第29話 異人さんの落とし物
高杉が馬関応接掛の役所を訪れると、そこはまるで、今しも幕軍が攻めてきたと言われたかのように、上を下への大騒ぎだった。
「……年の瀬でもないのに、大掃除か?」
ばたばたと廊下を走り回る小役人たちをやり過ごし、真っ直ぐ向かった応接間には、広い床一面に、書類やら書物やら筆やら蝋燭やら――およそ部屋中の物という物を手当たり次第に引っ張り出したのだろう、雑多な物が散乱している。文字通り足の踏み場もない床を踏み分けつつ入っていくと、窓際に置かれた西洋式の重厚な書斎机の下から、ひょっこり見慣れた顔が現れた。草月だ。
「――あれ、高杉さん。いらしてたんですか」
「ああ、昼飯でも一緒にどうかと誘いに来たんじゃが……」
高杉は周りの惨状を見渡して、
「どうも取り込み中のようじゃな」
「ええ、今、ちょっと厄介な問題が起きてまして……、あ痛っ!」
立ち上がろうと机に手をついた途端、危うい均衡で机に乗っていた書物の山が、雪崩を打って落ちてくる。散々に頭にぶつけて、しかめっ面でうずくまったところに、今度は横合いから容赦ない叱咤が飛んできた。
「おい、何を遊んじょる! もうあまり時間がないんじゃぞ」
隣室から入ってきた井上は、部屋の真ん中に陣取った高杉に気付いて、むすりと腕を組んだ。
「なんじゃ、お前もいたのか」
「おう、邪魔しちょるぞ、聞多」
「お前は呑気でいいのう。こっちは間抜けな異人のせいで、朝から大迷惑じゃ」
「いったいどうしたって言うんじゃ」
高杉は手に持っていた大刀の柄でトントンと肩を叩いた。
「指輪を探してるんですよ」
ようやく書物の山から抜け出した草月が、痛そうに頭をさすりながら口をはさんだ。
「指輪?」
「ええ。先月から馬関に滞在してるイギリス商人の方が持ってた指輪なんですけど……。昨日、どこかで落としたらしくて……。その人、今日の昼過ぎに出る蒸気船で帰国するので、どうしてもそれまでに見つけなきゃいけないんです」
イギリス人の名はトーマス・ハーディングと言った。
国に戻ったら婚約者と結婚式を挙げるのだと、役所の一人ひとりに指輪を見せて嬉しそうに笑っていた。代々ハーディング家の花嫁に受け継がれてきたという古びたその指輪は、銀の輪の中央に金剛石が三つ並んだ意匠で、装飾はひかえめながらも、どこか気品の感じられる美しい一品だった。
日本逗留最後の一日だからと、昨夜は友人と共に料亭で夜遅くまで羽目を外して騒ぎまくり、今朝目覚めてようやく指輪がないことに気が付いた。
「それでこの騒ぎか」
「朝から役所の人員総出で大捜索ですよ。今、ハーディングさんが料亭のほうへ探しに行ってますけど、きっと、あちらもてんやわんやだと思います」
でも、大事なものだし、何とか見つけてあげたくて。
そう言った草月は、高杉の後ろを見て、あ、と声を上げた。
「ミスター・ハーディング!」
廊下から、まるで幽霊のように生気のない顔をした異人がふらふらと姿を現した。
身なりに気を遣う余裕すらないのか、頭は薄茶色のくせっ毛を盛大に跳ね散らしたままで、シャツのボタンは一段ずつ掛け違えている。
この様子では、料亭のほうでも見つからなかったのだろう。こちらでもまだ見つかっていない旨を話すと、
「なんということだ。私が愚かなあまりに! ああ、すまないエリー!」
大げさなほど大仰な身振りで顔を覆って身もだえる。そんな男を、高杉が容赦なくどやしつけた。
「やかましい、ちょっとは落ち着け! これだけ部屋の中を探してもないんじゃ。道で落とした可能性もあるじゃろう。僕も協力するけえ、昨日通った道をしらみつぶしに当たってみんか」
*
高杉の案に乗り、役所の捜索は他の者に任せて、草月達四人は外へ出た。まずは料亭のある市街地のほうへ。
二人ずつ組になって左右に分かれ、一人が地面に目を凝らし、もう一人が聞き込みに回る。
馬関に外国船が寄港するようになって久しく、異人が町中を歩くことも珍しくはなくなったが、やはりその風貌はかなり目立つ。そのため、ハーディングを覚えている者は大勢いたが、指輪について知っている者はなかなかいなかった。そんな中、
「ああ、見ましたよ。綺麗な光る石のついた、あの小さい輪っかでしょう?」
草月の質問に反応したのは、小さな居酒屋の主人だった。
「本当ですか! そ、それっていつのことですか!?」
「ええと、あれは確か、最後のお客を見送って、暖簾を入れに外に出た時じゃけえ、子の刻(深夜0時)は過ぎちょりましたかのう。異人さんが二人、酔っぱらって歩いてるのが見えて。てれんこぱれんこ(ふらふら)して危なっかしいけえ、声をかけたんです。そしたら、嬉しそうに見せてくれて」
男は草月の剣幕にたじろぎながらも有益な情報を落としてくれた。
「これで、料亭を出てからここまでは指輪を持ってたって分かりましたね」
「よし、ならあとは、港までの道のりをしらみつぶしに当たればいいな」
俄然、希望が湧いてきた四人だったが、無情にも手掛かりはここでぷつりと切れてしまった。
太陽はもう中天を過ぎている。時間がない。
井上が今にも癇癪を起しそうな顔でハーディングに詰め寄った。
「おい、何か思い出したことはないのか? 脇道で吐いたとか、立ち小便したとか」
「ちょっと井上さん、言うにしても、もっと他にましな例はないんですか」
「うるさいな。古今東西、酔っ払いのやらかすことなど、どこも一緒じゃ」
「恥ずかしながら、私も友人も、きれいに記憶が飛んでしまっているのです。なにせ、紳士にあるまじき泥酔状態だったもので……」
虚ろな目でハーディングが答えた。この様子じゃ、本当に倒れてしまうのではと草月が心配になった、その時。
「あっ! いたいた、やっと見つけた! 異人さん!」
通りの向こうから、真っ赤に頬を上気させた少女が、空色の着物の裾をからげて走ってくる。
「良かったあ、また会えて! これ、異人さんのでしょう?」
年の頃は十四、五。差し出された小さな掌に乗っていたのは、見紛うことない、光り輝く金剛石の指輪だった。
「こっ、これです! ああ神よ、感謝します! あなたにも。ありがとう、ありがとうお嬢さん」
ハーディングは少女の手を握ってぶんぶんと振り回した。
「お前、どこでこれを?」
興奮状態のハーディングに代わって井上が尋ねた。
「昨夜、質の悪い男の人に絡まれていたところを、こちらの異人さんたちに助けていただいたんです」
目を白黒させながら少女が答える。
「ほう、おのし、優男のような成りして、なかなかやるのう」
高杉が意外そうな顔で褒めたが、ハーディングはただただ感動にむせび泣いている。
「昨日はびっくりしたのと怖かったので、ちゃんとお礼が言えなくて……。それで今朝、昨夜の場所に行ってみたんです。そしたら、その綺麗な飾りが落ちてるのを見つけて……。きっとあの異人さんが落としたんだと思って、ずっと探してたんです。ちゃんと渡せて良かった」
あの時は本当にありがとうございました。
きゅっと笑い、深々と頭を下げる少女に、ハーディングもまた不器用にお辞儀を返した。
「いいえ、礼を言うのは私のほうです」
アリガトウ、とたどたどしい日本語で返す。
感動の場面に水を差したのは、粗野な男の声だった。
「おうおう、そこの伴天連野郎! 昨夜はよくもこけにしてくれたな!」
五、六人もいるだろうか。一見して柄の悪い男たちが、手に手に木刀を持って、こちらを睨みつけている。
「あっ! あなたは……!」
少女が怯えた顔で後ずさる。それを後ろ手にかばって、井上がにたりと笑う。
「何じゃ、察するに昨日、ふらふらの酔っ払いにすら負けた軟弱男か。一人では勝てんからと、よくもまあ、ぞろぞろと大勢連れてきたもんじゃ」
「うるさい! 夷狄に尻尾を振る腰抜け武士どもに用はない! 引っ込んじょけ!」
「こりゃまた随分と言われたもんじゃのう」
身構えたハーディングの肩を、高杉が押しやった。
「行け。この場は僕らが預かる」
「しかし……!」
「早くせんと船が出てしまうぞ。いいから行け。可愛い許嫁が待っちょるんじゃろう」
「わしらからの餞別じゃ! 嫁さんによろしくな」
「――ありがとう。日本人の親切と友情は決して忘れません!」
潤んだ瞳で叫ぶと、スーツの裾を翻して港へ向かって駆けていく。
「達者でな!」
「航海気を付けて! お幸せに!」
ハーディングを見送り、高杉と井上はどこか楽し気な表情で、破落戸たちに対峙する。
「さあて……」
「何やら江戸にいた頃を思い出すな」
「確かに、久しぶりですね、この感じ」
草月もまた、不謹慎にもなぜか血が騒ぐ。
「草月、その娘は任せた」
「はい!」
こっち、と少女の手を引き、通りの端に下がる。
そして。
大乱闘が始まった。




