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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第30話 馬関町案内

「わあ……。良く晴れましたね」

 ここ数日うんざりするほどしつこく降り続いた雨だったが、今朝は久しぶりに雨雲が流れて太陽が顔をのぞかせた。貴重な梅雨の晴れ間を逃すまいと、町のそこここで、たくさんの洗濯物がひるがえっている。

 地面に点々と残る水たまりを器用に避けて歩く草月とは対照的に、水たまりなど物ともせずに――というよりまるで気にせずに――びしゃびしゃと水を跳ね散らしながら歩いているのは坂本龍馬だ。

 昼時の忙しさが一段落したのを見計らったように『一二三屋』を訪ねてきた坂本は、

「いつまで経っても会いに来てくれんき、こっちから来てしもうたぜよ」

 ははははは、と悪びれずに笑って、「今日は非番じゃろう。よかったら町を案内してくれんかえ」と、戸惑う草月を半ば強引に外へ連れ出した。

 底抜けに明るい坂本を見ていると、いつまでも薩摩のことで坂本とぎくしゃくしているのも馬鹿馬鹿しくなって、草月は頭から薩摩のことを放り出した。

「ようし、じゃあ今日は、たっぷりとご案内しますよ! どこか行きたいところはありますか?」

「ほうじゃなあ、郊外でしちゅう奇兵隊の練兵は前に高杉さんに見せてもらったき、じっくりと町を見て回りたいのう」

「なら、新地がおすすめです。馬関の中でも特に広くてにぎやかな町ですよ。色んなお店も出てるから、冷やかすだけでも楽しいですし」

 山がちな馬関では、町はその隙間を縫うように形成されている。『一二三屋』が建っているのも、海岸までせり出すような小高い山の麓にある町の一画だ。

 子供が戯れに描いたような凸凹の稜線を左手に見ながら内陸へ向かって歩を進める。

「それで、奇兵隊の練兵はどうでした?」

「まっことすごかったぜよ! 兵制を西洋式に改めたゆうんは聞いちょったけんど、あれほどとは思わんかった。『散兵戦術』やったか? これまでの密集して戦う戦術とはまるで違う。今、日の本でこれほど軍事訓練に熱心な藩は他にないぜよ」

 坂本は興奮冷めやらぬ様子で言った。

 共に戦った仲間を褒められて、そうでしょう、と、自分のことでもないのに胸を張りたくなる。

「未咲さん……、いや、草月さんも諸隊におって異国艦隊と戦ったりしたんじゃろう? 高杉さんから聞いて、げにたまげたぜよ!」

「……実際のところは、弾薬を持って右往左往してただけで、大した役には立ってないんですけどね。内心じゃ、怖くてがたがた震えてたし」

 山裾に建立された古い神社や寺が並ぶ閑静な通りを過ぎると、ぐっと人の数が多くなる。通りに沿っていくつもの商家が並び、あちこちから雑多な喧騒が聞こえてくる。

 働き者の若い夫婦が営む八百屋や、六代続くという老舗の醤油屋、生活用品なら何でも揃うと評判の小間物屋。行列の絶えない甘味処――。

 「あ、ほら、あそこに見えてる大きな建物が、萩藩の会所です。そこを曲がってちょっと西に行くと、花街もあるんですよ。私も一度、連れて行ってもらいました」

 楽し気に説明していた草月は、真新しい石段が目を引く高台の前でふと足を止め、頂上を見上げた。ぽつりと呟く。

「もうこんなに出来てたんだ……」

「ん?」

「あ、すみません。この上に今、招魂場を造ってるんです」

「しょうこんじょう?」

「国のために命を捧げた志士を、身分の別なくお祀りする場所です。二年くらい前に高杉さんが発議して、造られることになったそうなんです。土地を開墾して整地することから始めて、ようやくこの七月には完成するんですよ」

 言葉を切った草月は、どこか遠くを見るような眼差しになった。

「いいですよね、そういう場所があるって。きっと、亡くなった人にとっても、残された人にとっても……。ずっと、忘れないでいられるから」

 最後は半ば独り言のように言って、坂本が何か言おうとする前に、「さて!」と明るい口調に切り替えた。

「次はどこに行きましょうか?」


                   *


「ほーう、ここかえ、草月さんが異国艦隊と戦った場所いうんは。えらい立派な所じゃのう」

 長い石段を一息に登り終えた坂本は、腰に手を当てて広大な社殿を見上げた。

 新地から東へ半里余り。海岸沿いに建ち、景勝地としても知られる亀山八幡宮。異国艦の砲撃で崩れ落ちた屋根瓦も綺麗に葺き替えられ、元の荘厳な姿を取り戻しつつあった。しかし、境内には無残に幹の半ばで折られた松の木がそのままの姿で残されており、未だ生々しい戦争の爪痕が見て取れる。

 草月にとってここは、馬関の中で一番思い出深い場所だ。今でも時々、ここに来てはあの怒涛の日々を思い出す。懐かしむように目を細めて、草月は坂本を促して歩き始めた。

 いつも朝礼をしていた境内、戦の時、自分の持ち場になっていた社殿前。隊の仲間と一緒に釣りをした石段――。

「前は、そこの境内に大砲を二門置いてたんですけどね。でも、戦のあとに全部外国に持って行かれてしまいました。和議の条件で、砲台の設置が禁止されてるから、新しく造ることも出来ないんです。幕府と戦になったら、大砲がないのはかなりの痛手なんですけどね……」

 どうにかしてその条件を撤廃できないかというのが、武器・弾薬の調達と並んで、目下の長州の急務の一つだった。

 参拝客に交じって社殿を一周した二人は、境内の端に海を臨んで並んで立った。

 あちこち歩き回って汗ばんだ体に海風が気持ち良い。

 眼下には、外国の蒸気船や大小の漁船、荷を運ぶ廻船などが海岸線を覆いつくすほどひしめき合っており、なかなか壮観だ。

「いやあ、こうして見るとげにすごいもんじゃのう。長崎にも劣らんほどじゃ」

「ちょうど今は、北前船が寄港する時期ですから、特にですね。越荷方の役所で働いてるお役人は、家に帰る暇もないくらい忙しいって聞きましたよ。……あ、越荷方っていうのは、商人や廻船から荷物を預かって保管する役所です。ほら、右手の海岸沿いにずらっと蔵が並んでるでしょう? あの蔵は全部、越荷方が管理してるんですよ。相場が低い時はあそこで保管しておいて、高く売れそうな頃を狙って出荷するんです」

「なるほど考えたにゃあ。長州と薩摩の話し合いが上手くいったら、わしも使わせてもらいたいもんじゃ」

「? 龍馬さん、何か商売でもしてるんですか?」

「言いそびれとったんじゃけんど、わしら操練所の者らは、『社中』ゆう集まりを作って、今、長崎に拠点を構えちゅう。操船技術を生かした海運業をやろうと計画中ながじゃ」

「へええ! すごいじゃないですか! じゃあ、龍馬さんの船が、ここに入港することもあるかもしれないんですね」

「なかなか自分の船を持つゆうんは難しいけんどなあ。とりあえずは、薩摩から商船の代行を任せてもらう、ということになるかのう」

「薩摩……。それで、『長州と薩摩の話し合いが上手くいったら』、なんですね」

 途端にむっつりとした草月に坂本は苦笑を向けた。

「また機嫌を悪くするのは勘弁しとうせ。ほうじゃ、いいもんがあるぜよ」

 懐から得意げに取り出した金平糖を見て、草月は思わず吹き出してしまった。

「もう! 私、飴につられるような子供じゃないですよ。それにしても、相変わらず色んなもの持ち歩いてますよね、龍馬さんって」

「ほうかえ? 大したもんは入れとらんけんど。財布に書付けに矢立に懐紙に手ぬぐいに遠眼鏡に地図に……。これは書き損じの手紙……、ん、昼に食べた握り飯を包んどった竹包みもまだ持っちょったか」 

「ほら、いっぱい持ってるじゃないですか」

 だからすぐに着物がよれよれになっちゃうんですよ。

 草月はくすくす笑って言った。

 着物や小物選びには気を遣う洒落者のくせに、買った後の手入れには無頓着な坂本なのだ。

 薄桃色の金平糖を一つもらって口に含むと、優しい甘さが舌の上に広がった。




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