迷子の子犬・後
「くそっ! どこに行った!?」
「子供連れだし、それほど遠くへ行けるはずないんですけど」
高杉と伊藤は、木立の道を走っていた。
「ほんのつい今しがたじゃぞ!? ほとんど間髪入れずに追ってきたはずじゃ。隠れられるような家もないのに、見失うはずが――」
ふいに立ち止まった高杉を、伊藤が不審な顔で振り返る。
「高杉さん?」
「待て、何かおかしい」
「え?」
「考えてもみろ。子供をさらうような悪人が、野良犬が乱入してきたくらいで普通、慌てて逃げ出すか? うるさいと放り出して仕舞いじゃ」
「言われてみれば……。そうか! 慌てたのは、あの犬と俺たちがつながっていると分かっていたからですね? でも、そのつながりを知っているのは、俺たち以外には伊勢屋の者くらい……、いや、待てよ、伊勢屋の中に、犯人と通じている奴がいたら――」
二人ははっと顔を見合わせた。
あの手代!
「――しまった、草月!」
*
「――!」
頭に強い衝撃。草月は畳の上に倒れこんだ。
痛みに呻く草月の耳に、男たちの会話が入ってくる。
「ど、どうするんじゃ、こいつ」
おたおたとみっともなく焦る手代の声。続いたのは破落戸の声。
「知られたからには生かして帰せんじゃろう」
「ま、まさか、殺すのか!? そんなこと、計画になかったぞ! ただ、お嬢様をさらうだけのはずじゃろう!」
「おめでたい奴じゃな。その娘とて、無事で帰すと本気で思っちょったのか?」
「そ、そんな……」
「おのしも一度悪事に手を染めたからには、一蓮托生、後戻りはできんぞ」
「おい、ここで殺すのはまずい。そこの山へ連れて行って、そこで殺そう」
物騒な相談がまとまり、草月はろくな抵抗も出来ないままに、すず諸共、長持に詰め込まれ、大八車に乗せられてしまった。
「出しなさい! こんなことして、ただですむと思ってるの? どうせ伊勢屋さんの商売敵にでも甘い言葉で釣られたんでしょうけど、そんなの無駄よ」
がんがんと蓋を叩くも、「うるさい!」と一喝されて終わってしまった。
蓋を押し開けようにも、錠が降ろされていて開かない。
このまま山奥まで連れていかれたら、もうどうしようもない。
暗闇の中で、草月は泣くことも出来ずに震えているすずの手を手探りで探し当てると、ぎゅっと握りしめた。
「おすずちゃん。大丈夫だよ、きっと助けるから。いい? 今からちょっと大きな音がするけど、怖くないから。両手でしっかり耳をふさいでて」
草月は窮屈な姿勢からどうにか袴の腰板に隠した短筒を取り出すと、錠があると思しき部分に向かって、引き金を引いた。
――ガァン!
木っ端と一緒に、錠前がはじけ飛んだ。
間髪入れずに、開いた穴から手を突っ込み、今度は長持ちを縛り付けている縄に銃口を押し付けて吹っ飛ばした。
縄がちぎれて、長持ちごとずだだだだ、と地面に放り出される。
「痛たたた」
よろよろと外へ這い出した草月は、耳をふさいだままの状態で固まっているすずを長持ちの中から引っ張り出した。
「やってくれたな、兄さん」
男たちは、鬼のような形相で草月を睨みつけている。
「来ないで! それ以上近づいたら、その脳天ぶっとばすから!」
短筒を前に、さすがに怯む男たち。
それから目を離さぬままに、草月はすずを後ろに押しやった。
「おすずちゃん、走って! とにかく人のいるところまで行って、誰でもいいから、大人の人に助けてって言うの。出来る?」
だが、すずは草月の袴を握りしめたまま動かない。
「聞いて。お父さんとお母さんがすっごく心配してたよ。おすずちゃんも、二人にまた会いたいでしょう?」
こくりと頷く気配。
「よし、じゃあ行って!」
「させるか!」
言うや否や、手代が大八車を盾にして、突っ込んでくる。
(ちょっとうそでしょ!?)
などと悠長に考えている間もあらばこそ。草月はすずを抱えて地面を蹴った。
ずざざざざ、と肩口から地面に倒れこむ。そのすぐそばを、大八車が駆け抜けていった。途中で石にでもぶつかったのか、派手な音を立てて倒れる音がする。
「おすずちゃん、怪我はない……?」
起き上がろうとして、ふいに顔をしかめる。無茶をしたせいか、先ほど殴られた頭の痛みがぶり返してきたのだ。その時、すずが悲鳴を上げた。
「おにいちゃん、うしろ!」
「!?」
草月が振り向くのと、背後の破落戸が「ぎゃっ」と叫んで刀を取り落とすのは同時だった。その腕には、小柄が深々と突き刺さっている。
「草月! 無事か!」
「――高杉さん! 伊藤さん!」
「すまん、遅くなった!」
駆けつけた高杉と伊藤は、すずを抱えた草月を庇うように立ちはだかると、素早く抜刀した。
「長州藩用談役高杉晋作じゃ! おのしらが斬ろうとしちょったこいつは、僕らの大事な同志じゃ。よもや五体満足で帰れると思っちょらんじゃろうな!?」
「同じく外国応接掛伊藤俊輔! そこの手代、よくも騙してくれたな! 女の子を傷つけるなんて最低だぞ! おなごは慈しむものだ!」
「な、何なんだ、お前たちは……!」
やたら大層な肩書の新手の乱入に怯んだのも一瞬。破落戸二人は殺気をみなぎらせて向かってくる。だが数千の大軍を相手に戦ったことのある高杉らの気迫に敵うものではない。
容易くいなして縄をかけようとしたところで、思わぬ方から声がかかった。
「う、動くなあ! 動いたらこいつを撃つぞ!」
「――!?」
その光景に、高杉と伊藤が凍り付いた。
手代が手にした短筒の銃口が、まっすぐ草月に向けらている。さっきのどさくさで落としたのだ。気付かなかった。
「――っ、草月、やめろ!」
蒼白になった高杉の制止も聞かずに、草月は躊躇なく手代の懐に飛び込んだ。その顎に、思いきり肘鉄をお見舞いする。手代はひゅうと息を吐いて倒れて動かなくなった。
*
「こっの、馬鹿! 何を考えちょる!?」
破落戸と手代を縛り上げた後、草月はなぜか高杉から猛烈な勢いで怒られていた。
「短筒を持った相手に向かっていくなど、言語道断じゃ! 自分がどれだけ危ない真似をしたのか、分かっちょるのか!?」
「いやでも、実はあれ、もう弾切れだったんです。だからこそ私も堂々と向かって行けたわけで……」
「そんなものはただの結果論じゃ! 一歩間違えれば死んじょったんじゃぞ!? さっきは心の臓が止まるかと思った。……いいか、二度と危険な真似はするな」
「そうは言っても、今回のことは不可抗力――」
「言い訳無用!」
あまりの剣幕に、びりびりと空気が震える。心配をかけたのは悪いと思っているが、一方的な言われように、さすがに草月も腹が立ってきた。
「……もう、今日の高杉さん、変ですよ? 危険て言うなら、戦に出た時の方がもっと危険だったじゃないですか! あの時は認めてくれたのに、どうして今になってまたそんなこと言うんですか? 私をその辺のおなごと一緒にしないでください!」
負けずに言い返すと、高杉は言葉に詰まったようにぐっと唇を引き結んだ。だがすぐに気を取り直して何か言いかけたところへ、
「――ないで」
「ん?」
「……おにいちゃんをいじめないで」
すずが、草月の腰の辺りを抱きしめながら、涙の溜まった目で高杉を睨みつけている。
「……」
「大丈夫だよ、おすずちゃん」
草月はぽんぽんと少女の頭に手を置いた。
「このつり目のお兄ちゃんは、私を心配してくれてるだけなの。だから大丈夫」
ね? と高杉を見やれば、高杉はばつの悪そうな顔をして、ぷいと背を向けた。
「ああもういい! 帰るぞ!」
どすどすと足音荒く歩いて行く姿を、伊藤がにやにやしながら見送っている。
「伊藤さん? 高杉さんの機嫌が悪いの、何か心当たりでもあるんですか?」
「いやあ? 何でもないよ」
いかにも訳知り顔でそう言う伊藤は、さらさら説明する気がなさそうだ。
「さあ、俺たちも伊勢屋に戻ろう」
「はあ」
高杉と草月ですずを店に送り届け、出荷予定だった伊勢屋の荷も、伊藤が知らせに走ったおかげで、何とかぎりぎり船便に間に合った。
役人に突き出した手代ら三人は、大人しく悪事を白状した。
草月の睨んだとおり、黒幕は伊勢屋の商売敵だった。伊勢屋の手代を『番頭にしてやる』との甘言で釣り、伊勢屋の追い落としを計ったのだ。
手代のことを知らされた伊勢屋主人は、そうですか、と言ったきりそれ以上何も言おうとはしなかった。ただその表情には、怒りや、無念、やるせなさが複雑に入り混じっているようだった。
大変な目に遭ったすずだが、幸い、事件のことでふさぎ込むこともなく、元気に過ごしている。それにはあの子犬も大いに貢献しているようだ。すずの強い希望で、伊勢屋で飼われることになった子犬――『クロ』と名付けられた――は、すずの良い遊び相手として新しい生活を満喫していた。
しばらく経って店を訪ねた時には、野良だった頃とは見違えるほどふっくらとして毛並みも良くなっており、草月を驚かせた。ただ、食い意地が張っているのは相変わらずで、草月が土産に持参した饅頭を物欲しそうによだれを垂らしながら凝視してくるのにはずいぶん参った。
「もう、クロ! あんたね、その食い意地どうにかしないと、鞠みたいに丸々太っても知らないから」
それでも利口にきちんと座って、飛びついてこないところは、店の者のしつけの賜物だろう。
「さて、と――」
店を出た草月は、懐から懐中時計を取り出して時間を確かめた。
今日は弾薬の手配を頼んだ武器商人と会う約束だ。今回のように、また荒っぽい事件に巻き込まれた時のためにも、やはり多めに買っておいた方がいいだろう。
(また高杉さんにどやされたんじゃ堪らないし)
――こいつは、僕らの大事な同志じゃ!
不意に、助けに来てくれた高杉の姿が脳裏に蘇り、胸の奥がじんわりと熱くなった。
本当はすごく嬉しかったのだ。泣きたくなるほどに。
思慕の情は胸の奥底にしまって決して表には出すまい、何度そう固く決意しても、想いは容易くあふれてくる。
(ダメダメ、こんなんじゃ。『同志』として、ちゃんと支えになれるよう頑張るのが、私に出来る精一杯なんだから)
気合一発、ぱちんと両頬を叩くと、草月はしゃんと背筋を伸ばして、真っ直ぐ前を向いて歩きだした。




