第33話 偽りの許嫁
馬関での草月の一日は、明け方、おさんと共に朝食を作ることから始まる。土間に二つ並んだかまどに火を熾し、一方には米を入れた釜を、もう一方には水を張った鍋をかける。おさんが竹筒で火加減を調整する横で、草月が刻んだ野菜を次々と鍋に入れていく。柔らかくなるまで火が通った頃、市場へ魚を仕入れに行っていた一太郎が帰ってくる。鍋に味噌を解き入れて、いい具合に炊き上がった米と一緒に三人で朝食となる。
食事が済むと、一太郎はさっそく店で出す料理の仕込みに取りかかり、おさんは裁縫の師匠のところ、草月は外国応接掛の役所へと出かける。
夕刻、草月が仕事を終えて『一二三屋』に戻ると、その日も店は美味しい夕飯を求めて来た客でいっぱいだった。一人で給仕に駆け回るおさんを手伝い、草月も注文を取り、料理を運び、空いた膳を片付ける。
長尻だった最後の客を見送り、草月が暖簾を下ろしに外へ出た時だった。通りの暗がりに潜んで、店を窺う怪しい人影に気付いた。
「あの、うちに何かご用ですか? あいにくと今日はもう店じまいなんですけど」
草月が声をかけると、人影――若い男だ――は驚いて文字通り飛び上がった。
「草月さん? どうかしたの」
なかなか戻らない草月を心配してか、おさんが顔を出した。途端、男があっと言って前へ出た。
「お、おさん!」
「――仙吉さん!?」
互いに名前を呼び合ったきり固まっている二人の顔を交互に見比べて、草月は戸惑いつつ口を開いた。
「ええと、おさんちゃんの知り合い? あ、じゃあ、中に入ってもらって――」
「いいえ。知り合いなんかじゃないわ!」
おさんは強い口調で草月の言葉を遮った。
「おさん、話を聞いてくれ――」
「帰って! 今さらあなたと話すことなんか何もないんだから!」
「ねえ、事情はよく分からないけど、二人とも少し落ち着いて……」
「うるさい! 関係ない奴は黙っちょけ!」
「ちょっと、草月さんに失礼なこと言わないで!」
おさんが草月をかばうように前に出たのを見て、仙吉と呼ばれた男はますます不機嫌になる。
「……おさん、誰なんじゃ、そいつは。随分と親しげにしちょるじゃないか」
「いいわ、じゃあ教えてあげる。この人は草月さんと言って、うちの好い人――そう、許嫁よ。兄さんの許しももらって、もう一緒に暮らしてるんだから!」
ええ!? と草月が言うより早く、仙吉は目をひん剥いて叫んだ。
「何じゃと! おさん、それは本当か!」
「あら本当よ。疑うなら、兄さんに聞いてみたらいいわ! ねえ、草月さん」
おさんはぴたりと草月の体に身を寄せて、どうだと言わんばかりに仙吉を睨みつけた。
*
「――それでおのしは何て答えたんじゃ。そのおさんという娘を必ず幸せにするとでも言ったのか?」
その二日後。
外国応接掛の役所に顔を出した高杉は、一連の顛末を草月から聞いて、遠慮なくげらげらと笑い飛ばした。
「言えるわけないでしょう、そんなこと。こっちが何も言えないでいるうちに、走ってどこかに行っちゃいましたよ」
草月は備品の在庫確認の手を止めて、不貞腐れたようにため息をついた。
「おさんちゃんにどういうことか聞いても答えてくれないし、仕方ないから、後でこっそり一太郎さんに聞いたんです。そしたら、なんとあの人、老舗の瀬戸物屋の次男坊で、しかも、おさんちゃんの許嫁だったんです!」
「ほう」
「正確には元・許嫁らしいですけど。……なんでも三年くらい前に、仲人さんが持ってきた縁談で――」
とんとん拍子に話が進んで、嫁入りの日取りを決めるところまで行ったらしい、と草月は言った。
だがその矢先、不慮の事故でおさん兄妹の両親が亡くなってしまう。三兄妹は悲しみに浸る間もなく、生きていくために店の切り盛りに忙殺された。縁談の話はうやむやになり、風の噂で仙吉が江戸へ商売の修業に行ったと知った。
「三年ですよ? 一度は夫婦になろうって決めた相手を三年も放って置くなんて。おさんちゃんが怒るのも分かります。今日なんか、その仙吉って人への当てつけみたいに、常連の若旦那の誘いに乗って芝居見物に出かけちゃったし」
買い出しの必要な備品を手控え帳に書き付け、高杉と共に役所を出る。
「……実は、不思議に思ってたんですよね。おさんちゃんの齢なら、とっくにお嫁に行っていてもおかしくないのに、全然浮いた話も聞かないし。明るくて働き者だから、きっと縁談もいっぱいあったはずなのに」
熱っぽく話し続ける草月に相槌を打ちつつ、高杉はちょっと後ろをうかがうような仕草をして、それから出し抜けに言った。
「ところで、その仙吉とかいう奴は、年の頃は二十三、四。身の丈およそ五尺二寸、痩せ型で鼻先が上向き加減の男か」
「ええ、確かにそんな感じの人でしたけど……、なんで分かるんです?」
「役所を出た時から、こっそり僕らの後をつけて来ちょる」
「ええ!?」
ばっと振り向いた瞬間、脇の路地からこちらを窺っていた仙吉と、ばっちり目が合ってしまった。
仙吉は腹をくくったように顎を引くと、大股でこちらにやってくる。
とっさに身構えた草月の前で、仙吉は、がばりと頭を下げた。
「この間は、酷い態度を取って、すまんかった!」
「……え?」
「久しぶりにおさんに会って、気が動転しちょった。おさんは心底あんたに惚れちょるようじゃ。あんたを男と見込んで頼みがある。どうか、おさんのこと、幸せにしてやってくれ。俺が言いたいのはそれだけじゃ。じゃあな」
「え、いや、ちょっと待ってよ!」
草月は慌てて引き留める。
「あなた勘違いしてるって! あの時、おさんちゃんが言ったことは――」
「いや、皆まで言わんでいい。おさんから、俺のこと聞いたんじゃろう? 三年も待たせたんじゃ。気持ちが変わることだってある。恨んだりしてないし、もう二度と会いに行ったりもせんけえ、安心しろと伝えてくれ」
「だから、勝手に自己完結して満足しないでよ! 私とおさんちゃんはそんな関係じゃなくて……」
高杉はしごく面白そうに二人のやり取りを眺めていたが、任せろ、と言って、ひょいと割って入った。
「おい、おのし、心配せんでもええぞ。こいつとおさんは確かに一緒に暮らしちょるが、夫婦の約束をしちょるわけではない」
「なにっ」
一転、仙吉の顔がみるみる険しくなった。
「お前、ただの遊びで、おさんのこと弄んだのか、許さねえ!」
「――余計こじれてるじゃないですか!」
草月は頭が痛くなってきた。
「待って、誤解だって! おさんちゃんのことは好きだけど、そういう意味じゃなくて……」
「やっぱり遊びだっていうのか」
「そうじゃなくって、ああもう、面倒くさいな! だから、私は女の人じゃなくて、男の人が好きなの!」
「男ォ?」
仙吉はいささかたじろいで後ずさった。
「お、お前、衆道か?」
「違う!!」
速攻で否定した草月の隣で、高杉が笑いを堪えきれないように体を震わせている。
「あのね、こんな格好してるけど、私は女なの! おさんちゃんだってそれは承知の上なの! あなたに腹を立ててたから、意趣返しに私を許嫁だなんて嘘ついたのよ」
「は? お、おんな? どう見たって男じゃろうが。どこの世にそんな成りしたおなごがいるんじゃ」
「ここにいるのよ! 大体、あなた、おさんちゃんがご両親を亡くして辛い時に、どうしてそばにいてあげなかったの!? 見捨てて江戸に行くなんて、最っ低! おさんちゃんが怒るのも当然よ!」
「え? ち、違う! 俺はおさんを見捨てたりしちょらん! おさんを立派に養える男になるために、江戸で商売の修業をして、きっと一人前に帰ってくるけえ待っててくれって手紙に書いて――」
仙吉の表情が、まるで石を吞み込んだように強張った。
「そうじゃ、手紙に書いて、友人の京之助に預けた。おさんに渡して欲しいと言って――」
「京之助? それって、新地にある塩問屋の若旦那のこと?」
「ああ。――くそ、あの野郎! 自分ではそんな気はないとか言いながら、やっぱりおさんに惚れちょったな! 俺の手紙を握りつぶしたに決まっちょる。正々堂々挑みもしないで、姑息な手を使いやがって!」
「それまずいよ! おさんちゃん、あなたへの当て付けに、その人と今日、芝居見物に出かけちゃったのよ」
「何じゃと!」
*
傾きかけた陽が、空と海を橙色に染めている。
草月とおさんは海岸の砂浜に並んで腰を下ろしていた。
押っ取り刀で駆けつけた寺の境内で芝居見物の人混みの中からどうにかおさんと京之助を見つけ出したのが半刻前。仙吉が問答無用で京之助を殴り飛ばし、好奇の目を向ける観客から逃げるようにおさんを連れ出した。
こういうことは女同士のほうが話しやすいから、と高杉と仙吉を締め出し――ついでに役所の買い出しを押し付け――、二人でここまでやって来た。
草月が一通り説明を終えても、おさんは一言も口を利かずに唇を引き結んでいる。
空は見る間に色を変えていく。
「綺麗だね……」
草月は空を見上げたまま続けた。
「ねえ、おさんちゃん。こんな男の人の成りした私が言うのも説得力がないけど、誤解も解けたんだし、仙吉さんのこと好きなら、素直にならなきゃ駄目だよ」
「……だって、分からないもの」
しばらく間が空いて、ようやくおさんが口を開いた。
「好きってどういうことか。お見合いをして、縁談が決まって、何にも疑うことなく、この人のお嫁になるんだって思ってたわ。でも、父さんと母さんが死んで、何もかも変わって、もう何も分からなくなった。仙吉さんが好きなのかどうかも、うちには分からない。草月さんは分かるの? 好きってどんな気持ち?」
「……言葉にするのは難しいな。きっと、人によって、気持ちの在り様は違うんだと思う。だから、私にとっての『好き』がどうか、っていうことしか言えないけど……。私が自分の気持ちに気付いたのは、そうだな……」
草月は少しの間、目を閉じた。胸の奥深くの感情を探すように。
「……その人の孤独に触れたから、かな」
空の高いところを、一羽のとんびがゆっくりと飛んで行く。
「その人はね、いっつも偉そうで、自信たっぷりで、破天荒で……。だから時々忘れそうになるんだけど、本当はすごく繊細で、悩んだり、傷ついたりしてる人なの。普段見せないその人の心の裡に触れた時、ただもう感じたの。この人が好きだって。きっと、ずっと前から、自分の中にその気持ちはあって、でも認めるのが怖くて、気付かないふりしてた。でもそんな自分の弱さが吹っ飛んじゃうくらい、気持ちが溢れて来ちゃったんだよね。この人を守りたい、そばにいたい、力になりたいって」
「……その人と、夫婦にはならないの?」
「なれないの。奥さんも子供もいる人だし、……お妾さんだっているんだよ? それに、その人からしたら、私は女だてらに国事に関わる変わった奴くらいにしか認識されてないだろうし。だから、駄目なの」
「それって、辛くない?」
「そうだね、時々、辛くなるかな。でも、その人の近くにいられて、その人の助けになれるなら、私はそれがいいの。女として見てもらえなくても、仲間として一緒にいられるなら、それだけで幸せ」
おさんは微笑む草月を見つめた。飾り気なく一つにまとめた髪が、風にさらさらと揺れて草月の肩を滑り降りる。
「素敵よ」
おさんの口から思わず言葉がついて出ていた。
「え?」
「男の人の格好をしていても、草月さんは素敵な女の人だわ」
むきになったように言って、なぜか零れ落ちそうになった涙を堪えた。
自分でもどうしてこんなに悲しいのか分からなかった。
「ありがとう」
草月がそっと言って、おさんの手を握った。おさんがその手をぎゅっと握り返す。
「……草月さん。うち、仙吉さんともう一度よく話してみる」
「うん。それがいいよ」
沈みかけた太陽の上を、つがいの鳥が仲良く飛んで行った。




