第43話 会談の行方・前
『御花畑』到着から二日後の一月十四日。
霜の降りるほどに冷え込んだ朝、庭に据えられた池を臨む広間の一室にて。紋付の羽織袴の正装に身を包んだ薩長の武士たちが一堂に会していた。
木戸を中心とした長州の使者一行に対峙するは、薩摩の家老・桂久武、小松帯刀、そして西郷吉之助、大久保一蔵、吉井友実、奈良原喜八郎。薩摩藩政の中枢を担う錚々たる顔ぶれだが、いずれも三十代と非常に若い。三十一歳の小松を筆頭に、最年長の吉井でさえまだ三十八歳だ。
時候の挨拶から始まり、しばらくは当り障りのない世間話が続いた。
主に会話を主導しているのは小松と木戸である。やや硬さのある木戸に対し、小松はくつろいだ様子で、さりげなく草月らにも話を振ってくる。
やがて場が温まってきたのを頃合いと見たか、小松が西郷へと話し手を譲った。
「こうして京へお呼びたてしもしたのは他でもなか、差し迫った幕府の長州征伐について話し合うためでごわす。すでに黒田らからお聞きとは思いもすが、薩摩は此度の出兵については断固拒否する腹づもりでおりもす。じゃっどん、もし戦が始まれば、長州に甚大な被害が出ることは必定。薩摩としては、そうした事態は望んでおいもはん。ここは、長州に幕府の沙汰を受け入れ、幕府が戦を起こす大義名分をなくしていただきたく思いもす」
口調こそ穏やかだが、言っていることは剣呑極まりない。たちまち長州側に敵意が沸き上がる。中でも癇性な品川がいきり立って声を荒げた。
「ぬけぬけとよくもそんなことが言えるな。禁裏に発砲した件は、すでにご家老様が切腹なされたことで謝罪は済んでる。これ以上どんな処分を受けろって言うんだ」
「そん際、長州が『謹んで御沙汰を待つ』と書いた謝罪状に対する幕府の沙汰が未だ下されておいもはん。昨年の十一月に幕府の大目付が長州を訪れてそいを確認した折、長州は改めて『沙汰を待つ』との返事をしたはずではごわはんか。そん沙汰の内容はまだ決まっといせんが、そいさえ受けてしまえば幕府は長州を攻める口実をねごなりもす。勝ち目のなか戦をするよりよほど理にかなっとっではごわはんか。こえこっじゃっど、ここは耐えて雌伏の時じゃ思いもす」
「薩摩ほどの雄藩が、そこまで幕府を恐れるとは、実に意外なことですな」
立ち上がらんばかりの品川を制して、静かに、しかし断固とした口調で反駁したのは木戸だった。
「幕府への返事は、軍備を整える時間を稼ぐためであって、もとより長州はたとえごく軽い沙汰であっても、いささかも応じる気はありません。長州の総意は決戦一決。これは変わることのない最終決定です」
「じゃっどん、そいではみすみす幕府へ長州を攻める口実を与えることになりもす。薩摩としても、先の長州征伐の収束に一役買った身として、そいを認めてしまっこつは、諸藩の反発を招っことにつながりかねもはん。苦衷はお察ししもすが、ここは耐えてくいやんせ。さすれば時機を見て、薩摩が処分撤回を嘆願しもんそ」
「それは断じて受け入れられない」
両者一歩も引かず、話は平行線のままいたずらに時間だけが過ぎて行った。いつしか日は鋭角に傾き、室内は薄暗い。翌日、再び話し合いの場を持つことで両者合意して、初回の会談はお開きとなった。
*
ある日は早朝から。またある日は、夕刻から深夜にかけて。膳を囲みながら、あるいは酒を酌み交わしながら。時や場所、人を様々に変えて話し合いは続けられた。
毎度毎度、息詰まるような会談に、大した発言をするわけでもないくせに気力だけはやたらと消耗する草月にとって、庭を散策することは格好の息抜きになっていた。自然と庭師の弥兵衛と顔を合わせることが多くなり、親しく話すようになるのにさほど時間はかからなかった。職人気質で口下手だが豊富な草木の知識を持つ弥兵衛は、様々に植えられている木々の名前や特徴を問われるまま惜しみなく草月に教え、草月はそのお礼に重い梯子を持ったり、剪定した枝を運ぶのを手伝ったりした。
時々見かける、草月が『雪舟』と勝手に名付けた白黒のぶち猫は相変わらずつれないが、餌をちらつかせると、『仕方がないなあ』と言わんばかりの尊大な態度で触らせてくれる。
さて、その日も朝から、もう何度目かになるか分からない話し合いが続けられていた。たが、薩長の主張の隔たりは大きく、一向に妥協点を見出せずにいた。
木戸は長州がいかに尊王を志し、朝廷のために励んできたかを、文久年間まで遡って微に入り細を穿つように事細かに語り、その長州が朝敵の汚名を被るまでに至った悲運を、抑えた声音で説いた。
その中で木戸ははっきりと名指ししないまでも、長州の今の不遇は君側の奸、すなわち会津と薩摩の工作が原因であると主張したが、敵もさるもの、西郷は挑発に乗って反駁することはせず、いちいち「ごもっともである」としかつめらしく頷いていた。
そのくせ、薩摩は持論を譲る気配は毛ほども見せない。いわんや提携の話をや、だ。
長州一党の方針は、こちらからは提携の話を持ち掛けないことで一致している。今の長州の窮状を鑑みれば、提携とは名ばかりで、一方的に薩摩に援助を乞うような形になることは明白であるからだ。
手詰まりなのは薩摩にしても同じであった。薩摩としては何としても長州と幕府との開戦は避けたいのだが、長州は開戦必死の構えを崩さない。提携の話を振って来ない長州の胸の内も理解できるが、かといって薩摩から提携を持ち出せば、長州に憐憫の情をかけるようでそれは本意ではない。
無為に時間が過ぎていくばかりの状況に耐えかね、ついに品川が爆発した。
「のらりくらりと言い訳ばかり並べやがって。幕府の出方を窺うばかりで、結局幕府が怖いんじゃないか。この期に及んで、薩摩はまだ幕府と正面切って戦う気がないのかよ! わざわざ俺たちを京まで呼びつけたのは何のためだ! 俺はそんなしみったれた言葉を聞きに来た覚えはないぞ、この腰抜け野郎!」
「腰抜けとは聞き捨てないもはん! 取り消しやんせ!」
品川に負けず劣らず血の気の多そうな奈良原が憤怒に顔を赤くした。
「は! 気概ばかりは一人前の武士のつもりか、芋侍め」
「芋じゃと!?」
「芋を芋と言って何が悪い」
「おのれ言わせておけば! これ以上の愚弄は許さんど! 表へ出やんせ、薬丸示現流の恐ろしさ、そい身体に刻み付けてやっど!」
「そこまで! 落ちつきやんせ!」
大刀を引き付け、片膝立ちになった奈良原を制したのは西郷の鋭い言葉だった。
奈良原はたちまち借りて来た猫のように大人しくなった。
「ふん、ちょっとは骨のある猪かと思えば、飼いならされた駄馬か」
「なにを」
「よせ言っちょっど、喜八どん」
湯気の出そうなほど顔を真っ赤に染めた奈良原は、鼻息荒く品川を睨みつけながら、それでもしぶしぶ引き下がった。
「ふん。話し合いなどまどろっこしいことなどせずに、この場で全員斬って捨てたほうがよほど世のためだ」
草月の隣で三好がぼそりと真顔で物騒なことを呟いた。すかさず木戸が諫める。
「やめろ、三好。弥二、お前もだ。挑発するような真似は止せ」
ぎすぎすした場の雰囲気を変えようという意図か、西郷に代わって、大久保が口を開いた。
「こちらからもお聞きしたい。なぜ長州は頑なに幕府からの処分受け入れを拒まれるのです。万が一戦に及べば、甚大な被害は免れないでしょう。まだ幕府からの処分案は決まっていないが、軽い処分で済む可能性もある。それならば、面従腹背の精神で、処分を受け入れた方が長州としては国力の温存になるのでは」
「『なぜ』? 薩摩は本当に分からないんですか」
声変わり前の少年のような、男にしてはやや高い声の応えは長州側の末座から。
大久保はゆっくりとそちらへ顔を向けた。
確か、唯野草月という名前だったか。
これまで一貫して控えめで聞き役に回ることの多かったため、印象が薄く、正直、大して気にも留めていなかった。
だが今、こちらをまっすぐに見つめる両の眼には、炯々と強い光が宿っている。
「では逆にお尋ねしますが、薩摩こそなぜ幕府の沙汰を受けろなどと言えるんですか? もし薩摩が長州の立場だったら、いかがです。仮に、桂様や小松様が切腹、西郷さんや奈良原さんが斬首になって――失礼なこと言ってすみません――、大切な同志を山ほど亡くして、それでもまだ処分が足りないと言われても、大久保さんは大局を見ればそれもやむ無しと思えるんですか」
「それが政治的判断というものです。感情に流され、大義を見失っては本末転倒だ」
「……そうですか。率直におっしゃっていただいてすっきりしました。なら、私も率直なところを申し上げます」
草月は深々と息を吸い込むと、「私は薩摩は大嫌いです」と堂々と宣言した。
「……は」
「ここへの旅すがら、黒田さんとはすっかり慣れ合ってしまったし、屋敷の人は皆親切だし、食事は美味しいし、至れり尽くせりで、薩摩のことうっかり好きになってしまいそうで猛烈に自己嫌悪でしたけど、これで心おきなく嫌いでいられます!」
あまりにも清々しく言い切ったものだから、大久保や西郷はおろか、奈良原でさえも腹を立てる気概をそがれて呆気に取られている。
一方で、啖呵を切った草月は、今さら我に返って小さくなって首をすくめた。
「すみません、出過ぎたことを……! あの、木戸さん、どうぞ続けてください」
「いや、私の言いたいことは君がすっかり言ってしまった」
木戸は可笑しそうに、はっはっは、と声を立てて笑い、
「聞いた通りだ。確かに窮地にあるとはいえ、長州には長州の誇りがある。薩摩からすれば、長州は激情にかられて大局が見えていないと映るのかもしれないが、たとえ建前であっても、誇りを捨て、幕府に頭を下げるようなことはしない」
「なんち! 木戸さん!」
「すまんな、田中君。君や坂本君たちの尽力には感謝しているが、これだけは譲ることが出来ぬ一線だ。たとえ四方から大軍に攻められようと、防長二州、容易く幕府に屈しはせん。散々に抵抗して、幕軍に乱れが生じ始めたところで、兵を引くよう、私が必ず調停してみせる」
力強く言い切った木戸の顔を草月はまじまじと見つめた。それに気付いて、木戸はいぶかし気に問うた。
「何だ」
「私、久しぶりに木戸さんのこと恰好いいって思いました」
「……久しぶりは余計だ」
木戸が憮然として言い、それに長州の者たちはいっせいに噴き出した。品川が笑い顔のまま、
「いや、草月のこと責められませんよ、木戸さん。これまでの愚痴を延々とぶち上げているのなんて、隣で聞いてる俺でさえ、心配でしたから」
「お前、そんなことを思っていたのか」
「うわ、ここでお説教は勘弁してくださいよ!」
いつの間にか、長州側に漂っていた悲壮な雰囲気は消え、前を向く熱い闘志が各々の瞳に宿っている。
一同は顔を見合わせ、頷いた。
言葉はいらない。
状況は何も変わっていない。だが、確かに、皆の心が一つになった瞬間だった




