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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第38話 彼の言い分、彼女の言い分

 慶応元年九月二十一日。

 この日、朝廷では紛糾の末に長州再征の勅許が下され、その知らせは矢のように速く長州へと届いた。

 それを追うようにして、再び馬関に現れた坂本龍馬は、『征長に反対する』という薩摩の意向を伝えた。そして、桂・高杉・井上・伊藤を交えた会談で、長州から薩摩へ兵糧米を提供することを決定。

 長く続いた薩長不仲の雪解けの機運が高まったと判断した薩摩の西郷吉之助は、暮れの迫った十二月、ついに自藩の藩士を長州へ遣わすことにした――。


                       *


「薩摩島津家家中、黒田了介でごわす。西郷吉之助の使いとして参りもした」

 長州と馴染みの深い土佐脱藩浪士・池内蔵太の案内で長州入りした薩摩の使者は、桂ら長州重役を前に、臆した様子もなく堂々と名乗りを上げた。

 地声らしい、むやみに大きな胴間声で語られた西郷の伝言とは、『自分は京を離れられないので、桂に京へ来て欲しい』、というものだった。

 ひとまず黒田を山口で待たせ、高杉や井上、伊藤らと対応を協議することにした桂だったが、意見は容易にまとまらなかった。

「薩摩が黒田のような軽輩を寄こしたのなら、こちらもわざわざ私が出向くことはない。大体、京に呼びつけること自体不遜極まりない。長州人にとって京がどれほど危険か分からぬ馬鹿でもあるまいに」

 と、京行きに難色を示す桂に対し、高杉らは俄然行くべきという立場を崩さなかったからだ。連日ひっきりなしに京行きを説得され、しまいには藩主直々の命まで引き出されて断ることも出来ず、ついに桂は承知した。

 随行者として選ばれたのは、奇兵隊の三好軍太郎、御楯隊の品川弥二郎、遊撃隊の早川渡だ。表向きは桂の護衛という名目だが、その真の目的は、彼らを話し合いに立ち会わせて、諸隊の反論を封じることにある。未だ諸隊には薩摩憎しの感情が根深く残っており、桂の独断という体になると、後で激しい反発が予想されたからだ。

 彼らに加えて、土佐の田中顕助も同行することになり――黒田の話し相手兼護衛として山口に遣わされていた田中は、短い間にすっかり黒田と意気投合していた――、使者は桂を含めて五人になった。

 京行きが決まれば、次は京までの経路や日程の相談、路銀の手配、荷造り、薩摩家老への贈り物選び、仕事の引継ぎ、長州の方針確認……。出立までにやることは山ほどある。

 桂の泊まる馬関の宿に、高杉がふらりと訪ねて来たのは、そうした慌ただしい日々のある夜のことだった。

「桂さん、頼みがある」

 いつになく真剣な顔で切り出した高杉に、桂は露骨に眉をひそめた。

「何だ、改まって。お前がそんなふうに切り出すときは、決まってろくなことじゃないんだ」

「信用ないのう」

 高杉は笑って、

「心配せんでも、そう警戒するような話じゃない。――京へは、草月も連れて行って欲しいんじゃ」

「……草月を? なぜだ」

「あいつの持つ雰囲気は、自然と周りを和ませる。薩摩との会談に臨むなら、そういう奴も必要じゃろう。弥二はもちろん、三好も早川も、同行の奴らは皆、血の気の多い奴らばかりじゃけえの。それではまとまる話もまとまらん」

「……」

 高杉の言葉を吟味するように、桂はゆっくりと腕を組んだ。

 確かに、その懸念は桂にもあった。

「……だが、薩摩嫌いは草月も同じだろう」

「ああ」

 高杉は何かを思い出したのか、実に楽しそうな顔をした。

「今回の薩摩の言い分を聞いて、かんかんになっちょった」

 ――桂さんを京へ呼びつけるなんて、最っ低! 話がしたいなら、西郷がこっちに来ればいいんですよ。百歩譲って、どこか危険の少ない別の場所で会うとか……。とにかく、そんな話に乗ったらだめです! これ以上舐められて堪るもんですか!

「……だろうな」

 桂も苦笑を漏らした。

「だが、それならなおさら草月を連れて行くのはよした方がいいんじゃないか。……何より危険すぎる。京へ行って、無事に戻って来られるとは限らないんだぞ」

「僕が説得する。それに、あいつも伊達に何度も戦を経験しちょるわけじゃない。危険を理由に二の足を踏んだりはせん」

 きっぱりとした言い方に、桂は少し驚いて目を見張った。

 高杉がそんな風に言うとは意外だった。

「僕だって、危険と分かっていてあいつを京へやりたくない。けど、それを言ったらきっとまたあいつは怒るんじゃ。自分は守ってもらうだけのおなごではない、長州のために出来ることがあるならやりたい、とな。――じゃけえ、頼む」

 高杉は表情を改めて、深々と頭を下げた。

「……お前がそこまで言うのなら、分かった。いいだろう。殿には、明日、私から話しておく」

「恩に着る! 絶対に、悪いようにはならんけえ」


                        *


「……はい?」

 驚いて勢いよく振り返った拍子に、小指の爪を火鉢にしたたかにぶつけた。一瞬おいて、脳天を突き抜けるような痛みが襲ってきて、草月は指を押さえて悶絶した。ようよう痛みが引いてきたところで顔を上げ、改めて「はああ!?」と叫んだ。

 馬関応接掛の役所の一室。外は雪がちらつき、室内にいても息が白くなるほどの寒さである。他に人がいないのを良いことに、火鉢を抱え込むようにしながら外国人からの要望をまとめていた草月の元に現れた高杉は、まるで世間話のような気軽さで京行きを告げたのだ。

「どうして私が!?」

「薩摩が何を言い出すか、興味はないか?」

「そりゃあ、もちろん、ありますけど……。でも、私、西郷の顔を見たら、絶対、問答無用で殴りかかっていきますよ! ――いや、そもそも、そういう問題じゃなくて! 非公式とはいえ、藩の代表が集まる大事な会合に、私なんかが同席してもいいんですか? 万が一、女だってばれたら――。長州は女を大事な交渉の場に連れてくるような信用ならない藩だって、笑いものになりますよ。私のせいで長州が馬鹿にされるのだけは耐えられません」

「西郷がそれで怒るような器の小さい男なら、それだけの話じゃ。手を組むに値せん」

 すでに桂の了承も得ていると聞かされ、ますます困惑顔になる。

「……おのしはやはり、薩摩との提携には反対か」

「それは……そうです。だって、久坂さんは薩摩のせいで亡くなったのに、久坂さんに何て言えばいいんですか」

 あの戦で、薩摩兵の指揮を執ったのは西郷だと聞く。

 島津久光に疎まれ、二度の島流しの憂き目にあった西郷は、ようやく罪を許されて島を出た時には、ろくに歩けぬほどに衰弱していたという。だが、それから半年も経たぬうちに、京の戦が起きたことを鑑みれば、西郷には悪いが、ずっと遠島のままでいてくれたら良かったのにと切に思わずにはいられなかった。

「久坂なら自分のことは気にせずに、おのしの思う通りにしろと言うじゃろうな。あいつはそういう奴じゃ。そうじゃろう。薩摩が信用ならんと言うなら、自分の目で見て確かめてこい。その上でやはり信用できんかったら、遠慮なくぶち壊してこい」

 草月は驚いて目を見開いた。

「いいんですか」

「ああ」

「じゃあ、西郷を思いっきり殴っても?」

「ああ」

「桂さんと一緒に、これまでの恨みつらみをえんえんぶちまけても?」

「ああ」

 高杉の口角が吊り上がった。

 草月もつられたように、ふっと口元を緩めた。

「難しく考えんでええ。おのしはおのしの思うようにしたらええんじゃ」

「……はい」

 草月は高杉の言葉が胸の内に落ちていくのを待って、そして真っ直ぐに高杉の瞳を見つめて言った。

「そういうことでしたら――、そのお役目、ぜひやらせてください」

「分かっちょると思うが、危険な任務じゃぞ」

「承知の上です。それでも私に行けと言ってくれるんですよね。私は、それが何より嬉しいです」

「そう言うと思った。それでこそ僕の――」

「……? 何ですか?」

 急に言葉を呑み込んだ高杉に、草月が不思議そうな顔で聞き返した。

「……、……いや、僕の見込んだ男じゃ、と思ってな」

「誰が男ですか! せめて志士だ、くらいに言ってくださいよ」

「すまんすまん。おのしがあまりにも男らしかったけえ」

「もう! いいですよ、誉め言葉と受け取っておいてあげます」

 かすかに軋む胸の痛みに気付かないふりをして、草月はわざと明るい声で応じた。


                      *


 同日、同刻。山口政事堂にて。

 馬関から山口に戻った桂は、藩主敬親の前に伺候していた。

「殿。これが、京行の随行員の一覧です。ご確認を」

「うむ」

「……?」

 いつもなら、すぐに「そうせい」と下される諾が、なぜか発せられない。代わりに、敬親は控えていた小姓に命じて筆を持ってこさせた。そして、筆先に墨を含ませると、さらさらと一覧に何か書き加えた。

 返された紙を見て、桂は危うくあっと声を上げるところだった。

 名簿の最後尾。

『草月』の名前の上に、『唯野ただの』という二文字が書き加えられていた。

「名字がないのでは都合が悪かろう」

 いつも表情のあまり変わらない蛙のような敬親の顔に、かすかに笑みが浮かんでいる。

「そうせい」

「――御意」

 ほころびそうになる口元を、桂は深く平伏して隠した。





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