第40話 港町の賊退治
大いに波乱を含んで慶応元年の暮れは過ぎ、新たに迎えた慶応二年の暁闇。
ふっ、と目を覚ました草月は、キンと冷えた空気に布団の中で身を震わせた。
辺りは塗りこめたような暗闇。
夜明けにはまだ少し間がありそうだと、再び目を閉じかけた時、衝立を隔てた隣で早川が身を起している気配に気づいた。
「……早川さん?」
「しっ!」
草月の言葉を鋭く制した早川は、衝立の横から顔を出し、
「外で気配がする」
「えっ」
半分寝ぼけていた頭が瞬時に覚醒した。枕元に置いていた短筒を手探りで引き寄せつつ、同じように小声で囁き返した。
「幕府の密偵ですか?」
「分からん」
庭へ通じる障子の脇に片膝立ちになり、いつでも抜けるように刀に手をかけた早川は、草月へ頷いて見せた。それを合図に、草月が障子を一息に開ける。たちまち吹き込んでくる凍えるような冷気をもろともせず、早川が庭へと躍り出た。
微かな衣擦れの音と共に、きゃっ、と小さな悲鳴。
それに木戸の声が重なった。
「早川、草月!? 物音がしたが、何かあったのか? ――開けるぞ!」
勢いよく襖が開かれる音と共に、手に手に刀を携えた木戸らが隣の部屋からどどどっと雪崩れ込んでくる。
「あの、それが……」
困り顔で振り返った草月の向こう。外の植え込みの陰に、早川に支えられて、年若い女が震えて蹲っていた。
*
混乱しているせいか、あちこち話が飛んで分かりづらい女の話を総合すると、次のような次第らしい。
女の名は糸と言い、とある大店の次女だった。店の番頭・政次と恋仲になり、両親に打ち明けるも結婚を反対され、思い余って駆け落ちしたのが二日前。
政次の遠縁の者を頼って、船で讃岐へ渡る予定だったが、その途中、運悪く、盗賊に襲われ、逃亡資金を奪われてしまう。その上、糸が大店の娘と知った盗賊は、身代金を取ろうとお糸と政次を隠れ家に監禁した。
生きた心地もしないまま迎えた大晦日の夜。盗賊たちが酒を飲んで油断した隙に、二人は命からがら逃げ出した。
「でも、すぐに気付かれて……。政次さんが身を挺して私を逃がしてくれたんです」
それからお糸は夜道を無我夢中で駆けて、たどり着いたのがこの宿だと言う。
「どうかお願いします。政次さんを助けてください。あの人がいなくちゃ、生きてる甲斐がない」
お糸はそう言ってぼろぼろと涙を流した。
「心配しないで、すぐに助けに――」
――行くから。
草月の喉まで出かかった言葉が、途中でぶつりと切れた。
今の自分は、藩命を帯びて京へ行く隠密行の最中だ。ただでさえ危険を伴う旅なのに、自分から目立つ行動をして役人に見とがめられたらどうする。
唇を噛んで押し黙った草月の肩に早川がそっと手を置いた。
「確かに気の毒だが、仕方がない。俺たちには大事な使命がある。他人に構っている余裕はない。役人に任そう」
「でも!」
お糸が涙にぬれた顔を上げた。
「この時間じゃ奉行所は閉まってるし、ぐずぐずしていたら政次さんが……!」
皆まで言えずに肩を震わせるお糸を見て、草月は両の拳をぎゅっと握りしめた。
「何か……、何か出来ないでしょうか? 私たちが何のために旅をしているのか、それがどれだけ大事なことか、重々承知しています。それでも、やっぱりほっとけない。……お糸さんの気持ち、痛いくらいに分かるから」
すると、それまで黙って聞いていた黒田が俄然はりきって立ち上がった。
「よし、おいが行く」
「――え!?」
「たかが盗賊の十人や二十人、おいの敵ではなか。ちょっと行って締めあげてくっせ、おはんらは待っとってくいやんせ」
「黒田さん……」
意外と良いところがあるではないか。
うっかり黒田を見直した草月だったが、
「はは、そげなよそよそしい呼び方は止せ止せ、草月さあ。了介でよか。一緒に風呂に入った仲でなか」
「――いやそれ違いますから!」
消し去りたい記憶を蒸し返されて速攻で評価を改めた。しかも勝手に下の名前で呼んでるし! やはり薩摩は嫌いだ!
「待て、今、聞き捨てならん台詞を聞いたぞ!」
「品川さん、話すとややこしくなりますから説明はまた後で!」
「おい、俺も行くぞ。こいつは色んな意味で信用ならん。……それに、女を守って自分は捕まるなんて、その政次って奴、根性あるじゃないか。気に入ったぜ! 木戸さん、止めても俺は行くからな。――三好さんと田中さんは?」
「俺の役目は、木戸さんを守ることだ」
「俺は断然、協力するぜよ!」
相変わらず表情を変えない三好とは対照的に、田中はやる気満々で、今にも飛び出して行きそうだ。
「黒田さんの言うたように、ささっと盗賊を退治して、その色男を助けてくればええ話じゃろ? 朝飯前じゃ」
「待て、早まるな、お前たち」
「木戸さん、止めてくれるな――」
「止めているわけじゃない。策もなしに闇雲に飛び出すなと言っているんだ」
「え?」
皆の視線が一斉に木戸に集まった。
草月は驚きと喜色がないまぜになった複雑な表情で言った。
「木戸さん――、いいんですか」
「どうせ君も、止めても行くというんだろう? こちらとしても聞いてしまった以上、知らぬ振りも出来ない。新年早々、前途ある若者の危機を見過ごすというのも気が咎めるしな」
「おお、頭の固い御仁かと思いきや、なかなか話の分かる人じゃなかか、木戸さあ!」
馴れ馴れしく背中を叩く黒田の手を鬱陶しそうに払いのけながら、木戸は諦めたように言った。
「……昔から、私の周りは暴走しがちな者たちばかりなのでね。慣れもする」
*
新月の闇はどこまでも深い。
辺りはひっそりと静まり返り、野良犬の遠吠え一つしない。
びゅうと風が吹いて、おんぼろの隠れ家をがたがたと揺らした。板張りの床は腐って朽ちかけ、天井の梁は今にも崩れそうだ。
金さえ手に入れば、こんなボロ屋ともおさらばだ。
(ちっ、せっかく美味い酒を飲んで良い気分でおったっていうのに……)
人質の女が逃げ出したおかげで、すっかり酔いも醒めてしまった。盗賊の頭目は、隅に転がったもう一人の人質――政次――を忌々し気に睨みつけた。
散々痛めつけてやったせいで、もはや逃げる気力もないのか、ぐったりとして動かない。
(大事な金づるや。さっさと見つけんと……)
明かりも持たない女の足では、それほど遠くへ行けるはずはないと高をくくっていたのだが、捜索に出した数人の手下たちは一向に戻ってこない。まだ手元には十人弱の手下が残っている。半数を捜索に回すか、と思案していた所へ、バタバタと騒がしい足音と共に、部屋の戸ががらりと開いて、手下の一人が顔を出した。
「お、お頭ァ!」
「遅いで! 女は連れて戻ったんやろうな!」
「そ、それが……」
言いかけた男は、「ぐえ」とくぐもった悲鳴を上げてその場に崩れ落ちた。その後ろから、がっちりとした体格の武士が、のっそりと姿を現す。
「案内ご苦労じゃったな。――ところで、おはんが盗賊の頭目か。糸という女はおい達の手の内じゃ。大人しく、そこの色男を渡してもらおう」
「て、てめえ! 一体、何者や!」
たちまち長脇差を手にいきり立つ盗賊たちを前に、黒田は歯をむき出して、にたりと笑った。
「諸葛孔明じゃ!」
「は「はああ!?」
盗賊よりも大きな声で、黒田の後ろから品川が叫んだ。
「何一人で格好つけちょるんじゃ! 大体お前、孔明という柄か! 張飛だろ、どう考えても!」
「ははははは。いいじゃろうて。一回言ってみたかったんじゃ」
「ふん、お前が孔明だったら俺は楠木正成じゃ!」
「え? ええと、じゃあ私は、織田信長で!」
ひょいと片手を挙げて言ったのは、品川に続いて入って来た草月だ。
「ふ、ふざけるなあ!」
頭目が唾を飛ばして喚いた。
「何なんやてめえら! 役人やないな!?」
三人は顔を見合わせ、草月がにんまり笑って一言。
「か弱い乙女の味方」
この言葉を合図に、一気に乱闘になった。
数の上ではこちらが圧倒的に不利だ。だが、品川も黒田も、押し寄せる盗賊の一党に、まるで怯むことなく、むしろ嬉々として攻め込んでいく。
その様に「ほう」と感心している余裕もなく、草月は自分めがけて振り下ろされる長脇差を間一髪で避け、手近にあった空の酒瓶を男の顔面目掛けて投げつけた。倒れた男の腰から鞘を奪い、闇雲に振り回しながら、事前の打ち合わせ通り、どうにか政次のもとへたどり着く。まずは政次の身の安全を確保することが第一だ。盾にされては敵わない。
「大丈夫ですか? お糸さんに、頼まれて助けに来ました。早く――」
「背中ががら空きだぜ、『信長』さん?」
背後の剣呑な声に、はっとして振り向いた。
男が勝ち誇った顔で刀を振り上げている。
(しまった……!)
咄嗟に鞘で頭を庇ったその寸前、視界の隅に何かが飛んでくるのが見えた。人間だ、と認識するより早く、それは目の前の男にぶち当たって諸共に壁に激突して動かなくなる。
「おう、信長殿!」
黒田が盗賊の一人とやり合いながら、およそ孔明には似つかわしくない野性味あふれる笑みをにたりと浮かべてこちらへ叫ぶ。
「油断召されるな! どうも剣術は得意ではなさそうじゃっで」
「ええ、その通りです。でも、信長は鉄砲で敵をやっつけたんですよ。知りませんでした?」
大の男を軽々と投げ飛ばした黒田の膂力に内心舌を巻きながらも、草月は負けじと腰の短筒を引き抜き、黒田へ向かって一発お見舞いする。
ばごぉん! と壁に開いた穴を見て、黒田の背後で刀を構えていた男は、「ひえっ」と情けない悲鳴を上げて刀を取り落とした。
おお、と目を丸くして、黒田が壁に空いた穴と腰を抜かした男を見比べる。
「そっちこそ、注意散漫ですよ、天才軍師殿?」
「ははっ、これはしたり! なかなか侮れん御仁じゃ」
「おい、二人とも、軽口叩いてる場合じゃないぞ」
「分かっちょ、分かっちょ」
無我夢中で戦っているうちに、いつの間にか立っているのは自分たちだけになり、床の上には苦悶の声を上げてのたうち回る盗賊たちが転がるばかりとなった。
彼らを見下ろして、息一つ乱していない黒田が高らかに叫んだ。
「賊風情が、おいに盾突くとは百万年早か!」
*
その後、草月たちは町に散った盗賊の始末をしていた田中と早川と合流し、無事に助け出した政次と共に旅籠へと戻った。
木戸や三好と共に気を揉んで待っていたお糸は、政次の姿を見るなり外聞もなく飛びついてひしと抱き合って互いの無事を喜んだ。
それを見届けて、一行は役人が来て騒ぎになる前にと、ひっそりと旅籠を発った。次第に白んできた下津井の町を港へ向かって駆け抜ける。
「お武家さん方―! ちょうどいい風が吹いとります。お急ぎください! すぐ出航しますんで」
桟橋につけた船の上から、水夫たちが身を乗り出すようにして手招きしている。
どどどとなだれ込むように乗り込むと、すぐに、
「碇を上げろ! 出航じゃ!」
帆いっぱいに風を受けて、船が動き出す。
甲板に倒れ込んだ品川は、
「あーあ、やれやれ、旅籠で一息つくどころか、とんだ騒動に巻き込まれた」
「……でも、不謹慎かもしれないけど、なんか、楽しかったです」
草月の笑いが伝染したように、周りも笑いだす。
「確かに、なかなかにない経験だった」
「こうした賑やかな正月も良いもんじゃ」
「お糸ー、政次ー! 達者でなー!」
「幸せになってねー!」
もうすっかり小さくなった町へ向かって品川と草月が叫ぶ。
やがて、金色の曙光が船を照らし始めた。
空が瞬く間に色を変えていく。
初日の出だ。
凍えるような寒さも忘れて、皆、言葉もなく見入っていた。




