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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第36話 ひとときの休息を

「京で会った土佐の浜田君を覚えちょるか」

 外国応接掛を訪れた高杉が唐突に切り出したのは、今からひと月ほど前、まだ夏の暑さが残る八月半ばの午後のことだった。

 開け放した窓の外からは、ツクツクボウシの鳴き声が聞こえている。

 馬関に寄港した船の記録をまとめていた草月は、筆を止めて、もちろんです、と言った。

「浜田辰也さんでしょう?」

 いささか熱すぎるほど真っ直ぐな性格の御仁だ。個人的に忘れられない強烈な思い出もある。

「今は『田中顕助』と名を変えたそうなんじゃが……、実は今朝、その田中君から手紙が届いてな。中岡君の指示で、薩摩との提携の手伝いをするため、今ちょうど馬関に来ちょるらしい」

「えっ!」

 驚く草月へ向かって、高杉は何か良からぬことを企んでいる時の、含みのある笑みを浮かべた。

「今日の夕刻に僕の家で会うんじゃが、どうじゃ、おのしも一緒に」


                     *


 傾き始めた陽が照らす障子の向こうから、互いに久闊を叙する高杉と田中の声が聞こえてくる。

 失礼します、と声をかけて、草月は何食わぬ顔で酒器の乗った盆を掲げて入っていく。

「どうぞ」

「おお、これはかたじけない」

 律儀に頭を下げる田中は、以前に会った時より日焼けして、顔つきも少し精悍になったようだ。間近に顔を合わせたにも関わらず、目の前の若者が草月だと気付いた様子はみじんもない。そのまま部屋の隅に控えた草月にちらりと目を向けて、高杉は頃合いを見てごく自然に切り出した。

「――確か、田中君と初めて会ったのは、京の料亭じゃったかな」

「そうでしたのう。いや、あの時分は俺もまだまだ未熟者で、高杉さんの気宇壮大なお人柄に随分感銘を受けたもんですき! ――おお、そうじゃ、あの時会った草月さんというおなごは息災にしちょりますろうか。京の戦の話を聞いて、心配しちょったがです」

「うん、実はそこにいる」

 高杉は大真面目な顔で草月を指し示した。

「は――」

 田中は戸惑ったように高杉と草月の顔を見比べて、それから、もう一度「はあ?」と言った。

 意味を測りかねている田中に向かって、草月は殊更にっこりと笑いかけてみせた。

「お久ぶりです、浜田さん。今は田中さん、でしたか。一度は嫁にと言ってくださったおなごの顔をお忘れですか?」

「……は? いや、まさか……。けんど、その顔……。おまん、まさか、まっこと草月さんかえ!?」

「はい」

 高杉と草月は堪えきれなくなって同時に吹き出した。

「いやー、たまげた。二人とも人が悪いちや」

 田中は大仰に胸を撫で下ろした。

「――すみません! まさかこんなに気付かれないとは思わなくて」

「それにしても、袴姿がしっくりと馴染みゆうのう。おなごに向かって言うことではないけんど、全然違和感がないぜよ」

「京を出てからは、ずっとこの格好ですからねえ」

 草月は苦笑して、

「田中さんは、あれからどうされてたんですか」

「よお聞いてくれた。これが、なかなか話せば長い話で――」

 昨年八月に脱藩して、長州・三田尻の招賢閣にいたこと。将軍のいる大坂・浪華城を焼き討ちする計画を立てるも、幕府の警戒が厳しくあえなく頓挫したこと。捕縛の手を逃れて大和十津川に身を隠していたこと。大仰に身振り手振りを交えて話す様は、さながら講釈を聞いているようだ。

「雌伏の時を終えて、十津川を出たのは七月の初め。その時に、とある御仁から譲り受けたのがこの刀ながです」

 自慢げに掲げて見せたのは、二尺六寸もあるという大振りの大刀。

 講釈の間にも、ちらちらとその刀に目を向けていた高杉は、どうぞご覧くださいと差し出されて、やけに真面目くさった顔で受け取った。

 顔に出さないように努めているが、その実、宝物を手にした子供のようにはしゃいでいるのが草月には分かった。

 高杉が静かに鞘を払うと、磨き抜かれた刀身が現れる。

 草月には刀の良し悪しはさっぱりだが、なるほど確かに美しい。

 波打つ刃文は、まるで月のない夜にしんしんと降りつもった雪のよう。

 十津川で知り合った梶原鉄之助という薩州浪人の佩刀だったのを、一目惚れした田中が渋る梶原にたってと頼み込んで、ついに自分の刀と交換してもらったのだという。

 高杉は魅入られたように一心に刀を見つめている。やがて丁寧に鞘に納めると、決心したように田中を見据えた。

「いや、実に素晴らしい刀じゃ。僕も刀は好きで色々見て来たが、これほどの名刀はついぞ見たことがない。田中君とその薩摩の御仁の奇縁を聞いて、ますます欲しくなった。不躾な頼みで恐縮じゃが、是非とも僕に譲ってくれんか」

「いや、しかし――」

 断りの言葉を口にしかけた田中だったが、ふいに思い直したように言葉を切った。乾いた唇を舐めて言い直す。

「……他ならぬ高杉さんの頼みです。お断りするわけにはいきませんろう。けんど、お譲りするには一つ、条件があります」

「何じゃろうか」

 田中はここぞとばかりにずいっと膝を詰めた。

「是非とも弟子にしていただきたい!」

 これにはさしもの高杉も驚いたのか、呆気にとられた顔をして固まっている。

「初めてお会いした時から、高杉さんのご見識と先見の明、余人にはない発想と高い行動力には心底敬服しちょりました。弟子にしていただけるなら、その刀も惜しくはないがですき!」

 傍で聞いているこちらが恥ずかしくなるほどの美辞麗句だ。草月は足をもぞもぞと動かした。

 高杉は当惑しきった表情で、田中を見つめている。だが、刀の誘惑には勝てなかったのか、ついには諾と言った。

「分かった。僕は人に何かを教えられるような大層な人間ではないが、田中君のことは責任を持ってお引き受けする」

「ありがとうございます、高杉さん! いや、弟子になったんじゃき、高杉先生とお呼びすべきですな。高杉先生、どうぞご指導、よろしくお願い致します!」

「う、うん……」

(田中さんがこの調子じゃ、高杉さん、厠にまで着いて回られそうだな)

 草月はこっそり、笑いをかみ殺した。

 ――まさか、後で自分にもとばっちりがくるとは思いもせずに。


                      *


 その日、草月がいつものように仕事を終えて一二三屋に戻ると、あら草月さん、とおさんが声をかけてきた。

「高杉様って方がいらしてるわよ。少し休ませてくれ、っておっしゃって。階下しただとバタバタしてうるさいから、二階の草月さんの部屋にお通ししたけど、良かったかしら」

「高杉さん? 分かった、ありがとう。――あ、お茶は後で私が持っていくからいいよ。込み入った話になるようだったら、今日、お店手伝えないかもしれないけど……」

 気にしないで、とにっこり笑うおさんに礼を言って、草月はすっかり馴染んだ急な階段をとんとんと軽快に上っていく。

「高杉さん、草月です。入りますよ」

 ふすまを開けて驚いた。

 高杉が横になってすやすやと寝息を立てている。

 そろそろと荷物を置くと、草月は手近にあった上掛けを手に取った。

 起こさないように息を殺して近づき、そっと体にかける。途端、高杉が不明瞭な声を発して寝返りを打った。吊り気味の目が、不機嫌そうに見開かれる。

「あ、ごめんなさい。起こしちゃいましたか」

「いや……」

 高杉は半眼で草月を見上げていたが、

「今、何時なんどきじゃ」

「七つくらいでしょうか。……お疲れみたいですね」

「うん。あれこれとやることが多くてな」

 仰向けのまま、がしがしと目元をこすった。

 高杉は、九月六日に用談役国政方に任命されたのを皮切りに、馬関の蔵元役、越荷方、外国応接掛、海軍興隆用掛、対州物産取引組、と次々に重職に任じられ、先にそれらの役職に就いていた桂とともに、その任に当たることになった。結果、長州の財政、外交、軍事の一手を引き受けることになり、高杉は日々、膨大な仕事に忙殺されていた。

 たまに応接掛の役所で顔を合わせることはあっても、気軽に世間話をする雰囲気ではなく、こうして一対一で話すのは随分と久しぶりだ。

「休むなら、ちゃんとご自分の家で休んだ方がいいですよ。大福さんだって心配してるでしょうし」

「家にいたら、ひっきりなしに客が来て、休むどころではないんじゃ」

「それこそお弟子さんに追い払ってもらえばどうです」

「僕はそんな雑用をやらせるために田中君を弟子にしたわけではない」

 思いの外、強い口調で言われて、草月は失言に気付いた。

「すみません」

「いや……」

 少し間があって、先に口を開いたのは草月だった。

「実はずっと話したかったんですよ。その田中さんのことで」

 高杉は微かに笑みを浮かべた。

「そんなにしつこいか」

「しつこいなんてもんじゃありません」

 草月は梅干しを一度に十個も口に含んだような顔をした。

「やっぱり高杉さんの差し金だったんですね」

「差し金とは人聞きが悪いな」

「だって、顔を見るたびに、薩摩、薩摩って……。いい加減、嫌にもなりますよ。大体、私なんか説得できたとして、大勢たいせいには全然影響ないでしょう。説得するなら、奇兵隊や諸隊に的を絞ればいいのに。相変わらず直情的というか、猪突猛進というか……」

「まあそう言ってやるな。田中君はそのためにわざわざ潜伏先を脱して馬関までやって来たわけじゃけえ」

「師匠なんですから、もうちょっと力加減を教えてあげてくださいよ」

「師匠、か……」

 高杉は途端に気弱な口調になって目を逸らした。

「……高杉さん?」

「なあ草月、僕は師匠としてちゃんとやれちょると思うか。一度弟子として引き受けると決めたからには、きちんと面倒をみるつもりじゃ。……けど、僕はどうにも人に何かを教えるには向いちょらん。松陰先生は、人の個性を見抜いて、長所を伸ばしてくれる天才じゃった。今更ながらに先生の大きさに圧倒されちょる。僕はとうてい松陰先生のようにはなれん」

「何も、松陰先生と同じようにする必要はないんじゃないですか。高杉さんは高杉さんなんですから。高杉さんなりのやり方でやれば」

 草月は寝転ぶ高杉の顔を覗き込んだ。

「高杉さんが教え下手なのは私が身をもって知ってますし。何より高杉さんは行動の人でしょう? 言葉じゃなくて、行動で示せばいいんですよ。少なくとも一人、ここにいますよ。高杉さんの背中を追いかけて、ここまで来た人間が」

 高杉はゆっくりと振り返った。

 唇に柔らかな笑みを湛えた草月の真っ直ぐな瞳が高杉に注がれている。

 その瞳がわずかに茶色味を帯びた黒だというとことに、高杉は初めて気が付いた。まるで導かれるように衝動的に伸びた手が、草月の頬に触れる寸前で迷うように揺れた。ぎゅっと拳を握り、やがて何事もなかったかのように降ろされる。代わりに、高杉はくるりと体を回すとひょいと草月の膝に頭を乗せた。そのまま背を向けて目を閉じる。

「え、あの……、高杉さん?」

「もう少し寝る。半刻ほどしたら起こしてくれ」

 草月はじわじわと頬が熱くなるのを感じた。

「あの、私、お店の手伝いが……」

 高杉は何も答えない。草月からは、高杉の表情は窺えない。

(…………まあ、いいか)

 草月はゆるゆると体の力を抜いた。

 高杉のツンツンとした硬い髪にそっと触れてみる。

(このくらいなら、いいよね)

 おうのの顔が浮かんだ。

 見たことのない高杉の妻のことが頭をよぎった。

 だけど。

 今だけ。

 今、この時だけは。

「ゆっくりお休みなさい、高杉さん」


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