第37話 迷子の子犬・前
「あれ」
早めに仕事を終えた草月が、古着屋でも覗いて帰ろうと新地へ足を運んだ時のこと。通りの先にある一軒の町屋の前に、高杉と伊藤の姿を見つけた。商人らしき初老の男性と何やら熱心に話し込んでいる。
(大事な話かな)
声をかけてよいものか、しばし逡巡していると、高杉が草月に気付いて「よう」と気楽に片手を上げた。
「こんにちは、お仕事ですか」
軽く頭を下げながら、小走りに駆け寄る。
「ただの私用じゃ。引っ越しを考えちょってな。正式に馬関での仕事が決まったし、今住んじょる家は足の便が良いとは言えんけえの」
「仕事で夜遅くなった時は、俺の家に泊まってるんだよ」
ぷふっと笑いと堪えながら伊藤が言う。
「狭い部屋に、男二人、布団並べてさ。一昨日、聞多が来て泊まった時なんかもう、滅茶苦茶で――」
「……俊輔」
高杉の不機嫌な声音に、伊藤がわざとらしく首をすくめて降参と言うように両手を上げた。
やれやれと溜息をついた高杉は、一連の他愛ないやり取りを黙って面白そうに見ていた初老の男へ目を向け、
「ちょうどええ、紹介する。正一郎、こいつは草月と言って――、まあ、数年来の同志みたいなもんじゃ」
「なんですかそのおざなりな説明は。――あの、初めまして。草月と申します。高杉さんたちとは江戸で知り合って、それから色々とお世話になっています。今は外国応接掛で通詞などをさせてもらっています」
「これはご丁寧なご挨拶、痛み入ります。私は小倉屋という廻船問屋を営んでおります、白石正一郎と申します」
「あなたが、白石さん……。お噂は、かねがね」
馬関有数の豪商で、勤王家としても知られた人物だ。彼の元には諸国から数多くの志士が訪れていると聞く。高杉が奇兵隊を結成した時には真っ先に賛同して軍資金を出し、自らも隊士となった人物でもある。だが今、草月の目の前で柔和な表情を浮かべている白石の様子からは、そんな豪胆さはついぞ窺われなかった。
「悪い噂でなければ良いのですが」
白石は目を細めて柔らかく微笑んだ。
「それでは、私はこれで失礼します。高杉様、ほかにも良い家がないか、お探ししておきますので」
「ああ、頼む」
白石は草月にも丁寧なお辞儀をして去って行った。
その背を見送り、せっかくだからどこかで腰を落ち着けて話そうかと歩き出そうとしたところで、足元のそれに気づいた。
薄汚れた子犬が三人の周りにまとわりついて、ふんふんと匂いを嗅いでいる。
全体に茶色の毛並みの中で、鼻の周りだけが炭で汚したように真っ黒だ。
人に慣れているのか、触っても嫌がるそぶりを見せない。それどころか、しゃがんだ草月の懐に猛烈な勢いで顔を押し付けてくる。
「分かった分かった、目当てはこれでしょ?」
草月は懐から竹皮に包まれた握り飯――昼食の残りだ――を取り出すと、子犬の前に置いてやった。
がつがつと食らいついた拍子に、子犬の首に巻かれていた布がはらりと落ちる。赤や黄の紅葉の絵が描かれた可愛らしい手ぬぐいだ。子犬の小汚さからすればいささか不似合いに上等な代物である。
隅に、『伊勢屋 すず』と刺繍がしてあるのを伊藤が見つけて、「伊勢屋って言ったら、塩問屋の伊勢屋のことかな」と言った。
「あ、一太郎さんから聞いたことあります。馬関でも有数の大店ですよね」
「うん。越荷方にも出入りしてる。――そうそう、たしか、小さな娘が一人いるって聞いたことがあるから、きっとそこだよ」
「おおかた、その娘がこの犬を見つけてこっそり可愛がっちょった、といったところか」
子犬は握り飯を食べ終わっても、まだ期待するようなまなざしで草月を見上げてくる。
犬をどうするかは置いておいて、とりあえず手ぬぐいだけでも返しに行くか、と三人は方向転換して歩き出した。
*
犬を抱いた草月を店の外に残し、高杉と伊藤が中に入って行く。
すっかり草月に懐いてしまった子犬は、腹がくちくなって眠くなったのか、草月の腕の中でとろとろとまどろんでいる。
目の前をすい、と赤とんぼが飛んで行った。その姿はすぐに秋晴れの空に溶けて見えなくなる。通りを渡る風は涼しいけれど、子犬の高い体温が心地よく、草月もまた眠気が襲ってきた。ふあぁ、と子犬に隠れて大あくびをしようとした時、店の方から女性の金切り声が聞こえてきた。
(な、何事!?)
中途半端に出たあくびを喉の奥に押し込んで店に飛び込むと、髪を振り乱して激昂した女性が高杉に掴みかかっているところだった。それを、伊藤と店の者が必死で引きはがそうとしている。
「この外道! 娘をどこへやったの! 娘を返して! すずを、すず……」
女性はその場にくずおれて、喉も裂けよと言わんばかりに泣き伏した。
*
「まずは妻の無礼の段、平にお詫び申し上げます」
奥座敷に通された草月らの前に現れた伊勢屋の主人・源右衛門は、畳に手を付き、深々と頭を下げた。その顔は先ほどの女性と同じく、ひどく青ざめている。
「お内儀の様子はどうじゃ。少しは落ち着いたのか」
「はい。今は女中をつけて休ませています」
源右衛門を待つ間に高杉達にちらと聞いたところによると、二人が店に入って手ぬぐいを見せるなり、手代の顔色が変わり、奥へと走って行ったそうだ。入れ替わりのように駆け込んできた女性――この店の内儀――に、いきなり掴みかかられた。
「それで、訳を聞かせてもらえるかの」
「……ご迷惑をおかけした以上、お話ししないわけにはいかないでしょうな。ですが、どうかこの話はご内密にしていただきとうございます」
源右衛門がくどいほどに念を押したその訳は、すぐに知れた。
――源右衛門の五歳になる一人娘、『すず』が、今朝、拐かされたのだ。
お付きの女中と一緒に散歩に出かけた際、女中がほんの一瞬目を離したすきにいなくなっており、店には、すずをさらった旨の文が投げ込まれた。
「文には、今日の昼に大坂へ運ぶ予定の塩を運ぶな、役人には一切知らせるなと書いてありました。言うとおりにすれば、夜半にはすずを返す、と」
塩は越荷方の倉庫に預けている。高値で売れる今を逃しては大損だが、娘の命には代えられない。奉公人たちも分かってくれた。指示通り、役人にも知らせず、ただただ娘の無事を祈っていた時に現れたのが、高杉と伊藤だった。
「あの手ぬぐいは、すずの……、娘のお気に入りで、寝る時も離さず持っちょったものです。それをお武家様が持っていらしたものですから、妻も逆上してしまったのでしょう」
本当に申し訳ありません。
主人は改めて頭を下げた。
「事情は分かった。頭を上げろ。別に咎めだてをする気はないけえ」
高杉の言葉に、源右衛門は、ほんの少しだけ顔のこわばりを解いた。
「お尋ねしてもようございましょうか。その手ぬぐいを、どこで?」
「新地で見かけた子犬の首に巻かれていたんです」
今度は草月がいきさつを説明する。
「では、すずが――、どこかで、その子犬に、手ぬぐいを巻いたということでしょうか」
「おそらく娘が捕まっている場所に犬が迷い込んでくるか何かしたんじゃろう。これを巻けたということは、縛られたりはしていないということじゃ」
「すず――」
高杉の言葉で、娘の置かれた状況を具体的に想像してしまったのか、源右衛門の顔がいっそう悲壮感を増した。
「そこで提案なんじゃが――」
高杉はずい、と身を乗り出した。
「僕らが娘を探して助け出す、というのはどうじゃ」
「――!?」
「こうして関わり合いになったのも、何かの縁じゃ。こう見えて、僕らはこういう荒事には慣れちょってな。越荷方にも顔が利くけえ、多少の融通は通せるぞ」
すでにそのつもりだった草月も伊藤も、高杉の横で大きく頷いた。
*
さすがに即答できなかった主人は、番頭や手代を交えて相談した。手代は強固に反対したが、娘が無事に戻るなら、との主人の決断にしぶしぶ折れた。
「よし、僕と草月は、娘の捕まっていそうな場所を探す。俊輔は越荷方の蔵へ行って、いつでも荷を運び出せるように手配させておけ。拐しの仲間が見張っちょらんとも限らん。くれぐれも気取られんようにな」
「心得ました!」
店の前で伊藤と別れた草月と高杉は、再び最初に子犬に会った場所へと戻ってきた。ここを起点にして、手分けして子犬の目撃情報を集めるのだ。万が一にもすずの居場所を探っていると思われないように、表向きは子犬の飼い主探しを装う。
やたらとあちこちに鼻づらを突っ込んでいきたがる子犬に手を焼きつつ目撃情報を辿るうち、とうとう、にぎやかな通りを外れて、田畑の広がる郊外にまで来てしまった。
「なんじゃお前、ご主人が見つかったんか」
そばの茄子畑から、しわがれ声がかかった。真っ黒に日焼けした老人が、作業の手を止めて、こちらを見ている。
「この子を知ってるんですか?」
「昼前じゃったか、ふらふらと畑に迷い込んできてのう。腹を空かしちょるようじゃったけえ、昼飯の握り飯を分けてやったら喜んで食べちょった。……首に手ぬぐい? いや、わしが見た時は、何も巻いちょらんかったっちゃよ」
「本当ですか!」
手ぬぐいを付けていない子犬の目撃情報は初めてだ。
――ということは、ここからそう遠くないところにすずがいる!
「あの、つかぬ事をお伺いしますけど、この辺に、空き家はありませんか? 空き家じゃなくても、あまり人目に付かない場所みたいなのは……」
「さて、昔はそこの木立の向こうに羽振りのええ商人の別宅があって、良く人を集めて句会なんかを開いちょったようじゃけど、近頃はとんとご無沙汰じゃのう。最近は物騒な破落戸が入り込んじょるようじゃ。兄さんが何を探しちょるんか知らんけど、近づかんちょき」
*
「怪しいな」
あらかじめ打ち合わせておいた場所で草月と合流した高杉は、別宅の話を聞くなり言った。間もなく追いついた伊藤とともに、その別宅を探ってみようと話がまとまり、三人は周囲に気を配りつつそろそろと歩を進めた。
やがて、唐突にそれは現れた。
大きな平屋の一軒家。周りに人家はなく、なるほど雑多な喧騒を離れて優雅な趣味に興じようという商人の別宅としては申し分ない。
だが、久しく手入れされていないのだろう。伸び放題の生垣に遮られ、中の様子は外からは容易に窺い知れない。
「あそこ、見てください」
伊藤が声を潜めて生垣の一画を指差した。下方の一部が乱れ、子犬が通り抜けられるほどの穴が開いている。よくよく見ると、木の枝に、ひと塊の犬の毛がひっかかって、風にふるふると揺れている。
(間違いない、ここだ)
三人は頷き合い、さらに近づいて中の様子を窺った。かすかではあるが、人のいる気配がする。それも複数だ。
「よし、作戦はこうじゃ――」
草月が外で奴らの注意を引く。その隙に高杉と伊藤がこっそり侵入。すずの安全確保を最優先とし、下手人の捕縛は状況次第。
いざ実行、と三人が動き出すよりわずかに早く、目の前を横切ったとんぼに興奮した子犬が、突如、猛烈な勢いで駆けだした。
「あ!」
咄嗟に引っ張った首の縄もするりと抜けて、子犬はけたたましい吠え声を上げながら例の垣根の穴から中へ入り込んでしまった。
突然の闖入者に驚いたのか、にわかに中が騒がしくなる。
「やむを得ん! 計画変更じゃ。このまま突入する!」
「えええええ!」
生垣の門扉をぶち破り、三人は一丸となって敷地内へ飛び込んだ。
雨ざらしで立て付けの悪くなっている障子戸を無理やりこじ開け、薄暗い室内に土足で上がり込む。
むわっとした湿気と、饐えたような黴の臭いが鼻を衝く。
と、部屋の中央に、男が一人倒れている。近づいて覗き込むと、それは伊勢屋の手代だった。
「どうした、しっかりしろ」
目を覚ました手代は、切れ切れに事情を語った。
「私も何かお手伝いできないかと、あなたがたを追いかけてきたのです。ですが、途中、何者かに頭を殴られてここへ――。そうだ! 奴ら、お嬢様を連れて向こうの部屋から外へ! 早くお助けしないと、お嬢様が……!」
勇ましく立ち上がった手代だったが、すぐに、立ち眩みがしたようにふらふらとその場にへたり込んでしまった。
「無理はするな。――草月、こいつを頼む。僕らは娘を追う。まだそう遠くへは行っちょらんはずじゃ。行くぞ俊輔」
「合点!」
二人の姿はあっという間に見えなくなった。
「頭、痛みますか? あんまり腫れてるようだったら、動かないでお医者様を呼んできたほうがいいかもしれない。ちょっと触らせてもらいますよ――」
草月が伸ばした手を、手代は意外なほど素早く避けた。
「いえ、私は大丈夫です。それよりどうかあなたもお嬢様を追ってください」
「でも――」
ためらった草月だったが、重ねて言われて、ついには頷いた。
「分かりました、じゃあ――」
その時、のん気にふんふんと周りを嗅ぎまわっていた子犬が、薄く開いた押入れに鼻づらを突っ込んだ。やがて、静かになったかと思うと、用を足す音と共に何とも言えない臭いが立ち上ってきた。
「――っ、この犬っころが! 何するんじゃ」
戸を蹴破るような勢いで中から男が転がり出てくる。それも一人ではない。二人だ。後の一人は片手に鮮やかな赤い着物に身を包んだ小さな女の子を抱え、しゃべれないように口を手で塞いでいる。
「――え?」
目の前の光景に、暫時、思考が停止する。
すずをさらった者たちは外へ逃げたはずでは。
(まさか――)
草月が振り返ろうとするより早く、背後で、剣呑な光が宿った。




