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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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     会談の行方・後

「……まったく、厄介なことになった」

 大久保は苦々しい顔で放り出すように言った。鉄面皮と言われる大久保だが、長い付き合いの西郷には、わずかな表情の違いも容易く見て取ることができた。

 あの後、長州はこれ以上の議論は不要と判じて、明日にでも帰国すると決めてしまった。薩摩人だけが残った座敷で、西郷たちは次の一手をどうするか決めあぐねていた。

「細けことをゆちょらんで、さっさと長州と組んでしめばよかとじゃなかと。幕府ん役人とは違うて気概があっと」

 武人気質の奈良原は、あの啖呵に、すっかり草月を気に入ったらしい。

 薩摩としても、ここで長州が幕軍に負かされてしまうのは避けたい事態だ。西郷は太い腕を窮屈そうに胸の前で組んだ。

「何かきっかけせあればよかとに。そう、何か、こん膠着状態を破っような何か――」


 その時、乾いた破裂音が屋敷にこだました。


                   *

 

 それより少し時は遡り。

 部屋に戻って荷物をまとめた草月は、木戸に断って庭に下りていた。帰国の前に、弥兵衛に別れの挨拶をしておこうと思ったのだ。

(たしか今日は、南側の庭の手入れをするって言ってたっけ)

 久しぶりに晴れた青空から届く日差しに、積もった雪がきらきらと反射する。眩しさに目を細めながら川沿いの小径をたどる。時折聞こえるドサッ、という音は、枝に積もった雪が落ちる音だ。

 ひときわ背の高い黒松に立てかけられた長梯子の先に弥兵衛の姿を認めて声をかける。

 急だが明日帰ることになった旨を告げると、老庭師は言葉少なに、だが心のこもった口調で別れを惜しんでくれた。

 細々と礼を言っていた草月は、ふいに言葉を切って耳を澄ませた。

「――今、何か聞こえませんでしたか」

「いや、わしは何も。この歳でだいぶ耳が遠なってしもたさかい」

「……」

 確かに聞こえた。猫の鳴き声だった。それも、切羽詰まった感じの。

 草月は雪を蹴散らして側の築山に駆け上ると、声のした方――東へと目を凝らした。

 眼下を横切る川の向こうに、まるで巨人の足跡のような不思議な形をした池がある。今朝の厳しい冷え込みのせいか、その表面は所々凍っている。その池の中ほどに――

「雪舟!」

 例の白黒のぶち猫だ。体の大半を冷たい水に沈め、僅かに残った薄い氷に辛うじて前足を引っかけるばかり。あれでは体力が持たず、すぐにも溺れてしまうだろう。

「弥兵衛さん、雪舟が!」

「『雪舟』?」

「あ、雪舟っていうのは私が勝手につけた名前で――」

 いや、今は名前なんかどうでもいい。

 とにかく早く助けなければ。

 小径を無視して、木々の間を抜け最短距離で駆けつける。だが、池のふちまで来たところで足が止まってしまった。ここから猫のところまでは一丈余りの距離がある。

 何か、何か手はないか。

 手立てがなくまごついている草月の後から、弥兵衛が梯子を持って追いついてきた。

「唯野はん、これを」

「そうか、その長梯子なら雪舟のところまで届く!」

 草月と弥兵衛は協力して慎重に梯子を池に浮かべた。

「ほら、雪舟、これに捕まって!」

 草月が必死に呼びかける。だが、雪舟は氷にしがみつくのに必死で、梯子には見向きもしない。かといって無理に梯子を近づければ、体にぶつけて氷から落ち、そのまま溺れてしまうだろう。

「唯野はん。梯子をしっかり押さえておいておくれやす。わしが行って直接捕まえて来ます」

「え!?」

 驚いているうちに、弥兵衛は老人とは思えない身軽な動きで揺れる梯子の上を四つん這いで進み始めた。

「気を付けて!」

 草月が息をつめて見守る前で、あっという間に先端へと達した弥兵衛は、雪舟の首根っこを掴んで引き上げた。雪舟は助けてくれようとしているのが分かっているのか、大人しくしている。濡れ鼠になった猫をためらいもなく懐に入れると、器用に回れ右をして、行きより幾分慎重に歩を進める。

 岸まであと残り二、三尺となった頃、突如雪舟が暴れて懐から飛び出した。たたたっと梯子の上を走り抜けると、草月に激突しながら地面の上に飛び降りて、そこで力尽きたようにへたり込む。一方、平衡を崩した弥兵衛は、踏ん張り切れずに肩から池に落ちてしまった。

「弥兵衛さん!」

 すぐに池から頭を出した弥兵衛は、しかし焦ったように手で空を掻くばかり。

「あかん、足がつってしもた!」

「弥兵衛さん、しっかり!」

 梯子は猫がぶつかった拍子にうっかり手を放してしまった。弥兵衛の立てた波に流され、手が届かない。草月は岩の上に腹ばいになるようにして身を乗り出し、両手で弥兵衛の腕をつかんだ。

(わ、)

 思いのほか強い力に、一気に二の腕まで池の中に引きずり込まれた。心臓が飛び上がるほどの水の冷たさが、急速に腕の力を奪っていく。

(だめだ、このままじゃ、引き上げるどころか、私まで溺れる……!)

「すみません! 誰か……、誰かいませんか! 助けて!」

 叫ぶ声は端から周囲の雪に吸い込まれて消えていく。叫び続けるも、一向に人の来る気配はない。

(こうなったら……)

 草月はどうにか左手を後ろに回すと、袴の腰板を探り、短筒を引っ張り出した。不自由な態勢の上、利き手でない濡れて冷え切った左手だけでは、重量のある短筒を上手く扱えない。焦るあまりにますます手が滑る。顎を使って強引に固い撃鉄を起こし、銃口を真上に向けると渾身の力で引き金を引いた。


                  *


 その音は、二階の木戸たちの耳にも届いた。

「何だ今の音は? 銃声か?」

 長州一行の間に、ぴりりと緊張が走る。

「庭の方からだ!」

 品川が庭に面した障子窓に飛びつくようにして外を見下ろした。だが、様々に植えられた木々の枝葉に遮られて良く見通せない。

 庭には草月がいるはずだ。そして、草月が肌身離さず短筒を携帯していることは、ここにいる全員が知っている。

 もしや、草月に何かあったのか。

 大刀を掴んで真っ先に部屋を飛び出した木戸を追って、品川たちも我先にと駆け出した。ひと塊に階段を駆け下りたところで、同じく銃声を聞きつけたらしい西郷らと行き会って、一瞬、警戒する眼差しを交わしたものの、今は状況を把握することが優先と割り切り、連れだって音のした南東の一画へと先を急いだ。

 木立の間から、水の跳ねる音がする。

「草月!」

 一目で状況を見て取って、躊躇なく池に飛び込もうとした木戸を制し、品川と奈良原が手早く羽織り袴を脱いで飛び込んだ。

 もがく弥兵衛を両脇からしっかりと支えて、池から引っ張り上げる。その間に田中と早川が草月を抱え起こした。

 ずっと水に浸かっていた腕が麻痺したように動かない。がちがちと歯の根を鳴らす草月の体に、木戸が自分の羽織を脱いでかけると、温めるようにごしごしと体を擦った。

 弥兵衛は医者の手当てを受けるため、すぐさま屋敷へ運び入れられ、池に入った者たちは、急遽沸かした風呂に入って冷えた体を温めた。

 かくして、決別したはずの長州と薩摩は火鉢で温められた一室に、期せずして再び会することになった。

「ああ、ご苦労様でした。いかがですか、弥兵衛の容態は」

 部屋に入って来たのは、医者に話を聞きに行っていた大久保だ。大久保は一人、救助には加わらず、すぐに屋敷に取って返すと、医者や風呂の手配を指示していたのだ。小松の問いに、大久保は抑揚のない淡々とした口調で応じる。

「命に別状はないそうです。何分、歳が歳ですので、多少の養生は必要なようですが。しばらくすれば仕事に戻れるだろう、と」

「そうですか」

 一同から、ほっと安心したような吐息が漏れる。

「唯野殿も弥兵衛も大事なくて良うございました。もちろん、この子もね」

 濡れた毛をきれいに乾かしてもらった雪舟は、今は小松の膝の上で安心しきったようにすやすやと寝息を立てている。

「それと小松様、たった今、近衛家から報せが届いたのですが――」

 大久保が続けようとした時、にわかに廊下をばたばたと歩く足音が近づいてきた。

「邪魔するぜよ!」

 大声と共に障子が勢いよく開かれる。

「坂本さあ!」

「坂本君」

「龍馬さん!」

 廊下に仁王立ちしていたのは、坂本龍馬その人だった。

「おお、そんなにいっぺんに名前を呼ばれると、なんやら照れるにゃあ。……それにしても、伏見の藩邸で聞いたら、話し合いは決裂したち聞いたんじゃけんど」

 ずかずかと遠慮なく入って来た坂本は、面白いものでも見るように、にやあと口の両端を上げた。

「いつの間にやら、仲良うなったみたいやにゃあ」

 自然と火鉢の周りに集って暖を取っていた薩長の面々は、今さらながらに、ばつの悪い顔をして互いに目を逸らした。

「そがに照れんでもええき。ほいで? そうしちゅうゆうことは、話しはまとまったゆうことでええがか?」

「いや、坂本君には申し訳ないが――」

「お待ちください、木戸殿」

 言いさした木戸を小松が制止した。

「坂本殿、会談が物別れに終わったのは事実です。ですが……。いかがです、木戸殿。一度は決別した我らが、奇しくもこうしてまた集ったのです。もう一度だけ、腹を割って率直に話し合うというのは」

「――小松様、実はそのことに関して、急ぎご報告が」

「ああ、大久保。先ほど言いかけていた件ですね? もしや、幕府の長州処分案が決まったのですか」

「はい」

 一瞬にして、張り詰めた空気が室内を支配する。

「して、その内容とは?」

「はい、それは――」


 一、十万石の削減

 一、毛利敬親の蟄居・隠居

 一、世子広封の永蟄居


「なんと――」

 それは、木戸が想定していた以上に重い処分だった。到底、受け入れられようはずもない。

「これはいよいよ、長州と幕府の戦は必至となったようですね」

 小松は膝上の猫をそっと脇へ寄せると、西郷や大久保と視線を交わした。二人が頷くのを確認し、居住まいを正して木戸へと向き合う。木戸もまた、政治家の顔になって年若い薩摩の家老に相対した。

「薩摩は、長州と幕府の戦を回避することを第一としてきました。ですがそれが成せないとなると、開戦を前提として話し合う必要があります。ただ、久光公からは決して幕府と戦うなとの厳命を受けております」

「では――」

「ですから、大前提として、薩摩は『幕府』とは戦いません。……ですが、一橋・会津・桑名とならば大いに戦いましょう」

「――!」

 小松は詭弁ともいえる論舌で、行き詰まりに見えた袋小路に、鮮やかに風穴を開けて見せた。

 一会桑は今の京の政局を牛耳っている勢力だ。朝廷とも近く、長州征討にも積極的だった。

「ただ、薩摩としては、開戦はあくまで避けたい。薩摩はぎりぎりまで戦をせぬよう、朝廷に働きかけます」

「感謝します。しかし、再三申し上げた通り、長州は上下決戦必至で一致しています。薩摩が名義をお貸しくださったおかげで、最新式の銃も諸隊に広く行き渡り、西洋式調練も形になってきている。幕軍は数の上では勝るとはいえ、所詮は諸藩の寄せ集めだ。士気もそれほど高くないでしょう。勝機はあると考えています」

「失礼ながら、長州不利の場合ですが……」

「たとえ不利とあっても、半年や一年で壊滅するような軟弱な藩ではありません」

「では、その時は我々で長州が勝てるよう、工作することといたしましょう。京・大坂へ薩摩の兵を千や二千ほど送り込んでやれば、十分、京坂を押さえるに足ります。幕府から何か言ってきても、皇国守護のためとでも言って切り抜ければよい」

 開戦がほぼ必至となったことで、これまでの煮詰まり具合が嘘のように、するすると話が進んだ。

 戦が回避された場合、開戦となった場合、長州優勢の場合、不利の場合、はたまた諸藩の動向……。あらゆる状況を想定して、対策が練られた。

 話し合いは深更に及び、細部の詰めは明日に持ち越して部屋に戻った時には、草月はこれ以上ないほどぐったりと疲れていた。だが、それは決して不快なものではなく、充足感のある疲れだった。

(めちゃくちゃ長い一日だった……)

 倒れ込むように布団の中に入って、目を閉じる。

(なんだか急展開過ぎて、頭の整理が追いつかないや……。薩摩とは完全に終わったと思ったのに、いつの間にか協力し合う話になってるし、池には落ちるし。弥兵衛さん、無事で良かった。高杉さんは今頃どうしてるかな。伊藤さんたちと、やきもきしながら待ってるだろうな。……ああ、『一二三屋』のご飯が食べたい……)

 とりとめのないことをつらつら考えているうちに、いつしか深い眠りに落ちていた。



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