第41話 伏見にて・前
途中、何度か悪天候に見舞われたものの、幸い難破することもなく船は進んだ。下津井の共闘を経た後は黒田とも馴染んで、船旅はぐんと快適になった。
だから、草月はつい忘れそうになってしまっていたのだ。この旅の目的を。
それを思い知らされたのは、播磨で船を乗り換えてから数日後の一月四日のことだった。その日の昼過ぎ、瀬戸内海を抜けた船は、ついに大坂へとたどり着いた。枝豆のさやのような形の島を右手に見ながら川を奥深くまで入っていくと、前方に、諸藩の所有する大小無数の蔵屋敷が見えてくる。縦横に掘割を張り巡らせたこの一帯は、地図上で見ると漢字の『目』をさらに細分化したような形になっている。草月たちは、その『目』の上にあたる部分、柔らかな曲線を描く眉形の中之島へとさらに船を進めた。
隙間なく並んだ蔵々の中に、一か所だけ、不自然にぽっかりと空いた場所がある。
長州藩の蔵屋敷があったところだ。先の京の戦のあと、幕府によって破壊されたのだ。荒れるに任せた廃墟を前に、甲板に出ていた長州藩士たちは一様に声を失くしてただ食い入るように見入っていた。
建立時の姿を一度も見たことのなかった草月でさえ、言いようのない虚しさが胸の中を吹き抜けていく。
――そうだ。自分たちは物見遊山で来ているのではない。長州の命運を背負っているのだ。
緩みかけていた気を引き締める。
品川も同じことを思ったのか、草月の耳元に顔を寄せると、小声でささやいた。
「草月。ちゃんと短筒に弾は入ってるな。何かあったらすぐに撃てるように心づもりしておけよ」
「……はい。向かうは薩摩藩邸。敵地に乗り込むようなものですもんね」
「ああ。黒田の奴は最初に思ってたより悪い奴じゃないとはいえ、薩摩の人間に違いはないからな。薩摩が俺たちを幕府に突き出すよう命じてるなら、あいつは迷いなくそれに従うはずだ。万一の際は、俺たちが盾になってでも木戸さんを逃がす。いいな」
「はい」
草月は短筒のひんやりとした感触を指で確かめ、しっかりと頷いた。
*
一行は薩摩の蔵屋敷でしばし旅の疲れを癒した後、みぞれ混じりの雪がちらつく八日の早朝、薩摩の船で淀川をさかのぼり、伏見へと向かった。
薩摩の伏見藩邸は、町を南北に流れる川が大きく湾曲したところにある。敷地面積はおよそ千五百坪。京・二本松に構える薩摩藩邸が七千坪もの面積を有することを鑑みると、いささか見劣りするが、藩主が参勤交代の折に宿泊する屋敷とあって、その造りは荘厳な表門から室内の小さな釘隠しに至るまで一切の手抜きはない。
屋敷の東側にある舟入から屋敷へ入ると、黒田が事前に知らせてくれていたためか、西郷吉之助が自ら出迎えに来ていた。
大柄で、がっしりとした体躯ながら、その動きは重さを感じさせない、野生動物のそれに似ている。そしてぎょろりとした瞳は、まるで全てを呑み込かのごとく、黒々とした異様な輝きを放っていた。
(この人が、西郷――)
そう認識した瞬間、草月の全身から、抑え込んでいた怒りが瞬時に爆発した。
奇声を上げて飛びかかり、無茶苦茶にその顔を殴りつける。
あんたのせいで、久坂さんは、有吉さんは、寺島さんは、来島さんは――、この人殺し!
泣いて喚いて、ありったけの言葉で罵倒して――……
――そんな場面を、何度脳裏に思い浮かべただろう。
けれど、実際に草月が出来たことと言えば、爪痕が残るほどに拳を握りしめて、ありったけの殺意を込めて睨みつけることだけだった。
静かに憎悪を滾らせる一行を前にしても、西郷はまるで臆する様子をみせず、それどころか古い知己に接するように親身に長旅の労をねぎらった。
「お疲れでごわそ。ゆっくりと休んでくいやんせ」
一行が案内されたのは中庭に面した日当たりのよい広々とした部屋で、隅には赤々と燃える火鉢が用意されていた。
間もなく奉公人が山茶花をかたどった薄桃色の美しい上生菓子と濃い緑茶を運んできた。しかし、誰一人それに手を伸ばす者はおらず、一様に固い表情で口をつぐんでいた。
敵地へ乗り込んできたという緊張感もあるが、それ以上に一同の心を占めていたのは、かつての京の記憶だった。
ここへ来る途中、通り過ぎた長州の伏見藩邸は、大坂の蔵屋敷と同様に、幕府によって跡形もなく破壊されていた。草月自身、何度か訪れたことのある場所だっただけに、大坂の蔵屋敷跡を見た時以上に胸を抉られる思いだった。
それに、ここからは天王山がよく見える。久坂や有吉たちと話した最後の場所。
嫌でもあの戦が脳裏に蘇ってくる。
大地を揺るがすような大砲の轟、無数の鉄砲の音、血と硝煙の臭い。燃え上がる炎の熱さ。心をずたずたに引き裂かれるような喪失の痛み――。
重い沈黙を破ったのは品川だった。
「木戸さんは西郷をどう見ました?」
「そうだな……」
木戸はぬるくなった茶で唇を湿らせた。
「表面上は親しげだが、腹の底では何を考えているか知れん。あれほど斉彬公から信を置かれていた人物だ。油断していると、足をすくわれることになりかねん」
「やはり気は抜けませんね。……それにしても、ろくに従者も連れずにやって来るなんて、度胸があるんだか間抜けなんだか。あれなら、簡単に首が取れますよ」
「……弥二、一応釘を刺しておくが、我々は話し合いに来てるんだぞ」
「分かってますって。もしもの時の話ですよ」
木戸の苦言に、品川がひらひらと手を振って応じる。
「俺より、草月の方が危ないんじゃないですか? さっきは、今にも飛びかかって行くんじゃないかって冷や冷やしたよ」
「……でも、結局、何も出来ませんでした」
草月は赤い爪痕の残る手の平を見つめながら言った。その手首には少々いびつな藍色の組紐が巻かれている。高杉達にもらった着物の生地を切って作ったものだ。
「たとえ実際に西郷に危害を加えようとしていたとしても、その前に私が止めていたさ。話し合いをする前から、関係がこじれたのでは、何のためにはるばる京まで来たのか分からないからな」
「それで、これからどうします」
短く問うたのは三好だ。
この旅の目的である薩長の話し合いについては、薩摩の家老・桂久武が病で臥せっていることから、桂の体調回復を待って行うことになっていた。
「奉行所の目がある以上、むやみに外を出歩くのは得策ではない。かといって、部屋でじっとしていては何も始まらん」
各自、二人一組になって、薩摩の内情や万一の際の逃走経路などを探ることに決した。
*
伏見藩邸に入ってから、五日が過ぎた。
おおむね行動の自由もあり、食事や洗濯、風呂に至るまで、至れり尽くせりの生活ながらも、仇敵の屋敷にいると思うだけで、狭苦しい船室に押し込められていた時よりも精神的に遥かに息苦しかった。
「高杉さんが四国に潜伏してた時、大人しくするどころか料亭で飲んで騒いでたって聞いて呆れたけど、今らなら高杉さんの気持ちが分かるかも……」
壁にかけられた山水画の掛け軸をぼんやり眺めながらぽつりと草月がこぼすと、木戸が閉じていた目を開いて草月を一瞥した。今、部屋にいるのは草月と木戸だけだ。他の者たちはそれぞれ探索に出ている。
「辛いだろうが、自重してくれ。弥二などはすでに薩摩藩士と何度か悶着を起こしている。この上、君にまで騒ぎを起こされると手に負えないからな」
「鬱憤が溜まってるのは確かですけど、さすがに高杉さんみたいなことする気はないですよ」
苦笑いで答えた草月は、そう言う木戸さんは辛抱強いですね、と軽く続けようとして、はっとした。
木戸は一年以上もの間、見知らぬ出石の地でただ一人、潜伏生活を余儀なくされていたのだ。
――いつ終わるとも知れない、孤独な日々。
草月は自分の甘えを恥じた。
神妙な顔で黙り込んだ草月に、木戸はふと思い出したように言った。
「……ところで、聞いておきたかったんだが、草月」
「何でしょう」
「君は、薩摩との話し合いに反対だっただろう。高杉に何と言って京行きを説得されたんだ?」
「それは――」
草月はゆっくりと瞬きをして、生真面目な顔で答えた。
「私の好きにやれ、と言ってくれました」
(あいつ……)
木戸はこめかみに手をやった。
(実は話し合いをぶち壊すために草月を加えろと言ったんじゃないだろうな)
その時、障子が勢いよく開いて、黒田が大股で入ってきた。
「邪魔すっど! なんじゃ、木戸さあと草月さあだけか」
部屋の中を一瞥した黒田は、遠慮なくどかりと座ると、「お、美味かもんがあっど」と言いながら、手近にあった茶菓子のあられに手を伸ばして断りもなくばりぼりと食べ始めた。
「……黒田君、何か用があって来たんじゃないのか」
「おお、そいじゃそいじゃ」
黒田は手に付いたあられの粉をぺろりと舐めると、「ご家老の桂さあのことじゃっどん――」と切り出した。
曰く、桂の体調が快方に向かってきているので、一両日中には話し合いが始められるだろう。場所は二本松の薩摩藩邸の北にある家老・小松帯刀邸、とのこと。
「そいで、急で悪りじゃっどん、明日にでもそけ方い移って欲しか」
「分かった。皆が戻り次第、荷物をまとめる」
「……草月さあ? 難しい顔して、いけんした」
二人のやり取りを、何事か考えながら聞いていた風の草月は、「ええ、ちょっと」と言いつつ木戸へ向き直った。
「……あの、木戸さん。ついさっき自重しろと言われたばかりでこんなお願いするのはどうかと思うんですけど……」
「何だ」
「寺田屋に行かせてもらうことはできませんか」
「寺田屋?」
「はい」
先の戦で京を脱して長州へ行く際、女将のお登勢に色々と世話になったことを説明し、できればその時の礼をしたいのだと言った。
「話し合いが終わってからと思ってたんですけど、ここを離れるなら、今を逃したら機会がないかもしれませんし……。それに、お登勢さんは事情通ですから、京のことについても、耳寄りなことを教えてもらえるかもしれません」
ただ、幕吏に見咎められる危険は伴う。ここから寺田屋は目と鼻の先だが、寺田屋から伏見奉行所もまた目と鼻の先なのだ。
「そいなら、おいが一緒き行こ」
「え?」
「義いがてその心意気、まこて感じ入った! 寺田屋は薩摩の定宿じゃっど。薩摩藩士のおいと一緒やれば怪しまれんじゃろ」




