨飲ですよ! あの人たちに合わせて飲んでたら、速攻で潰れます」

「そうじゃろうにゃあ! おお、そうじゃ、時間があるなら、わしの部屋へ寄って行かんか。ちっくと頼みがあってな」

 草月を招き入れた坂本は、文机に広げてあった紙を示し、

「これを木戸さんに渡して欲しいがじゃ」

 と言った。

「あ、もしかして、この間、木戸さんから来た手紙ですか?」

 寺田屋の難の後すぐに坂本に届いた手紙で、先日の薩長の約定を簡潔に六条にまとめ、坂本に確認と裏書を求めたものである。慎重な木戸は、約定が口約束だけで、成文化されていないことを危ぶんで、わざわざ書いて寄こしたのだろう。

「相変わらず抜け目がないお人じゃ、木戸さんは」

 受け取った坂本は、はははと笑っていたものである。

 両手の怪我のせいで、すぐには裏書が出来ずに保留になっていたのだが……。

 草月が坂本の肩越しにのぞき込むと、木戸の手蹟が薄く透けて見える紙の裏に、朱墨で勢いよく文字が書かれていた。

『――この内容は天地神明に誓って間違いはない』

「これとは別に、わしから寺田屋のことについて説明した手紙も書いたき、それも一緒に木戸さんへ渡してくれるかえ」

「もちろんです」

「それと、高杉さんに会うたら、よう礼を言うとってつかあさい。高杉さんにもろうた短筒で、わしは命拾いしたんじゃき」

 京へ来る前、馬関に立ち寄った坂本は、餞別として高杉から短筒を贈られていた。幕吏に襲撃された時、その短筒で応戦し、数人の幕吏を倒した。しかし、手を斬りつけられて弾の装填ができず、やむなくその場に捨てたそうだ。

 必ず伝えます、と答えた草月は、思い付いて自分の短筒を取り出した。

「そうだ、龍馬さん、これ、龍馬さんが持っててください」

「んん?」

「その指じゃ、すぐに刀は振れないでしょう? いつまた襲われないとも限らないし、これがあったら、きっと今回みたいに切り抜けられます」

「いや、それは受け取れん。それはおまんの身を守るために高杉さんが持たせたもんじゃろう。わしが貰うわけにはいかん」

「私なら大丈夫です! 龍馬さんみたいに命を狙われてるわけじゃないし、いざとなったら、『女です』って言えば、殺されることはないかもしれないし――」

「いかん! たとえ命はとられんでも、おなごにとって死ぬより辛い目に遭うかもしれんじゃろう。わしはそんな危険を冒しとうはない」

「でも――」

「心配せんでも、わしはそう簡単に死んだりせんき。みっともなくあがいて、しぶとく生き延びてやるぜよ」

「……」

 草月は、唇を噛んで俯いた。視線の先に、未だ痛々しい包帯の巻かれたままの坂本の手が映る。

(……違う、違うんです。あなたは、今度こそ、刺客に襲われて、死んでしまうんです)

 寺田屋で坂本が襲われたと聞いた時からずっと、ひやりと冷たい手で心臓を掴まれているような感覚が消えない。

 どうして忘れていたんだろう。

 この人は、『坂本龍馬』なのに。

 今回は助かったけれど、次は、必ず殺される。『中岡慎太郎』と一緒に。

 その事実が草月の心を深く抉った。

(どうすればこの人を助けられるだろう。歴史を変えようとか、そんな大それたこと考えてるわけじゃない。ただ、この人に生きて欲しい)

「……龍馬さん、変なこと、聞いていいですか? 龍馬さんは、もし、自分がいつ、どこで、どんな風に死ぬか分かっていたら、何としてもその運命を変えて生き延びようって思いますか?」

「まっこと変な質問じゃのう」

 苦笑した坂本だったが、思いのほか真剣な表情の草月に、すっと笑みを消した。掌底でぐいと鼻をこすり、

「……ほうじゃなあ、たとえば、わしが寺田屋で死ぬ運命だったとする。もし京に来んかったら、死なずにすむとしても、それでもわしは京へ来たじゃろうな」

「どうして?」

「京ですべきことがあったからじゃ。事実、わしが京へ来んかったら、薩長の会談に立ち会えず、こうして木戸さんの手紙に裏書することも出来んかったろう。たとえ突き進んだ道の先に確実な死があったとしても、わしはするべきことをし、やりたいことをやる」

 坂本が見せるこの表情を、草月は良く知っていた。

 最期に会った時の、久坂と同じ、迷いのない、真っ直ぐな瞳。

(あの時、久坂さんを助けることはできなかった。でも。龍馬さんは……。思い出せ。坂本龍馬の暗殺。あれはいつだった、いつ――)


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