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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第42話 御花畑

 ここ数日降り続いた雪も、夜のうちに止んだようだった。分厚い灰色の雲に覆われた空の下を、一行は薩摩の船に乗り、ゆっくりと鴨川を北へと進んでいた。ごうごうと吹きつける冷たい風のせいで、剥き出しの耳がもげそうなほどに痛い。だがそんな痛みも気にならないほどに、眼前を通り過ぎる京の光景に草月は言葉を失っていた。

 かつて整然と並んでいた町屋も寺社も、今は見る影もなく、ただ雪に覆われた更地が目に付く。ぽつりぽつりと点在する再建された真新しい商家が、かえって周りの荒廃具合を浮き立たせていた。

 河原にはいくつも掘っ立て小屋が立ち並び、この寒空に着物一枚の粗末な格好をした人々が、身を寄せ合って暮らしている。

 ――これが、自分たちが引き起こした戦の結果。

 知らず、船べりに置いた手に力が入った。

 苦いものがこみ上げてきて、ぐっと奥歯を噛みしめる。

「……酷いな」

 隣に座る早川がぽつりと漏らした呟きに、草月は無言で頷いた。

 長州藩邸のあった一画を通り過ぎ、二股に分かれた川を左へと舵を切る。この辺りは大火を免れたようだが、通りにはほとんど人影はなく、まるで住民全てが息をひそめているかのようにひっそりと静まり返っている。

 やがて船は、眼前にそびえる広大な邸宅の中に吸い込まれるようにして入って行った。目的地である小松帯刀邸、通称『御花畑』だ。

 個人の邸宅というにはあまりにも贅の尽くされた場所だった。敷地面積は伏見の藩邸ほどもあろうか。広大な敷地の中央を東西に横切るように川を引き込み、北に広々とした屋敷と茶室を配している。川は屋敷の半ばを過ぎたところで南へと直角に曲がり、それと並行するように大きな池のある美しい庭園が広がっていた。

 まるで平安貴族でも出て来そうなお屋敷だと思ったら、元々は公家の近衛家の屋敷で、今は近衛家から借り受けているものだということだった。雅な雰囲気もむべなるかな、である。

 庭園を見下ろせる二階の一室を与えられた一行は、案内人が下がるのを待ち、木戸はさっそく薩摩との話し合いについて念入りに打ち合わせを始めた。

 真剣に聞かなければと思うのだが、ともすると草月の思考はあちこちに跳んだ。

 目の当たりにした京の現実。

 失われた大勢の命。

 場違いなほど贅沢な自分たちの待遇。

(私たちに、何か、出来ることはないのかな。……いや、もとはと言えば薩摩が長州を追い落とさなかったら――)

「草月、聞いているのか?」

 木戸の声に、はっとして我に返った。

 皆の目が一斉に草月を向いている。

「……すみません」

「君が何を考えていたかは大体分かる。……だが、目的を見失うな。我々の使命は、あくまで薩摩との提携を取りまとめることだ。確かに京の現状には胸が痛むが、ここで我々が多少の施しをしたところで、それはただの自己満足にすぎない。朝敵という長州の汚名を雪いで初めて、堂々と京へ入り、京の人々のために力を尽くすことが出来るんだ」

「……はい」

 木戸の言う通りだ。

 今でも薩摩は憎い。提携なんて、絶対に嫌だ。けれど、それでは何もできない。今必要なのは力だ。たとえそれが仲間の仇の力であっても。

 草月はようやく腹を決めた。

 もう一度「すみません」と頭を下げると、木戸の話に集中して耳を傾けた。


                     *


 障子戸を叩き壊す勢いで吹いていた風も昼過ぎには小康状態になり、草月は木戸に断って庭へと下りた。

 降り積もった雪のせいで、綺麗に整えられた木々も、土も、庭石も、燈籠も、橋も、見渡す限り、全てが白と黒の世界だった。

 ほうっ、と感嘆の溜息が漏れる。足の赴くまま、奥へ奥へと分け入っていくと、小径の先に、うずくまる人影を見つけた。後ろを向いているため年齢は良く分からないが、武士のようだ。

「あの、大丈夫ですか!?」

 雪を蹴散らしながら駆け寄る。武士が驚いたように体を起こして振り返った。その拍子に、武士の足元に隠れていたものが草月の目に入る。

 こんもりと積もった雪のかたまり――いや、雪ではない。白と黒のぶち猫だ。そこへきてようやく、武士が猫を構っていただけなのだと気が付いた。

「すみません! 私てっきり、お加減が悪いのかと――」

「ああ、驚かせてしまったようですね。こちらこそ申し訳ない」

 柔らかな物腰で立ち上がった武士は、近くで見ると意外に若い。三十前後くらいだろうか。白皙の肌に、寒さのせいだろう、鼻の頭だけが少し赤い。

「とんでもない、こっちが勝手に勘違いしたので……」

 男は、良いのですよ、と穏やかに微笑んで、それからわずかに首をかしげた。

「初めてお会いするように思いますが、もしや……、長州のお客人ですか」

「あ、はい。見事なお庭なので、拝見しておりました。……あの、勝手にいけなかったでしょうか」

「構いませんよ。どうぞご自由にご覧下さい。自慢の庭なのです。庭師が毎日丁寧に世話をしてくれているおかげです」

「ええ、本当に綺麗ですね。まるで水墨画の中に入り込んだみたい」

「……水墨画、ですか。あなたは面白いものの見方をされますね」

 おかしなことを言ってしまっただろうか。だが男の声音にはからかうような色はない。むしろ至極楽しげだ。

 気恥ずかしさを誤魔化すように、「かわいい猫ですね」と言いながら、草月は先ほどの男に倣ってしゃがみ込んだ。そっと猫に向かって伸ばした手は、だが、威嚇する声と共に寸前でばしっと払いのけられてしまった。

 むう、……残念。

 内心の落胆を押し込めて、草月は男を振り返った。

「こちらで飼われてらっしゃる猫なんですか」

「そういうわけでは。時々、ふらりと現れるのですよ。ここが縄張りになっているのでしょうね。弥兵衛――先ほど申し上げた庭師ですが、彼などは、そこら中に粗相はするし、池の鯉に悪戯するからと良い顔をしないのですが」

 武士が手を伸ばしても、草月の時と違い、猫は嫌がる風を見せず、大人しく撫でられている。

「猫、お好きなんですね」

 一抹のやっかみを込めて草月が言うと、きょとんとした顔が返って来た。

「『好き』、ですか……。今まで考えたことがありませんでした。けれど、そうですね、この猫を構うのは楽しいので、きっと好きなのでしょう」

 ふふふ、と屈託なく笑う。

(……なんか、変な人だな)

 相手は薩摩の人間だと分かっているのに、彼のまとう穏やかな雰囲気につられて、暗い感情は湧いてこない。

 実は以前、長州藩邸でも猫を飼っていたのだと話せば、ほう、と興味深げに目を見開かれる。聞き上手の武士につられるように、草月は気付けばあれこれと話していた。

 ――と、猫が突如、ぴん、と耳を動かした。身じろぎをして男の手の中から抜け出し、あっという間に駆け去って行く。どうしたんだろうと思う間もなく、きゅ、きゅ、と雪を踏みしめる音と共に小柄な老人が現れた。半纏に地下足袋。腰にはいくつもの鋏をぶら下げている。一目で、先ほど武士の話に出た弥兵衛という庭師だと知れた。

 草月たちに気付き、足を止めて丁寧にお辞儀をした弥兵衛は、ちらりと雪の乱れた跡に目を向け、

「また猫を構っておいでやったんどすか」

「それは――」

「いえ!」

 咄嗟に武士の言葉を遮った草月は、猫の足跡を隠す様に前に出た。

「私が、こちらの庭を案内して頂いていたのです。ええと……、そう、特に、ここからしゃがんで見る景色が最高で!」

「……そうどすか」

 弥兵衛は淡々と言って、白皙の男に向き直った。

「あまり長く外にお出になるとお体に障りますよって。ほどほどにしてお戻りください」

 再び丁寧に頭を下げると、慣れた足取りで去って行った。

「助かりました。おかげで小言を免れました」

「同じ猫好きのよしみです。お気になさらず」

 ふふっ、と共犯者の笑みを交わしたあと、武士は「さてと」と、袴の裾に付いた雪を軽く払った。

「もっとお話ししていたかったのですが、ここまでのようですね。またお会いしましょう、唯野殿」

 はい、と答えかけて、あれ、と草月は首をひねった。

(私、自分の名前言ったっけ?)

 草月の心を読んだように、男はにっこりして言葉を継いだ。

「黒田から報告を受けていますよ。長州の使者の中に、華奢な見目に反して、なかなかに大胆不敵な御仁がいると。……あなたのことでしょう? 唯野草月殿」

「……」

 なんだろう、これは。

 知らず、心臓が早鐘を打つ。

 『黒田から報告』?

 もはや目の前の好人物が、たんなる猫好きの武士ではないことは明白だった。

 折しも分厚い灰色の雲が途切れ、かそけく柔らかな日差しが男の姿を照らし出す。

「あの、あなたは……」

「申し遅れましたね。私は島津家家中、家老の職を仰せつかっております、小松帯刀と申します」

「……は」

 息が、止まるかと思った。


                        *


「はあ!? 家老の小松帯刀に会ったぁ!?」

「ええ、まあ」

 まだ少し混乱した頭で部屋に戻り、集まっていた木戸らに報告すれば、たちまち品川が噛みついてくる。

「それで、どんな話をしたんだよ。何か有益なこと聞き出せたのか?」

「どんなって言われても……」

 のんびり猫談議に花を咲かせていたと言えば、全員から呆れた目を向けられた。

「だって、まさかあのふわふわした人がそんな偉い人だなんて思わなかったんですよ! ……私、長州の不利になるようなことしてしまったでしょうか」

 こちらの内情を漏らすようなことはしていないはずだが、敵陣をふらふらと散歩し、のん気に猫を構うような能天気な奴が使者の中にいると思われたかもしれない。

 不用意に庭に下りたことを今さら激しく後悔したが、時すでに遅し。

「まあ、小松殿が猫好きじゃち分かっただけでも一つ収穫じゃ。のう、草月さん」

 肩を落とす草月を、無理やりに田中が慰めてくれた。




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