伏見にて・後
外へ出た途端、突き刺さるような寒さが全身を包んだ。ぶるりと身をすくませ、首に巻いた布を口元まで引き上げる。一昨日から降り始めた雪は止むことなく今も降り続き、視界を白く覆っている。
寺田屋まではおよそ八町ほどの距離だ。左右に寺の立つ細い通りを、ぎゅっ、ぎゅっ、と雪を踏みしめながら、南へ向かって歩いて行く。大股で足の速い黒田に合わせるため、草月は自然と小走りになる。
道半ばを過ぎたあたりで、視界の隅をふいに赤茶のとら猫がよぎった。
(あれは――)
頭が認識するより早く、体が先に動いていた。
「草月さあ!? いけんした!?」
突然、猫を追って走り出した草月の背に、黒田の驚いた声がかかる。しかし、草月の頭は目の前の猫のことでいっぱいだった。塀の上を器用に走り抜ける猫の姿を見失わないように、必死でついて行く。脇の薄暗い路地へと入り込んだところで、あっと言って立ち止まった。目の前が、立てかけられた材木でふさがっていて、これ以上先に進めない。猫は難なくその間をすり抜けて、たちまち小さくなっていく。
「待って!」
草月の必死の叫びにも猫はまるで気にした風もない。
「――小萩!」
猫が、ぴたりと足を止めた。振り返り、じっとこちらを見る。
どれくらいそうして見つめ合っていたであろうか。ふいに、猫の耳がぴくりと動いた。再び動き出そうと前足に力を込めたところへ、路地の反対側から息せき切って走って来た商人風の男が、暴れる猫を無理やり捕まえて竹かごに放り込んだ。
「やれやれ、もうちょっとで逃がすとこやったわ。……もうこないなてんごしたらあかんえ。あんさんは大事な人質なんやさかい。あんさんがこっちの手にあるゆうん知ったら、あの強情なおなごも今度こそ折れるやろ」
物騒な言葉を吐いた男は、立ち尽くす草月には気付かずに、にやりと唇をゆがめて笑い、来た道を引き返していった。
「草月さあ? 一体なにごとじゃ」
追いついてきた黒田が当然の質問をした。
「すみません、知った猫に似ていたので……」
今の男の言葉に釈然としない思いを抱きながらも、すみませんと重ねて謝り、行きましょう、と黒田を促した。
*
寺田屋は相変わらずの繁盛ぶりだった。以前訪れた時にはいなかったが、奉公人であろうか。大勢の客に交じり、まだ年端もいかない小さな子供が数人、ちょこまかと器用に人の間を駆け回っている。その内の一人を呼び止め、お登勢を呼んでほしい旨を伝える。
(――太助も生きていたら、あの子くらいの歳になってたかな)
利発そうなその子供に、もう今はいない幼子の面影を重ねていると、「あれまあ」と言う明るい声と共にお登勢がやって来た。
「誰や思たら、草月はんやおへんか。薩摩の黒田様まで。えろう変わった取り合わせどすなあ」
あの夏と変わらぬ快活な笑顔が嬉しい。草月は深々と頭を下げた。
「ご無沙汰しております、お登勢さん。色々良くしていただいたのに、全然連絡もせずにすみません」
「ええてええて。大変やったて、坂本さんから聞いてますえ。さあさ、上がっとくれやす。そないに鼻の頭赤うにして。今、熱いお茶用意させるよって」
相変わらずの強引さも健在だ。促されるままお登勢の後に続こうとして、戸口の方から聞こえた「おかえりやす」の声に何気なくそちらへ顔を向けた。
「あ」
そこにいたのは先ほど見かけた商人風の男だ。小脇に猫を入れた竹かごを抱えている。
「……あの、お登勢さん、あの人は?」
「ん? ああ、長兵衛はん? 京の六条で日野屋ゆう木綿問屋をしてはるお人や。長兵衛はんがどないかしたん?」
長兵衛は、女中と何やら楽し気に言葉を交わしている。
長兵衛が猫を捕まえた時の様子を伝えると、お登勢は眉をひそめた。
「なんや怪しおすな。そういうことやったら、おりょうに探らせてみまひょ」
「おりょう?」
「坂本はんに頼まれて、うちで預かっとるおなごどす。ほれ、ちょうど今、帳場のとこで番頭と話してる女中がおりますやろ? あれがそのおりょうどす」
「あの人が」
女としては大柄な方になるだろう。ちょっときつめの顔立ちの美人である。
お登勢はおりょうを呼びつけると、さりげなく猫のことを聞き出すように言いつけた。
黒田と共に奥の客間に通された草月は、まずはと丁重な礼と共に借りていた金を返そうとしたが、お登勢は「あれはうちの気持ちやさかい」と言って頑として受け取らなかった。
「じゃあ、これで何か美味しいお菓子でも買って、お子さんや店の人たちと一緒に食べてください」
と重ねて差し出すと、ようやく受け取ってくれた。
「――あれから、京の様子はいかがですか」
簡単に互いの近況を交換し合った後、草月が改まって切り出すと、お登勢は「それがなあ……」と言葉を濁した。溌溂とした表情しか見せたことのないお登勢の顔に、わずかに翳りが浮かぶ。
「せや、ええもんがあるわ」
立ち上がったお登勢は、間もなく数枚の紙を持って戻ってきた。
それは、戦の様子や被害状況などを地図や絵入りで克明に報じた読売だった。それによると、戦による火事で焼失したのは京市中の実に半分以上。一般市民の死者は二百四十人、 怪我人の数を含めると千人を超えたとあった。
そこに記された数字を、草月はゆっくりと指でなぞった。無機質にまとめられた『二百四十』という数字の中に、草月を慕ってくれた幼い太助がいた。誰かにとってのかけがえのない人がいた。
「親を亡くした子供もぎょうさんおって、うちでも何人か奉公人として引き取ったんどす。さっき、うちを呼びに来た子もそうや。あの子の母親は火事で崩れた家の下敷きになって、父親は流れ弾に当たって亡うなったそうどす」
お登勢が言ったちょうどその時、件の子供が、新しい茶を持って入ってきた。
たどたどしい仕草ながらも、一生懸命に仕事をこなす子供の痩せた小さな体を、草月は堪らなくなってぎゅっと抱きしめた。
「――っ、お武家さま?」
「ごめん、ごめんね……」
草月は、うわ言のようにただ「ごめんね」を繰り返した。
*
かろうじて命を拾った者も、その大多数が今も不自由な生活を余儀なくされているとお登勢は言った。
生活苦に拍車をかけているのは急激な物価の上昇だ。米の値段一つとっても、二年前の同時期と比べて三倍にまで跳ね上がり、その値は落ち着きを見せるどころかまだまだ上がる気配だという。
お登勢の言葉を、草月だけでなく黒田までもが神妙な顔で聞いていた。
「確かに楽とは言えへん状況やけど、負けてへんえ。京のもんはしぶとおすのや。中には立派に店を再建したお人かていてはるし――」
取りなす様に言いかけた時、接客を終えたおりょうがやって来た。
「あの日野屋はん、とんだすけこましやわ」
おりょうは開口一番、吐き捨てるように言った。
なんでも、島原の加賀屋という置屋にいる意中の芸妓が色よい返事をくれないことに業を煮やして、その芸妓が可愛がっている猫を連れ出したらしい。島原は、市中から外れた場所にあったのが幸い、大火の被害を免れている。
猫を返してほしくば「うん」と言え、というわけだ。
「なんて陰湿な奴! 姑息な手を使って無理やりおなごを手に入れようなんて!」
草月がたちまち怒りを面に表せば、黒田も臭いものを嗅いだような顔で、
「よくもまあ、そいを恥知らずにもべらべらと他人に語っとは。なんち見下げ果てた奴じゃ」
「うちの店で、そないないけずされるやなんて、寺田屋お登勢もえろう舐められたもんや」
お登勢はきりきりと眉を吊り上げた。
「おりょう、ご苦労やけど、今すぐ加賀屋はんとこ行って、事情をお話ししといで。うちのいっとう早い船使ってええさかい。あのお客はんのことはこっちでなんとかしておくよって」
「へえ」
おりょうは一つ頷くと、すぐさま船着き場へ駆けていく。
後に残った三人は、車座になり、商人を懲らしめる策を練った。
*
日野屋長兵衛は、猫の誘拐が首尾よく運んだことに上機嫌で煙草を呑んでいた。
突然、かごの中に入れた猫がふぎゃー、と興奮したような鳴き声を上げて暴れ出した。
「な、なんや。どないしたんや」
慌てて煙草の灰を煙草盆に落としているうちに、猫はかごを抜け出してわずかに開いた障子の隙間から疾風のように廊下へと出て行ってしまった。
「あいつ、また! こら、待ちなはれ!」
盛大に舌打ちした長兵衛が廊下へ出たのと、
「なんすっとか、こいつ!」
向かいの部屋から険しい男の声がしたのは同時だった。
もしやと中を覗いた長兵衛は、猫が厳つい顔をした武士の足元にまとわりついているのを見て、真っ青になった。あたふたと駆け寄り、力尽くで猫を引きはがした。
「す、すんまへん、とんだ粗相を……」
「これはおはんの猫か! 武士の命たる刀に触っとは、どげな料簡じゃ!」
「すんまへん、すんまへん、堪忍しておくれやす」
「飼い猫の責任は飼い主の責任。この責、そん首で償ってもらおうか」
長兵衛の顔が真っ青を通り越して土気色になり、額に脂汗が浮かんだ。
「い、いや、実を言うたら、この猫はうっとこの猫ではありまへんですよって……」
「何!? おはんの部屋から来っのをおいはこの目で見ちょっど!」
凄まれた長兵衛は「ひええっ」と情けない声を上げて、
「ち、違うんどす! こ、この猫は島原にある加賀屋ゆう置屋の芸妓が飼っとる猫なんどす!うちは一時預かっとるだけで……。せやさかい、お叱りはその『豆佳』ゆう芸妓に……」
「ぎを申すな! 誰の飼い猫じゃろうと、今、連れちょるのはおはんじゃろうが! それをおなごのせいにすっとはなんたる腑抜けか!」
地獄の閻魔もかくやという恫喝に、長兵衛は腰砕け状態でただあわあわと唇を震わせるばかり。黒田はそれを軽蔑しきった目でみやると、ふいと顔を背け、隣室へ向かって声をかけた。
「おおい、聞いた通りじゃっど! 出てきやんせ」
へ、と商人が間の抜けた顔を向けた先には、お登勢と共に、若い女の姿がある。
「ま、豆佳! なんであんたはんがここに……!」
「そないなこと今はどうでもよろし」
色白の肌を怒りで赤く染めた豆佳は、長兵衛の言葉をぴしゃりと跳ね除けた。
「それより、今のお言葉は聞き捨てなりまへんな。我が身可愛さにうちの命を差し出そうとするやなんて、どないなことどす? うちを身請けしたら、生涯慈しんで守る言うてくれたんとちゃいますのん?」
「そ、それは……」
「もうよろし。日野屋はんが口だけのお人ゆうんがよう分かりました。身請け話は金輪際なかったことにしてもらいまひょ」
「そ、そんな……」
「男が女々しいこと言っちょらんと、首が大事なら、さっさと立ち去りやんせ!」
「ひ、ひええっ」
長兵衛は、周りの軽蔑しきった視線から逃げるように、こけつまろびつ出て行った。
隣の部屋からこっそり覗き見ていた草月とおりょうは、その逃げっぷりに大いに留飲を下げた。
「さっすが、すごい迫力でしたよ、黒田さん。あいつのあの慌てようったら!」
「あいでも五割ほどじゃ。薩摩隼人の本気はあいではすまんじゃっで」
言いながらも黒田はまんざらでもなさそうに鼻の穴を膨らませた。
「見てて胸がすっとしました」
表立って動けない草月は、マタタビを使って猫を黒田のもとまでおびき寄せる役だ。ちょっと物足りない、と思ってしまうのは、すっかり荒事に慣れてしまったせいだろうか。
いまだ黒田の足元でなごなごと喉を鳴らしていた猫を、豆佳が両手でそっと抱き上げる。
「ツユ、無事で良かった」
「ツユ?」
草月は弾かれたように豆佳を振り返った。
「その子、『ツユ』って言うんですか!?」
「へえ、そうどすけど……」
「あの、もしかして、その子の母猫の名前は『小萩』じゃありませんか?」
「どうして知ってはるんどす?」
今度は豆佳が目を丸くする番だった。
「ああ、やっぱりそうなんだ」
小萩と同じ、赤みを帯びた茶色いとら柄の毛並み。
別れた時、まだほんの小さかった子猫は、今は母猫と見紛うほどに大きくなった。
「ツユ」
そっと呼びかけると、ツユは母猫ゆずりの大きな琥珀色の瞳でじっと草月を見つめ返した。
「草月はんは、ツユをご存知なんどすか」
「はい。ツユたちを桔梗屋へ預けたのは私なんです」
簡単に事情を話すと、
「そうやったんどすか……」
豆佳は大きく頷いた。
「今、ツユは小萩や兄弟たちと一緒に、桔梗屋はんのとこから、うちのおる加賀屋でお預かりしてるんどす。ややこがおるところに猫を置いておくのは良うないですよって」
「ややこって、もしかして辰路さんの……?」
「へえ。秀次郎ゆう名前の、元気な男の子どす。お辰ちゃん、毎日、秀次郎ちゃんのお世話にてんてこまいしてはります」
「秀次郎ちゃん……。そうですか……」
(そっか、産まれたんだ。久坂さんの子供……。久坂さんの――)
「草月はん?」
「あ、ごめんなさい、なんでもないの。ただちょっと、感動して……」
草月は目じりに浮かんだ涙をそっと拭った。
黙ってそのやり取りを見守っていたお登勢が、黒田とおりょうを促して静かに部屋を出て行く。
「豆佳さん、どうか、辰路さんにおめでとうと伝えてください。それから、ややこの御父上は、最期までその人らしく、立派だったと」
豆佳は真剣な表情で、必ず、と頷いた。
「お辰ちゃん、きっと喜ばはります。あの戦の後は、見てられへんくらいに気落ちしてはったさかい。踏ん張れたんは、ややこがおったからや思います」
「うん」
きっと久坂が守ってくれたのだ、と草月は思った。
「――せや、草月はん、よかったらこれ、ツユにつけてやってくれまへんやろか。日野屋はんが加賀屋から連れ出した時に落ちたみたいなんどす」
豆佳が取り出したのは、鈴のついた桃色の丸い組紐だ。少し色褪せているが、確かに草月がツユのために選んだものである。以前は長すぎて二重に回して結んでいた紐が、今はぴったりの長さになっている。首の後ろで蝶結びにして、そのままツユを抱き上げると、ツユは大人しく腕の中に収まっている。あの頃とは違う、ずっしりとした重み。ふわふわとした柔らかな毛を慈しむように優しく撫でた。
「……大きくなったね、ツユ」




