第35話 大福
秋晴れの高い空を、一羽のとんびが大きな羽を広げてゆったりと滑空している。とんびが見下ろす地上には、大小様々の山々に囲まれた馬関の町。
その一画、新地に建つこじんまりとした小間物屋の店先に立って、草月はもう長いことそれを見つめている。
上品な銀製の平打ちの簪。丸い飾り部分には、美しい精巧な桔梗の透かし模様が入り、そこから細く二又に分かれた足がすんなりと伸びている。
手に取って眺めては溜息をつき、棚に戻す。他の商品に目をやりながらも、やはりまたそこへ戻ってくる。そんな動作を何度も繰り返し、やがて未練を振り切るように大股で店を離れた。
数歩も行かないうちに、横合いから声をかけられる。
「何じゃ、買わんのか」
「!」
ぎょっとして振り向いた先には、楽し気に口角を上げた高杉の姿。
「な、いつからそこに!?」
「そこの本屋を覗いちょったんじゃが、向かいで不審な動きをするおのしが見えたけえ」
「……」
一連の逡巡を見られていたのかと思うと、今すぐ回れ右してこの場から遁走したくなるほど恥ずかしい。
「それで? 随分と気に入っちょったみたいじゃが」
とりあえず遁走するのはやめて、人通りの多い道を高杉と並んで歩き出す。からかうような声音で高杉が重ねて訊ねた。
「……ええ、確かにきれいで、欲しいなとは思いましたよ」
草月は観念して答えた。
「でも、やめました。こんな男装してたら、使う機会なんてないですもん。それに、今、他に買いたいものがあって、お金貯めてるところですから」
「ほう。何じゃ? 新しい反物か何かか?」
「いえ、弾薬です」
真顔で即答すると、高杉はやっぱりそっちか、と苦笑を漏らした。
「おのしらしいというか、なんというか……。相変わらず勇ましいのう」
草月は言い訳するように言った。
「だって、何だかんだで短筒の弾はあと二発しか残ってませんし、ゲベール銃の弾だって残り少ないし……」
「待て、ゲベール銃? おのし、何でそねいなもの持っちょるんじゃ」
「遊撃隊を離れる時、石川隊長が特別に安く譲ってくれたんです。せっかく所先生が時間を割いて教えてくれたのに、しばらく撃たないせいで撃ち方を忘れちゃったら、先生に申し訳が立ちませんから。だから今も、時間があれば山に入って練習してるんですよ。いつ幕府との戦が起こってもおかしくないんだし、銃を撃てるに越したことはないでしょう? 仕事で知り合ったイギリスの武器商の人に頼んで、弾を売ってもらう約束なんです」
ちょうど前から歩いてきた男の子が、草月が取り出した短筒を見て、驚いたように後ずさった。その拍子に小石にでも足を引っかけたのか、持っていた風呂敷包みの中身をぶちまけながら派手に転倒した。
「――君、大丈夫? ごめんね、私がいきなり変な物出しちゃったから」
慌てて子供を助け起こし、辺りに散乱した筆や紙などをまとめて渡してやる。
ありがとうございます、と言ってぺこりと頭を下げた子供は、「あ!」と短く叫んで固まった。
どこかに残っていた墨液の飛沫が当たったのだろう。草月の淡い蒸栗色の袴の裾に黒い染みを点々と作っている。
すみませんと青い顔で謝る子供の頭を、気にしないでと笑って撫でてやる。
「寺子屋の帰り? 偉いねえ。気を付けてお帰り」
「うん」
子供はようやく安心したように笑って、ぱたぱたと駆けていく。その小さな背中が人混みの向こうに消えるのを待って、懐紙で袴の裾を拭った。だが、墨はとっくに生地に染み込んでしまっていた。完全に乾いてしまう前に早く落とさなければ、染みが残ってしまうだろう。
「ここからじゃったら、『一二三屋』より僕の家が近いな。寄って行け」
気を利かせて高杉が言ってくれるのに、ありがとうございます、と答えてから、はたと気付いた。
(高杉さんの家って……。もしかして、いや、もしかしなくても、お妾さんがいるんじゃ……?)
ひと月ほど前に、以前住んでいた家を引き払い、小さな庭付きの家を借りて愛妾と共に移り住んだと聞いている。
出来れば全力で遠慮したいところだったが、今さら断るのも不自然だ。腹を決めると、努めて自然な振りをして高杉の後を追った。
高杉の借家は、新地の大通りから一つ通りを挟んだ静かな場所にあった。
「大福! いるか」
高杉の呼ばわりに、へえ、としっとりとした上方訛りを響かせ現れたのは、色白でふくよかな体つきの女性だった。柔らかく細められた少し垂れ気味の目が、見る者をほっこりさせる。歳は草月より二つ三つ下だろうか。
高杉は、彼女――本名は『おうの』――に事情を説明して、染み抜きの準備をするよう言いつけた。そして、自分はこれから伊藤と約束があるからとすぐに踵を返した。最後に、今思い出したという風に振り向いて付け加える。
「ああ、それから、草月はこう見えておなごじゃけえ、脱がせても全く問題ないぞ」
*
おうのは草月が脱いだ袴を受け取ると、用意した白布を染みの裏に当て、炊いた米粒を潰したものを表から刷り込んでいく。
おっとりとした物腰からは意外なほど、てきぱきと動作に淀みがない。
「すごい……、手慣れてるね」
草月が心から感心して言うと、おうのは照れ臭そうに頬を染めた。
「うち、昔からどんくさいよって。大事なお座敷のお着物にも、しょっちゅう、白粉やらお醤油やらの染みを付けては大騒ぎして。せやさかい、自然とお手当てが身についてしもたんどす」
「そうなんだ」
何度か布を叩いたり水で洗ったりを繰り返しているうちに、すっかり染みは落ちた。あとは乾くのを待つだけだ。その段になって、ふいにおうのが声を上げた。
「あれ、まあ、大変やわあ」
「え、ど、どうしたの!?」
おうのは、ちっとも大変そうに見えない感じでおっとりと片手を頬に当てた。
「うちゆうたら、お客様にお茶もお出しせんと」
「……」
*
おうのがお茶とお茶請けの羊羹を持って戻ってきた。
「どうぞ」
「ありがとう」
「……」
「……」
それきり、会話が途切れてしまった。
(どうしよう、気まずいよ……)
おうのは草月の複雑な内心を知ってか知らずか、きれいな所作でお茶を口に運んでいる。
(な、なにか話題はないかな。いつも私、おさんちゃんやお梅ちゃんとどんな話してたっけ……)
「大福さんて――、あ、ごめん、おうのさん、だよね」
うっかり高杉が呼んでいたように呼んでしまって、慌てて言い直す。だが、おうのはさして気にした様子もなく、垂れ気味の目を細めて微笑んだ。
「『大福』でかましまへん。うちも、草月はんて呼んでもよろしおすやろか」
「う、うん、もちろん。……、ええと、大福さんて、その……」
もとより何か話したいことがあったわけではない。沈黙に負けて、思わず口走ってしまっただけだった。
「ええと……、そう、大福さんて、どうして『大福』って呼ばれてるの? 源氏名、じゃないよね」
「へえ。うちが初めて旦はんのお座敷に上がらせてもろうた時に、うちの顔見るなり『大福みたいな顔じゃな』言わはって。それからどす。『大福』『大福』言うて贔屓にしてもろて」
「初対面のおなごに対して、なんて失礼なこと言ってるの高杉さん!?」
思わず突っ込んだ草月だったが、当の本人はにこにこしている。
(そりゃ……まあ、大福さんは色白だし、丸顔でふっくらしてるから、大福みたいに見えないことはないけど……、って、私も何言ってるんだろ)
開け放たれた障子戸からは、庭に植えられた紅葉のわずかに赤みがかった葉が覗いている。
「草月はんは、旦はんとのお付き合いは長いんどすか」
「……知り合ってからは、そろそろ四年になるかな」
草月は羊羹を食べ終えて、わずかに湯気の立つ湯呑を手に取った。香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。
「私、もともとは江戸の芸者さんの店でお世話になってて……。まあ、それから色々あって、こうして男の人の振りして、長州の手伝いをするようになったんだけど――」
実は先の内戦にも参加していたのだと言うと、たいそう驚かれた。
「でも、大福さんだって、大変だったんでしょう? 高杉さんと四国へ逃げた時、何度も役人に捕まりそうになったって聞いたよ。怖くなかった?」
「そうどすなあ」
おうのはのんびりと言った。
「あれまあ、思てるうちに、いつの間にか旦はんに手ぇ引かれて、気ぃ付いたら、もう大丈夫になってましたよって」
なんだかその様子が容易に想像できてしまって、草月は思わず吹き出していた。
笑うと気持ちがほぐれて、そうすると、もう打ち解けるのにさほど時間はかからなかった。
お互いの好きな食べ物や好きな花、十八番の踊り。
お座敷でこんなことがあったよ、と、酔いつぶれた巨漢の客を駕籠に乗せるのに、周りの客を巻き込んでの大騒ぎになった話を草月が面白おかしく話せば、おうのは、はしゃぎすぎた客のカツラが綺麗に弧を描いて飛んで行った話を楽しそうに披露する。
時を忘れて話し込んでいると、玄関のほうで訪いの声がした。
「おうのさん、おるか? 隣の家の伊兵衛じゃ。庭の柿がいっぱい実をつけたもんじゃけえ、おすそ分けに来たんじゃが」
「どうぞ、庭の方へお回りやして」
やって来たのは、髪に白いものが交じり始めた五十がらみの男だった。駕籠いっぱいの柿をおうのに手渡した男は、部屋にいる着流し姿の草月を目に留めて、驚いたような顔をする。 その視線がおうのへ戻り、それから衣紋掛けの袴を見て、ははあ、と一人で納得したように頷く。
――絶対に誤解している。
意味ありげな視線を寄こして帰っていく男を、草月は咄嗟に引き留めようとした。
「ちょっと! 違うって」
「草月はん、うちは別にかましまへん――」
「構うよ! 私のせいで、大福さんが変な誤解されるなんて絶対駄目! 大福さんも、もっと自分のこと大事にしなきゃ駄目だよ!」
おうのは、思いがけないことを言われたように目を丸くして黙り込んだ。
草月は足袋裸足のまま庭に飛び降り、木戸の所で男に追いついた。
「いいですか。あなたがどんな下種の勘繰りをしたか知りませんが、私と大福さ――、おうのさんとの間には、やましいことは何もありません。おうのさんはそんな身持ちの悪いおなごじゃないんです」
「ええ、ええ、もちろん。分かっておりますとも」
伊兵衛はさも物分かりがよさそうに何度も頷いて見せた。
だがその目は明らかに草月の言葉を信じていない。
かっとなった草月は、両手で自分の着物の襟を掴んだ。
「嘘だと思うなら、これを見てみなさい――」
肌着ごともろ肌脱ぎにしようとした手を、
「あかん!」
おうのが後ろから抱き着くようにして止めた。背中から、おうのの熱い体温が伝わってくる。
「おおきに、草月はん。おおきに。せやけどあきまへん。そんなんしたらあきまへん」
「大福さん、大丈夫だよ。晒しだって巻いてるし」
「そういう問題やあらしまへん! うちに自分のこと大事に言うてくれはるんやったら、草月さんかて自分のこと大事にせなあきまへん」
「大福さん……」
伊兵衛は目の前の光景をどう捉えたらいいものかと、混乱した頭で眺めている。
と、そこへ、場違いに明るい声が響いた。
「おう、なんじゃ、こんなところで、二人羽織の練習か?」
「旦はん」
おうのが泣きそうな顔で声の主――高杉を振り返った。
「高杉さん、伊藤さんの家に行ったんじゃなかったんですか?」
「それが留守での」
短く答えた高杉は、すっと伊兵衛のほうに視線を向けた。
「――伊兵衛、うちに何か用か」
冷え冷えとした声に、男は真っ青な顔で後ずさった。
「わ、私は、そ、その、か、柿のお裾分けに……」
「そうか。それはわざわざすまんかったの」
「いえ……」
へっぴり腰になりながら、それでも伊兵衛は食い下がった。
「あの、ところでそちらの方は……? 随分とおうのさんと親しくしていらっしゃるようでございますが……」
「この草月は、僕の最も信頼する知己の一人じゃ。僕の留守中、何かにかこつけてやってくる好色な連中がおるけえ、おうのを任せちょった。何か問題でも?」
「め、滅相もございません。それでは、私はこれで失礼いたします!」
含みのある言葉に、だらだらと冷や汗を流しながら、伊兵衛は逃げるように出て行った。
「旦はん――」
言いかけたおうのの言葉を、高杉は分かっていると言うように手を振って遮った。
「悪かったの、二人とも。じゃがまあ、これであの助平も懲りたじゃろう」
高杉の言葉にほっとしたように体の力を抜いたおうのは、ようやく草月から体を離した。
「ありがと、大福さん。かばってくれて」
「うちのほうこそ、おおきに」
照れたように微笑みあう二人を前に、高杉は一人、所在なげに呟いた。
「……すっかり仲良くなって。何やら妬けるのう」




