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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
33/84

第31話 桂の提案

 からりと晴れた青空に浮かぶ真っ白な雲が、強い風に勢いよく流されていく。

 自身もその風に髪を盛大に遊ばせながら、草月は高い空から隣に座る坂本へと視線を転じた。

 亀山八幡宮のそばに建つ小さな茶屋。店先に置かれた床几に二人並んで、坂本は先ほどからずっと前方の海を凝視したまま動かない。

「……来んなあ」

「そんなに睨みつけてても、龍馬さんの眼力で薩摩の船が出てくるわけじゃないですよ」

 遠眼鏡から目を離さない坂本に、のんびりと団子を頬張りながら草月が言った。

 桂と坂本との会談から十日が過ぎ、十五日が過ぎても、一向に西郷が現れる気配はなく、さしもの楽天家の坂本も、焦りを見せるようになっていた。

「それに、今日はいいお天気ですけど、海のほうはかなり時化てるみたいですから、きっと来ませんよ。漁船や廻船だって、海に出るのを止めてるくらいですもん」

 新たに異国船が入港することもなく、おかげで今日は早々に仕事が終わり、こうしてお梅の働く茶屋でゆっくりしていられるのだ。

「そうもいかんちや。昨日なんぞ、山口に帰ろうとする桂さんを必死で引き留めたら、『この十五日の間に、二百八十六回は帰ろうと思った』ち、真顔で言われて、わしは本気で泣きそうになったぜよ」

「それは何とも……、ご愁傷さまです」

 悪いとは思いながらも、ふはっと笑ってしまった。そのまま肩を震わせていると、仕事の手が空いたお梅がやってきて、草月に小さな風呂敷包みを差し出した。

「草月さん、これ、前に言っちょったやつです。古いものが多いですけえ、そねいに良いものではないですけど」

「わ、ありがとう!」

 風に飛ばされないよう気を付けながら慎重に包みを開ける。中にあったのは、朱や黄色、薄桃など、色とりどりの端切れだ。

「可愛い! これ全部お梅ちゃんが着てた着物?」

「ええ。子供の頃のも交じっちょるけ、ちょっと恥ずかしいんですけど」

「ううん、そんなことない! 柄も花とか蝶とか市松模様とか色々あるんだね……。うわあ、迷うなあ。ねえ、これ、一度持って帰って、ゆっくり選ばせてもらってもいいかな」

「ええ、もちろん。気に入ったのがあれば、どれでも使ってください」

 お梅はにっこり笑うと、一礼して仕事に戻っていった。

「なんじゃあ? 端切れ屋でも始めるつもりかえ?」

 いつの間にか遠眼鏡から目を離した坂本が、興味津々に草月の手元を覗き込んでいる。

「ふふふ。実は、ずっと大事に着てた着物があるんですけど、それがいよいよ擦り切れて着られなくなっちゃって。それで、その着物の生地を使って、何か作れないか、お梅ちゃんとおさんちゃんに相談したんです」

 できればいつも身に着けていられる物がいい、との草月の希望に、

『それなら巾着とか匂い袋はどうかしら』

『布地を細く切って編み込んで、組紐みたいにするのもいいですね』

『でも、この着物だけだと、色合いがちょっと寂しいわね……』

『あ、なら、私が古い端切れを集めてますけ、今度持ってきます!』

 たちまちいくつもの案が出て、三人、時を忘れて話し込んでしまったのだった。

「……もしかして、その着物ゆうんは、おまんが大事に持っちょったあの男物の着物かえ? たしか、藍色の」

「ええ、そうです。私にとっては、思い出がいっぱい詰まってる、大切な物なんです」

 でも、こんな可愛い布地、なんだか使うのがもったいないなあ。

 嬉しそうに一枚一枚手に取る草月を見て、坂本はくしゃりと笑った。

「綺麗な布地を見て、そんな顔しちょるところは、やっぱり草月さんもおなごなんじゃなあ。こっちに来てから、あんまり勇ましい話ばっかり聞いたき、ちょっと安心じゃ」

 そうして再び遠眼鏡を覗き込んだ坂本は、不意に「んん!?」と叫んで立ち上がった。

「? どうしたんですか、龍馬さん」

「――慎太!」

「え?」

「慎太じゃ! 今、舟でこっちへ向かいゆう!」

「舟って、この時化の中を!?」

 つられて立ち上がった草月を置き去りに、坂本は草履が脱げそうな勢いで走り出していく。

「ええっ、ちょっと、龍馬さん!?」

(な、なんかすごい既視感が……)

 草月は半ば呆然と、食べかけの団子と遠ざかっていく坂本の背中を見比べていたが、

「ああ、もう!」

 風呂敷包みを懐に突っ込むと、急いで団子を口に詰め込んだ。

「ごめん、お梅ちゃん! お代はツケといて! 今度これ返しに来た時に払うから!」

 お梅の返事も聞かずに坂本を追って走り出した。



 荒れ狂う海から、文字通り命からがら岸にたどり着いた中岡慎太郎の濡れた体を、坂本の大きな手が陸へと引っ張り上げた。

「慎太! 無事か! 西郷はどういたが!? まさか、海に落ちたんか!?」

「違う、西郷は来ない! すまん……! 俺の力が及ばず、説得できんかった。西郷は真っすぐ京へ向かった」

「なんじゃと……」

 中岡の肩に両手をかけたまま、坂本は魂が抜けたように声をなくした。そこへ、ようやく草月が追いついた。

「二人とも、話は後で。とにかく、どこか休めるところに行きましょう。びしょ濡れじゃないですか」

「いや! できることなら、このまま桂さんのところへ行かせてつかあさい。俺の口から、話したい。……頼む」

 地面に膝をつき、肩で息をしながらも、中岡の強い眼の光はまっすぐに草月を捉えた。

「……分かりました。……龍馬さん」

 草月の言葉に頷いて、坂本が中岡に肩を貸して立ち上がらせる。

「私は先に行って、桂さんに知らせて来ます! 大丈夫、中岡さんが到着したとだけ伝えますから」

 幸い、桂の投宿先はここからそう遠くない。草月は言い終わらぬうちにもう走り出している。息せき切って宿に駆けつけ、案内も待たずにどかどかと二階の桂の部屋へ上がり込んだ。

 桂はいた。

 草月のただ事ではない様子に、何かあったと察したのだろう。無礼を咎めることなく、どうした、とだけ言った。

「中岡さんが……、馬関に、到着しました。龍馬さんと今、一緒にこっちに向かっています!」



 濡れ縁を回ると、こじんまりとではあるが、美しく整えられた庭がある。

 そこに、髪から、着物から、ぽたぽたとしずくを垂らしながら、じっと彫像のように動かずに中岡が端座していた。

 傍らには同じく着物を濡らした坂本が立っている。

 桂の姿を見るや、中岡はその場にがばりと手をついて頭を下げた。

「桂さん、げにまっこと申し訳ない! 西郷は来ん! 京で急用が出来たと言って、長州には寄らずに行った。全ては俺の責任じゃ。申し開きのしようもない。……この上は、この腹かっさばいてお詫びする!」

「――何を阿呆言いゆう!? おまんがここで死んだところで事態は何も変わらんぜよ!」

 脇差を抜いて今にも腹に突き立てようとした中岡を、坂本が後ろから羽交い絞めにした。

 だが目の前のそんな事態にも、桂は何も言わない。

 ただ、恐ろしいほどの怒気が全身から立ち上っている。草月は知らず、後ずさりした。

「……これが薩摩の答えか。君たちの甘言に乗り、期待した私が愚かだった」

 その声は地を這うように低かった。

 そのままふいと背を向け、歩き去ろうとする。その背に、坂本が必死で声をかけた。

「待ってつかあさい、桂さん! きっと西郷にも何かのっぴきならん事情が――」

「どういう事情があろうと、この結果が全てだ。もう半月以上も時を無駄にした。これ以上、薩摩のことに割く時間など、もはや寸刻たりともない。――草月、私は明日にはここを発つ。高杉達を呼んでくれ。今後のことを話したい」

「あ……、は、はい」

 坂本と中岡のことなど、もはや眼中にないかのようだ。これほどに怒った桂は見たことがない。執り成しの言葉も出ないまま、草月は頷くのが精一杯だった。

 その桂の前に、坂本が両手を挙げて立ちはだかった。

「行かせんぞ、桂さん! これまでの遺恨を思えば、薩摩との話し合いが一筋縄ではいかんことくらい、桂さんも先刻承知のはずじゃろう! 一度うまくいかんかったくらいで見切りをつけるなんぞ、いくらなんでも早すぎる! それでも『長州に桂小五郎あり』と世に言われた能吏かえ!」

「背負う物のない君に、分かるとは思っていない」

「何を言いゆうか! おまんが防長二州を背負いゆうと言うんじゃったら、わしが背負っちゅうんはこの日本国全てじゃ! 己の小さい視点だけで物事を見るな! ことは長州と薩摩のことだけではないきに。両藩の動向に、この国の未来がかかっちゅうんじゃ。わしが必ず西郷に掛け合って、今度こそ西郷を連れてくる。ほいじゃき、ここは堪えてつかあさい! 頼む、この通りぜよ」

 その場に手をついて頭を下げる坂本を、桂はしばし無言でじっと見つめていた。やがて、根負けしたように息をついた。

「……いいだろう。だが、坂本君と中岡君には悪いが、もはや君たちの言葉だけでは信用できない。まずは薩摩に目に見える形で誠意を見せてもらおう」

 桂が提案したのは、薩摩に武器・汽船購入の仲介をさせることだった。




「はーっ、成るほどなあ。考えたなあ、桂さん!」

 その夜。

 桂の泊まる部屋には、草月、高杉、井上、伊藤の姿があった。

 感心したように声を上げたのは伊藤だ。続いて草月が、

「外国と長州との武器取引は禁じられているけど、薩摩との取引は別。だから薩摩の名義で外国から武器を買って、それを長州に運ぶ、ってことですね?」

「そういうことだ。武器の不足は長州にとって一番の危急案件だからな。それにこれが、薩摩が本当に幕府と決別するつもりがあるかどうかの試金石になる」

 長州側の提案を薩摩が受ければ、薩摩に実があることが証明されるし、長州は念願の武器を入手することが出来る。一石二鳥というわけだ。

「……もっとも、薩摩藩士でもないよそ者の坂本君たちを使いに寄越した時点で、西郷が来るとはさほど期待していなかったが」

「え……?」

「薩摩にしても、長州がどう出るか探りを入れに来た程度だろう。だがまあ、あれだけ怒って見せれば、坂本君たちも大いに発奮してくれるだろう」

「……」

 草月は長々と桂の端正な顔を見つめて、そして言った。

「桂さん、腹黒い」

「人聞きが悪いな。老獪だと言ってくれ。政治には駆け引きと言うものが必要なんだよ」

 桂は澄ました顔でさらりと言いながらも、

「薩摩に色々と言いたいことがあるのは私も君と同じだ。坂本君たちには悪かったが、さんざん怒鳴って少しは溜飲が下がった」

 と付け加えた。

「私は早朝に馬関を発つ。坂本君たちとの細かい詰めは俊輔に任せる。詳細が決まったら手紙で報告してくれ」

「心得ました!」




 数日して、坂本と中岡は京へと旅立った。

 馬関に土佐の楠本文吉が現れ、薩摩からの名義貸し快諾の返事を伝えたのは、それから一月余り経った七月上旬のことである。



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