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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第32話 招魂祭


 桂は井上と伊藤を武器調達のため長崎へと派遣することを決め、二人は楠本と共に、七月十六日に馬関を発った。同じ頃、高杉と草月もまた桂の指示を受け、それぞれ奇兵隊と遊撃隊の屯所を訪れていた。薩摩との提携に対する反応を探るためである。

 草月の古巣である遊撃隊は長州の東端、岩国支藩にほど近い高森という山間の地に駐屯していた。隊長の石川小五郎にあいさつし、古馴染みの隊士らと近況を語り合う。薩摩について水を向けると、彼らの反応は、やはりというべきか、『薩摩憎し』の大合唱だった。

 草月がそうであるように、長州藩士の中で薩摩と会津に対する憎悪は根深い。なにしろ下駄の裏に『薩賊会奸』と書いて踏み歩くくらいだ。

 続いて訪れた三田尻の御楯隊でも反応は似たり寄ったりで、

「たとえ異人に屈しようと、仇敵と手を組むなど、死んだ同志に対して申し訳が立たん!」

 品川などは鼻息荒く言い切った。

「お前もまさか京の恨みを忘れた訳ではないよな?」

「私だって薩摩は大嫌いだし、全く信用なんかしてません。土佐の人を使いに寄越すばかりで、未だに薩摩の人間は一人も来てないんですよ? いつだって提案を引っ込められるように安全策を講じてるとしか思えません。今度の武器購入の件だって、本当に協力してくれるかどうか怪しいものですよ」

 勢い込んで言ってから、でも、と声を落とした。

「実際問題、武器が不足しているのは本当なんでしょう? 遊撃隊のほうでも、隊士全員に新式銃が行き渡らなくて困ってるって話でした」

「そんなもん、薩摩に頼らんでもどうにかして手に入れる!」

「え、品川さん、どこか当てがあるんですか」

 品川は一瞬詰まってから言った。

「それはこれから考える! とにかく、薩摩に頼ることだけは絶対にせん! これは御楯隊の総意じゃ。桂さんにもそう伝えてくれ」



                      *


 半月近くに及ぶ長旅を終えて馬関に戻った時には、暦は七月から八月に変わっていた。『一二三屋』で旅装を解き、汗と埃まみれの体を拭いてさっぱりすると、帰還の報告がてら外国応接掛の役所に顔を出した。ちょうど良く知った役人が書類整理をしていたので声をかける。

「――草月か。長旅ご苦労じゃったな」

「ただいま戻りました。――こちらは特に変わりはありませんか」

「ない、と言いたいところじゃが……。井上、伊藤に続いてお前まで抜けたけえ、少々外国人との意思疎通に手間取っちょる。まあ、幸い、さほど無理難題を押し付けてくる輩もいなかったけえ、何とかなったが。……それはそうと、高杉さんにはもう会ったか」

「いえ、まずはこちらにご挨拶してからと思って……。高杉さんがどうかされたんですか」

 ああ、と男は難しい顔をした。

「お前より先に戻られたんじゃが、体調を崩して寝込まれてな。一時は命も危ういのではと言われて――、っおい、草月!?」

 男の話を最後まで聞かず、草月は役所を飛び出していた。

「――高杉さん!」

 高杉が住む新地の家まで、夢中で駆け抜け、障子戸を突き破るような勢いで部屋に飛び込む。

「おう、戻ったか草月。そねいに慌てて。幕軍でも攻めて来たか」

 文机に向かい、ゆったりと本を読んでいた高杉が、振り返って草月の狼狽ぶりを面白そうに眺めた。

「た、高杉さん……? 病気は? 大丈夫なんですか?」

「なんじゃ、もう聞いたのか。心配ない。良くなった。一時は耳も聞こえなくなるし、さすがにもういかんかと思ったが、幕府を蹴散らすまでは絶対に死ねんと思い定めちょったら、病の方が逃げて行った」

「あぁ……」

 草月はへなへなとその場に座り込んだ。

「良かった……」

「大げさじゃのう」

「大げさなものですか! 私が、どれだけ、心配したか……! 所先生みたいに、突然いなくなっちゃうんじゃないかって、怖くて――」

病気だと聞いた時の、足元が崩れ落ちていくような感覚がよみがえり、草月はぐっと腹に力を込めて唇を引き結んだ。

 さすがに悪かったと思ったのか、高杉が神妙な顔をした。

「悪かった、心配かけて」

「いいえ……。大丈夫なら、もういいんです。……こちらこそすみません、大きな声を出して」

 深呼吸をして気を落ち着ける。

 高杉が「それで?」と問うた。

「遊撃隊の様子はどうじゃった? やはり、薩摩との提携には反対か?」

「反対なんて可愛らしいものじゃありません。大反対ですよ。強引に推し進めようものなら、武力攻撃も辞さないって感じでしたよ。御楯隊も右に同じです」

 奇兵隊の方はどうでしたか、と聞くと、高杉は右に同じじゃ、と草月の言葉を真似た。

「今の状況では、諸隊の翻意は難しいじゃろうな。聞多たちの武器調達がうまくいけば、少しは風向きが変わるかもしれんが」

「薩摩の手を借りて手に入れた武器なんか死んでも使いたくないって、余計に反発が大きくなる可能性のほうがありそうです」

「言えちょるな」

 はははと高杉が笑った。

「後でちゃんと桂さんに報告書を書かないと……。そういえば、それ、何読んでるんですか?」

「ん? ああ、松陰先生の遺稿じゃ」

 高杉は部屋の隅にうず高く積まれた大量の書物や紙束を手で示した。

「整理しようと思って萩から取り寄せたんじゃが、なかなか進まなくての」

「へえ……、見てもいいですか?」

 高杉の許可を得て、一番上に置かれていた冊子を手に取り、中を開く。少し右肩上がりの癖のある字が、細かく、びっしりと書き連ねてある。ぱらぱらと捲ってみたが、漢字ばかりだ。全然読めない。

 読める箇所はないかと、しばし悪戦苦闘した後、あきらめて隣の冊子を手に取る。

 適当な頁を開いて、すぐさま表紙を閉じた。

 これまた頭が痛くなりそうなくらい漢字ばかりだった。

 しおしおと無言で元の山に冊子を戻す草月を見て、高杉は可笑しそうに口元を緩ませると、積んである山の間から、一冊の書を選び出した。

「これは……?」

 恐る恐る中を開くと、一見して先ほどまでの書とは違う。良く見ると、数行ごとに日付と天気が書かれてある。

「あ、日記?」

「ご名答。松陰先生が見聞を広めるべく東北を旅した時の記録じゃ。……これは嘉永五年、今から十三年前か。先生が二十二、三歳の頃じゃな」

「今の私より若いんだ……」

 まじまじと頁を見つめる。が、すぐに顔を上げ、

「あの、日記って、個人的なものですよね。それを私なんかが読んでもいいんでしょうか」

「先生は気にせんじゃろう。知識や情報を集めて共有することを良しとした人じゃったけえな」

 そう言われて改めて本文に目を落とした。

 漢文で書かれているのは同じだが、難解な論策と違って、旅程や風景描写が主なので意味を追いやすい。

「あ」

 真剣な顔でじっと文字を目で追っていた草月が、ふいに小さく笑みを漏らした。

「どうした?」

「ほら、ここ」

 草月は高杉に向けて、開いた頁の一部分を示した。


 ――廿二日。晴。終日不出。


「他の日はちゃんと詳しく書いてあるのに、この日はたったの一行で終わってます。……松陰先生も書くのが面倒だったんでしょうか」

 想像すると、ちょっと可笑しい。

 今まで吉田松陰の逸話は山ほど聞いたけれど、こうして本人が書いたものを目の当たりにすると、伝聞の中にしかいなかった松陰という人物が、血肉を伴った人間として身近に迫ってくる。

 草月はそっと日記の文字をなぞった。

「この人のもとで、みんな、勉強してたんですよね……。高杉さんも、久坂さんも、伊藤さんも……。私もいつか、行ってみたいです。松下村塾。みんながいたところ」

「機会があったら、僕が案内してやる。狭いところじゃけえ、見たら驚くぞ」

「ありがとうございます! 楽しみにしてます。――っと、いけない! ついつい長居し過ぎちゃって。私、これで失礼しますね」

「何じゃ、帰るのか。もうちょっといいじゃろう。俊輔もいないし、独りで退屈なんじゃ」

「病み上がりなんですから、無理はしないでください。もうすぐ招魂祭でしょう? 発議人の高杉さんが、病気で出席できなくなったら困りますよ」

 高杉はしぶしぶといったふうに承知した。


                       *


 八月六日、招魂祭当日。

 躍動感あふれる真っ白な入道雲が広がる晴天の中、うっそうと生い茂る木々に囲まれた招魂場には、四方から蝉の声がまるで迫りくるように、止むことなく響いている。

 そして、ほんのりと芳しい木の香りが漂う真新しい社殿の前に、発議人の高杉を筆頭に、軍装の奇兵隊士たちが整然と並んでいた。草月はその最後尾に連なり、粛々と式が進んでいくのを、じっと見守っていた。

 滞りなく式典は進み、最後に高杉の歌が奉納される時が来た。

 静謐な空気に包まれた清浄な境内に、高杉のやや高い声が響く。



  猛烈奇兵何所志

  要将一死報邦家

  尤欣名遂功成後

  共作弔魂場上花


   (猛烈の奇兵何の志す所ぞ 一死をって邦家に報いんと要す

    尤もよろこぶ名を遂げ功成りて後 共に招魂場上の花とらんを)



  おくれてもおくれても又君たちに

  誓ひしことをあに忘れめや


  弔わる人に入るべき身なりしに

  弔う人となるそはつかし



 ひと節ごとに、この場の空気が清浄になっていくような心持がした。

 いつしか、蝉の声も、葉擦れの音も、隊士たちの息遣いも、一切の音が消えて、高杉の声だけが聞こえる。

 周りの隊士の姿さえ消えて、世界にただ高杉と草月だけがいる。

(ああ――)

 ひりつくような胸の痛みの訳を、草月は唐突に悟っていた。

(……ああ、そうか、私、高杉さんのこと――)


 ――どうして、そこまでできるの? もしかしたら、自分の命が危なかったかもしれないのに

 ――だって、好いた人のためだもの。草ちゃんだって、そんな人がいたら、きっと同じようにするわ


(今なら分かるよ、お花ちゃん)

 草月は遠い遠い高杉の背中をただじっと見つめ――

 そして――、ようやく名前を得たその感情を、心の奥深く沈めて鍵をかけた。



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