第34話 それぞれの思惑
しつこく居座っていた夏の暑さも、急速に秋の涼しさへ取って代わられつつあった九月。
朝日にきらめく馬関海峡の海には、今日も沿岸を埋め尽くさんばかりに多数の船が停泊している。
そこから少し離れた沖合に、一際目を引く船がある。
イギリス製の木造蒸気船で、船体の全長はおよそ十五丈(四十五メートル)。甲板から三本の帆柱が空高く伸びる。中央には真っ黒な煙突が突き出し、両舷にはそれぞれ二門の大砲が備わっている。
昨夏の講和条約以降、蒸気船が出入りするのはもはや珍しくもなくなったが、この船が異質なのは、ここ長州にあって、薩摩の旗を掲げている点だ。
長州が薩摩名義で購入したもので、八月の末に、伊藤とグラバーを乗せて馬関港に到着したばかりだった。
その翌日には、井上が最新式のミニエー銃、四千挺を積んだ薩摩船で三田尻に到着。
長州は懸案だった武器と軍艦の二つを同時に手に入れたことになる。
ただ、この報に藩士の全員が諸手を上げて喜んだわけではない。藩内には、草月のように薩摩との提携に断固反対の者が未だ大半を占めていたからだ。
縄張り意識から、海軍局は蒸気船購入に文句をつけ、さらには運用方法を巡って、長州と薩摩、仲介役の坂本龍馬率いる社中との間で激しく意見が衝突した。話し合いの末、どうにか三者の折り合いをつけて約定が成ったのは今月に入ってのこと。
長州藩主・毛利敬親は、薩摩の島津久光に宛てた礼状をしたため、土佐の上杉宗次郎に託して薩摩へ届けた。
文久三年以来、断絶していた薩摩との糸が、細く細く、だが確実に繋がり始めていた――。
*
「でもやっぱり草月は薩摩との提携には反対なんだよなあ!」
ごくごくと美味そうに喉を鳴らして酒を飲みながら、伊藤が向かいに座る草月をわざとらしくねめつけた。
馬関は新地にある老舗料亭の一室。
柔らかな行灯の明かりに照らされた広い室内には、伊藤と草月の他に、桂、高杉、井上の姿がある。夜空に星の輝くこの時間になると、昼間の喧騒が嘘のように、ひっそりとしている。聞こえるのは、涼し気に鳴く虫の声だけだ。
「俺と聞多が薩摩で歓迎されたって話しても、ちっとも響いた様子ないし。ホント妙なとこで頑固なんだから」
「嫌いなものは嫌いなんです。……ついこの間、久坂さんたちの一周忌があったばかりなんですよ? それなのに、その仇の薩摩との提携なんて、考えたくもないです」
「昔のことをいつまでねちねちと引きずっちょるんじゃ。大事なのは、過去の遺恨より、この先の未来じゃろうが」
「井上さん、それ、久坂さんの墓前で言えますか!?」
「幕府に負ければ、参る墓すらなくなるんじゃぞ! 大体、薩摩と手を組む以外に、幕府に勝つ算段があるのか? すでに朝廷からは長州征討の勅許が下りた。幕府はこれを盾に諸藩に動員命令を出し、今度こそ大軍をもって長州に攻め込んでくるじゃろう。前回のように、ご家老の首を差し出して攻撃を回避するわけにはもういかん」
「それは分かってますけど! でも、武器の調達なら、薩摩の手を借りなくたってできるでしょう? 対馬藩に名義を貸してもらってもいいし、それが無理でも、幕府に知られないよう、極秘裏に武器を買うことだって……。井上さんたちがいない間、村田先生が独自に調達したミニエー銃が馬関に届いたんです。私も応接掛の仕事を通して、外国商人の知り合いも増えましたし、条件次第で武器を融通してくれる人もきっと――」
「馬鹿か! あの人が調達したのはたったの二百挺じゃ! わしらが調達した七千挺にははるかに及ばんわ! お前の言う、その外国商人に、それだけの数を手に入れられる確実な保証があるか? 大体、そうやってちまちまやっちょるうちに、幕府が攻めてくるわ、この大たわけが!」
「二人とも、その辺にしておけ」
互いに火花を散らす草月と井上を見かねて桂が静かに割って入った。黙って面白そうに眺めていた高杉も、
「そうじゃそうじゃ。あんまりごねちょると、桂さんの眉間の皺が余計に深くなるぞ。そのうちぱっくり避けて中からもう一つの目が開眼せんかと心配しちょるんじゃ」
「私は妖怪か」
高杉の軽口に桂がどすの利いた声で突っ込む。と同時に、残りの三人が一斉に吹き出した。それを見て、ますます桂が渋柿を食べたような顔になる。
桂は最近、この渋面が標準仕様になりつつある。というのも、薩摩との提携の是非以外にも、長州内には問題が山積みだったからだ。
まずは、国政を担当する国用方が未だ萩におり、山口の政府と藩庁が二分されていること。このことが政策の混乱と遅延を招く要因となっていた。
さらには支藩領である馬関の、本藩による借り上げ交渉の難航。
あまりの反対意見の多さに閉口した桂は、ついには辞表を出して萩に引っ込むと言い出した。慌てたのは藩政府だ。同僚が翻意を促し、それでも桂の決意が曲がらないと、今度は世子自ら桂を呼んで慰留した。
今日は、その桂の慰撫と、無事に大役を果たした井上・伊藤の慰労という名目で、五人が集まったのだった。
「――冗談はともかく、幕府との戦は、早ければ早い方がええな」
手酌で酒を注ぎながら、高杉が表情を改めて言った。
「あまり時間をとると、またぞろ俗論等が騒ぎだすとも限らん。幕府の懐柔に惑わされず、決戦必至の今の勢いのまま戦いに挑むべきじゃ。イギリスも、フランスも、ロシアも、列強は須らく内戦を繰り返して強くなっちょる。日本も、今までのように表面だけ組織を作り替えても意味がない。徹底的に戦いを経験することで強くなるんじゃ。世子様にもそう申し上げた」
「しかし、外国との協定で馬関に砲台を築けないというのはかなり痛いな。海上からの攻撃に対し、応戦の術が軍艦しかない。かといって、数少ない軍艦を馬関にばかり集中するわけにもいかん」
先だって、イギリス公使パークスの乗る船が馬関に寄港した時、桂と高杉が乗り込んで行って、砲台再建の許可を求めたものの、イギリス一国で決められないと跳ね除けられてしまったのだ。
「そうですね。去年の外国艦隊との戦では、火力差があり過ぎて、こちらの大砲はほとんど役に立ちませんでしたけど――」
難しい顔で腕を組んだ桂の言葉に、草月が箸を置いて応じる。
「諸藩との戦なら、かなり有効ですよね。西洋文明に疎い藩も多いでしょうから、あの轟音と爆発を目の当りにしたら、きっと士気もだだ下がりですよ」
「だよなあ! きっと奴ら、大砲見ただけで腰抜かすぜ!」
「いっそ、張りぼての大砲でも置くのはどうです?」
「そりゃいいや。どうせ、遠目からじゃ、本物かどうかなんてろくに分からないだろうし、海岸にずらっと並べておけば、勝手に怖気づいて近寄ってこないぜ」
大いに盛り上がる草月と伊藤を、桂が生暖かい目で見やった。
「……お前たち、真面目にやれ」
「あれ、俺たちかなり本気で言ってたんですけど。――なあ草月?」
「ええ、もちろんです」
大真面目な顔をして頷きあう二人を前に、
「……やはり、さっさと萩に引っ込んでおけば良かった」
どっと疲れたように眉間に手をやった桂だった。




