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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第39話 呉越同舟

 十二月二十七日。使者一行を乗せた船は、夜も明けきらぬ薄暗い曇天の下、三田尻を出航した。

 船は折からの強い風に煽られ、左右に大きく傾きながらも、熟達した水夫たちの働きで高浪の中を巧みに進んで行く。

 薩摩の人間である黒田に対し、諸隊代表の品川たちや草月は当然のことながら良い感情を持つはずもなく、船内の雰囲気は険悪極まりなかった。

 楽し気にしゃべり倒しているのは黒田ばかりで、品川や早川などは露骨に敵視しているし、桂小五郎改め木戸貫治(幕府に名を知られているため、用心のため改名)は目を閉じて深く物思いにふけっている。

 田中が苦心して両者の仲を取り持とうとしているが、今のところ全くの徒労に終わっていた。

 この雰囲気を和らげることを期待されて同行したはずの草月はと言えば、初日からひどい船酔いに悩まされ、船室の隅でひたすら吐き気に耐えていた。当初、仇敵の前で情けない姿など見せてなるものかと、意地を張っていた草月だったが、甲板で寒さに震えながらへたり込んでいたところを早川に見つかり、問答無用で船室に戻された。

 気詰まりな航海から五日目。ついに品川が爆発した。

「駄目じゃ、もう耐えきれん! 木戸さん、悪いがここまでじゃ! この耳障りな馬鹿を海に放り出してやる!」

「おっ! 相撲でごわすか? 受けてたちもんそ!」

 嬉々として立ち上がった黒田とたちまち取っ組み合いになったのを、

「お前たち、船を沈めるつもりか! 具合の悪い者もいるんだぞ」

 木戸に一喝されてしぶしぶ引き下がった。

「いや、すまんなあ、唯野さあ。つい興奮して」

 分厚い綿入れ半纏に包まって、壁に背を預けて座る草月の側に来た黒田は、相変わらず頭に響く大きな胴間声で、まったく悪びれたふうもなく言った。

「……いえ、お気遣いなく」

 船酔いは少しはマシになったとはいえ、身を切るような寒さはどうにもならない。乾いてからからになった喉から、かすれた声を絞り出す。

 黒田には、初対面からずっと『唯野』と呼ばれているが、未だにそう呼ばれることに違和感がある。

(そりゃあ確かに、以前、殿にお会いした時に『ただの草月です』とは言ったけど、それをそのまま名字にするなんて、殿は駄洒落がお好きなのかな)

 正直にそう高杉に言ったら、不敬じゃぞと目を吊り上げて怒られた。

「殿から直々に名字を賜るなんて、この上ない栄誉なんじゃ。ありがたく頂戴しろ」

 相変わらず殿のことになるとうるさい。

 出立前のそんなやり取りを思い出しながら、ちろりと目だけを上げる。

 草月としては、気にしなくていいからさっさとあっちに行ってくれ、という意味を込めて言ったのだったが、およそ察するということをしない黒田には到底通じなかったようで、そのまま隣にどっかと座り込んでしまった。

「しかし、こんなふうに叱られたのは久しぶりじゃ。前は大久保さあによく粗忽者じゃと叱られたものじゃが。いつだったか、しこたま酒を飲んで酔っぱらって大暴れして、座敷を半壊させたことがあってなあ。その時の大久保さんの怒りようは大変なもので、

『おはんなど、“クロ”で充分じゃっで! “ダ”を付けるいとまさえ惜しい!』

と言って、しばらくはまともに名前すら呼んでもらえんかった」

「は、はあ……」

 突っ込みどころが多すぎて、もはやどこから突っ込んでいいのか分からない。

「おい、こっちが何も知らないと思って、いい加減なこと言うなよ!」

 草月に代わって黒田に食って掛かったのは品川だ。

「大久保って言えば、西郷と並んで薩摩の政治を動かしてる大久保一蔵のことだろ? 冷静沈着で寡黙な人物だと聞いてるぞ――」

 皆まで言い終わらぬうちに、黒田が、がはははと笑って、

「おいが言ったのは、大久保さあが若い時の話じゃっで。いっくら大久保さあでも、昔っからそげな修験者みたいな人ではなか。じゃっどん、今じゃって、相手が誰であろうと、言うべきことはがつんと言う人じゃ。先の九月に朝廷が長州再征の勅許を出した時じゃったか、大久保さあは親王を叩き起こした上、関白を二刻近くも問い詰めたそうじゃ」

「……」

 黒田と田中を除く全員の目が木戸の方を向いた。

「……何だ」

「いやあ、弁舌のしつこさは木戸さんと良い勝負じゃな、と。……あ」

 うっかり口を滑らせた品川が、木戸の無言の威圧に顔を引きつらせて、

「今、どの辺か、水夫に聞いてくる!」

 逃げるように出て行った。かと思うと外から大きな声で呼ばわった。

「おおい、来てみろ、港じゃ! 下津井に着いたぞ!」


                       *


 北前船の寄港地として栄える備前国・下津井の港は、大晦日特有のせわしなさと活気にあふれていた。贅を凝らした格子窓の商家や白いなまこ壁の土蔵がずらりと並ぶ通りには、しめ飾りや餅、羽子板、凧などの正月用品を買い求める人々でごった返している。

 船を降りた草月は、久しぶりの揺れない地面にどこか違和感を覚えながら、木戸らと共に混雑する通りを歩いていた。

 万が一、幕府の密偵に見つかるといけないからと、これまで港に寄港しても、水や食料の補給は水夫たちに任せて町に下りることはほとんどなかった一行だったが、

「木戸さん! 今日ばかりは町へ行かせてくれ! 年越しまで、このうるさい奴とせまっ苦しいとこに押し込められてたんじゃ、気が狂う」

 品川の切実な訴えに木戸が折れたのだ。もしかしたら、木戸自身も息抜きがしたかったのかもしれない。

 かくして一行は、港近くの適当な旅籠に草鞋を脱いだ。

 部屋割りで少し揉めたが最終的に、木戸と品川、草月と早川、そして三好と黒田と田中、という組み合わせで落ち着いた。

 木戸の部屋に集まり、揃って食事をとることにする。

 食事を運んできた女中は、一見して固い雰囲気の武家の客にもまるで物怖じせず、給仕の間中こちらが口を挟む間もなくしゃべり続けた。

 曰く、最近は外国の大きな蒸気船が航行する姿をよく見かけるとか、大掃除の一環で宿の井戸さらいをやったら、中から一両小判が見つかったとか、有名な大店の娘が奉公人と駆け落ちしたらしいとか、大坂を荒らした盗賊一味が奉行所の捕り方からまんまと逃げおおせてこの辺に潜んでいるらしいとか、さすがに大きな港町とあって、実に話題豊富だ。

 女中が一礼して部屋を辞すまでにこちらが返せた言葉と言えば、「ほう」とか「へえ」くらいである。もっとも、周りに長州者だと悟られないように極力しゃべるなと木戸から厳命されているから、どの道、ろくに返答はできなかったのだが。

 干し魚や漬物といった固くて冷たいばかりの食事に閉口していた身には、暖かいご飯と味噌汁の素朴な食事が身に染みて美味しい。熱々の燗酒を口にすれば、胃の腑がかっと熱くなり、冷え切った全身にじんわりぬくもりが浸透していく。

 あらかた食事が済んだ頃、先の女中がそばを持って現れた。

「年越しそばかあ。本当にもう今日で今年が終わるんですね……。出発の準備でばたばたしてて、ろくに大掃除も手伝えなかったから、あんまり実感がわかなかったけど。色々あり過ぎで、夢中で駆けてるうちに一年経ってたっていうのが正直なところです」

 しみじみと草月が言うと、さっそくそばに箸を伸ばした品川が「そうそう!」と大きく頷いた。

「去年の今頃なんて、俺たち、そばを食うどころか、普段の食事もろくに取れない戦の真っ最中だったし。まさか、その一年後に、薩摩の奴とこうして年越しするなんて、あの頃は天地がひっくり返っても思ってなかったよ。なあ、三好さん」

「明日の命の保証もない状況だったからな」

 三好が無表情で頷いた。歳は二十六と若いが、無駄口をきかず、滅多に笑わないので、『仙人』とあだ名がついている。ただ、醒めているわけではなく、ただ感情を表に出すことが少ないだけで怒らせると怖いらしい。『らしい』、というのは、草月とは先の内乱の折に何度か顔を合わせてただけで、きちんと会って話すのはこの旅が初めてだったからだ。

 向かいの席に座る早川も笑って頷き、

「俺も草月と一緒に年を越すのは二年続けてだな。お互い、よく生きてたもんだ」

「おお、そいは一月の内乱のことじゃいな? 寡兵で戦を初めて、徐々に兵力を増やして圧倒的戦力差を覆したと聞いとる! なかなか胸の躍る話じゃっど! 良かったら詳しく聞かせたもんせ」

「悪いが、それは長州の機密事項だ。酒の肴に気軽に話すようなものではない。それより、そういう薩摩は、長州内部で戦をさせて、長州の国力を落とそうという腹づもりだったそうだが?」

「あの時はまだ幕府に見切りをつけておらんかったのでなあ」

 木戸の皮肉にも、黒田は悪びれた様子もなく言った。

 食事が済むと、順番に風呂に入ることになり、最後に黒田と草月が残った。二升もの酒をほとんど一人で飲んで酔っぱらった黒田は、正体をなくして眠り込んでいる。

「こりゃあ、容易に起きそうにないのう。ちょうどいいき、草月さん、先に入ってくるといいぜよ。見張りは俺が引き受けるき」

 田中が申し出てくれたおかげで、草月はゆっくりと湯船に浸かることができた。酒で少し酔った体に、お湯の温もりが加わって、ついまどろみそうになる。

「すみません、田中さんにこんなことさせちゃって」

「かまんかまん。これくらい、お安い御用じゃき」

「でもこれで、やっとおあいこですね」

「おあいこ?」

「ほら、京で会った時、約束したじゃないですか。いつか、私が困ったら助けてくださいって」

「ああ、あれか」

 風呂場の外から、屈託のない田中の笑い声がする。

「草月さんはこんなことでええんか? 俺はもっとこう……、何というか、もっと危機一髪の一大事に駆けつける! というような展開を期待しちょったんじゃが」

「おなごの私にしてみれば、ものすごく一大事ですよ? 特に今回の旅では、黒田さんにおなごだって悟られないように、ずっと気を張ってますから。こうして気兼ねなくお風呂に入れるなんて、これ以上ない喜びです!」

「ほうかえ、ほんなら良かった」

「そうだ、黒田さんと言えば、今日の昼間の話、覚えてますか?」

「うん?」

「ほら、大久保一蔵に、『クロ』って呼ばれてたって話をしてたでしょう? 私の知り合いの飼い犬に、同じ『クロ』って名前の犬がいて、場の雰囲気を読まないところが黒田さんとそっくりだって思って、可笑しくて」

 くすりと笑ったところで、にわかに、廊下の方で声がした。と同時に、慌てたような田中の声。

「黒田さん!」

(え、うそ、黒田さん!?)

 咄嗟にどぼんと鼻まで湯に浸かる草月。薄い壁越しに、田中と黒田の応酬が聞こえてくる。

「おお、田中さあ、おはんもいたか!」

「く、黒田さん。今はまずい、草月さんが入りゆうところやき」

「唯野さあもいたか。ちょうどいい。三人で汗を流しもんそ。薩摩・長州・土佐が同じ風呂に入るとは、実に目出度いことじゃっで」

(――いや全然目出度くないから!)

 湯船の中の草月は出ることも叶わず、硬直したまま動けない。

 酔っぱらった黒田は田中の制止も聞かず、さっさと着ている物を脱ぎ捨てると風呂場の戸を開けた。

(ぎゃあ――!)

 草月は悲鳴を押し殺して両手で顔を覆った。

「待てと言うちょろうが、黒田さん! おまんはちっくと飲み過ぎじゃ! ――ええい、問答無用!」

 田中が黒田の体を力任せに押さえつけた。

「なんすっとか、田中さん!」

 暴れた拍子か、田中が吹き消したのか、その時、ふっと行灯の明かりが消えた。

 辺りは真っ暗闇になる。

「――今じゃ、草月さん! 行け!」

「はい!」

 草月は急いで湯船から上がり、濡れた体に夜着を手早く巻き付けると、一目散に風呂場から遁走した。

 廊下の角を曲がり、ようやく息をついて。

 混乱が収まると、ふつふつと怒りが湧いてきた。

(せっかく人が、気持ちよく入ってたのに!)

 身を切るような冷気にがたがたと身を震わせながら、草月は憤懣やるかたない思いを一言に込めた。


「……あんっの、馬鹿クロ!!」

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