第28話 名前
桂帰還の知らせを受け、高杉と井上が逃亡先から相次いで戻って来た。薩摩の話を聞くと、井上はすぐさま賛同の意を示し、高杉は賛成はしないまでもいくらか興味を抱いたようだった。
「なんだか反対なのは私だけで、私ばっかり頭が固いみたい」
高杉と伊藤、井上の四人で集まった酒の席で、草月はむすっとして、いつになく酒杯を重ねた。
ほんのりと頬が赤く色づき、目がとろんとして焦点が合っていない。
「ちょっと飲み過ぎじゃない? 大丈夫?」
伊藤が声をかけた時にはすでに遅く、草月は酩酊状態だった。不明瞭な唸り声を上げたかと思うと、ころんと横になり、そのまますうすうと寝息を立て始めた。
*
べん……べん……
ゆったりとした三味線の音色に導かれるように意識が浮上した。
「……あれ?」
気が付くと部屋には高杉が一人だけ。窓辺に腰掛け、手すさびに三味線をつま弾いている。
「おう、起きたか」
「……伊藤さんと井上さんは?」
「おのしが寝こけちょる間に二軒目へ行った」
「え!?」
(人前で酔っぱらって寝るなんて、なんという失態……!)
「すみません……! ちょっとお酒を過ごしすぎました」
寝ぼけた頭をはっきりさせるように、ごしごしと目をこする。
「……あの、途中から記憶が飛んでるんですけど、私、何か変なこと言ったりやったりしませんでしたか」
「いや、特には」
ほっとしたのも束の間、
「――やたら薩摩の悪口を言い連ねて僕らに絡みまくっちょったくらいじゃ」
笑い含みに言われてがっくりと首を垂れた。
「す、すみません……」
「よほど薩摩のことが腹に据えかねちょるようじゃな」
「うう……」
自己嫌悪のあまり頭痛がする。いや、これは飲み過ぎたせいか。
穴があったら入りたい。
羞恥に悶えてうずくまっていると、
「――“未咲”」
ふいにその名で呼ばれてどきりとして顔を上げた。
「その名前、どうして――」
「前に一度、坂本君が呼んじょったのを聞いた。……これはおのしの名か」
「……本名です、私の」
草月は気まずげに目を逸らせた。
高杉たちにはずっと『草月』と呼ばれていたから、今さら本名の『未咲』で呼ばれるとひどく面映ゆい。
高杉はふうん、と言ったきり口をつぐんだ。しばし、高杉の奏でる物悲しい三味線の音だけが部屋に響いた。
「……坂本くんとは、随分と親しいようじゃな」
先に沈黙を破ったのは高杉だった。
「……前に話しませんでしたっけ。私が長州を離れた後、お世話になってた海軍塾の塾頭を務めてた人なんです。龍馬さんは」
「行き倒れ寸前のところを助けられたとは聞いちょらんぞ」
草月は、うっ、と顔を引きつらせた。
(――龍馬さん、余計なことを!)
「おのしにしては珍しく、下の名前で呼んじょるし」
「え? ……あ、」
(……そういえば、現代じゃ『龍馬』、『龍馬』って気軽に呼び捨てにしてたから、こっちでも当たり前のように名前で呼んでたけど、よく考えたらものすっごく失礼だったかも……。かなり年上の男の人なわけだし)
草月のうろたえぶりを、高杉は面白くなさそうに眺めやった。
「しかも、本名まで教えちょるとはな」
付き合いは僕の方が長いのに。
高杉の言葉にはどこか拗ねたような響きがあった。
「そ、それは……、別に秘密にしてたわけじゃありません。単純に、話す機会がなかっただけで……。海軍塾で本名を名乗ったのは、あの時は色々あって気持ちが参ってて、『草月』と呼ばれるのが辛かったからです。――でも、本名って言うなら、私も高杉さんの本当の名前、知らないんですよ。『晋作』は通称でしょう?」
「――はるかぜ」
「え?」
「僕の諱じゃ。春に風と書いて、『春風』と言う」
「春風、さん」
草月は響きを確かめるようにそっとその名を舌に乗せた。
「綺麗な名前。……でも、何だか高杉さんじゃないみたい」
「おのしこそ」
気持ちがほどけた様にほわりと笑う草月の額を、高杉が三味線の撥で軽く小突いた。
「今さら『未咲』と言われても、おのしのような気がせん。……じゃが、よく考えてみれば『草月』というのは変わった源氏名じゃな。辰巳芸者は男の名を名乗るのが習いとはいえ」
「――ああ、それは」
草月は少し照れくさそうに頬を緩めた。
「『たつみ屋』の女将さんが付けてくれたんです。露草の別名、月草から取ったって聞きました」
「月草?」
「はい」
『未だ咲かぬ』と書いて『未咲』。
今はまだ蕾だけれど、将来どんな花にもなれる可能性を秘めている。いつか、自分だけの立派な花を咲かせて欲しい。
そんな願いを込めて両親がつけてくれた名前。
「それで、私の源氏名も花にちなんだ名前にしてくれたみたいです。……どうして露草なのか、いつか聞こうと思って、聞きそびれたままになってるので、今でも謎のままなんですけど」
「――ふうん」
高杉は少し考えるふうに言った。
露草は古来より人々に親しまれて来た花で、古くは万葉集にも詠まれている。
早朝に咲いて昼には萎んでしまうことから、はかなさの象徴、また、露草で染めた着物は色が落ちやすいことから、移ろいやすいものの象徴とされる。
『たつみ屋』に拾われた時の草月は、それほどまでに頼りなげだったのだろうか。……だが、女将が彼女を『草月』と名付けた訳は、おそらくそれだけではあるまい。
強いて気に留めることもない、どこにでもある雑草。
けれど、ふと気付くと傍にあって、小さな青い花で心を和ませてくれる。そして雨に濡れてより輝きを増す花。
高杉は微かに口角を上げた。
――さすが、花街の女は人を良く見抜いちょる。
「……おのしに似合いの花かもしれんな」
「そうですか? ありがとうございます」
草月は嬉しそうに微笑んだ。
露草の花が似合うと言われたことではなく、純粋に女将に付けてもらった名前を褒められたことが嬉しいようだった。
「でも、不思議ですね。最初は『草月』と呼ばれても全然自分のことだと思えなかったんです。なのに今じゃ『草月』の名前がしっくり馴染んで、むしろ、本名の『未咲』と呼ばれる方が変な感じがします」
「得てして名前というのはそういうものじゃ」
それからは色々名前の話になった。
伊藤の『俊輔』という名前は実は高杉が付けたのだとか――最初は『利助』と名乗っていたのを、読みが同じだということで『俊輔』にしろと勧めたそうだ――、桂が手紙の署名によく使う『木圭』という名は『桂』の字を分解したものだとか……。
「それで言えば、松陰先生もやっちょったな」
『吉田』という字を分解して組み直したら『二十一回』になるから、生涯の内に二十一回大事をやる、という決意を込めて『二十一回猛士』と名乗ったそうだ。
残念ながら、その二十一回はかなわないまま生涯を終えてしまったけれども。
「面白いですね、私の名前でも出来るでしょうか」
矢立を取り出し、懐紙にさらさらと『草月』と書きつける。
「“草かんむり”と、“日”と“十”と“月”……? 何だろう、『三月十日』……とか? でもこれじゃ、名前と言うより、まるきり日付ですよね。他の人には知られたくない秘密の手紙とかには使えそうですけど」
「そりゃ一体どういう状況の手紙じゃ」
高杉は可笑しそうに笑って三味線を置くと、草月の手元を覗き込んだ。
「そうじゃな……。“日”と“月”で『明』……、いや、『萌』にして『十萌』といったところか」
「あ、本当だ。名前らしくなりましたね。じゃあ、高杉さんだったら――」
空いたところに勢いよく『高杉』と書きつける。だがすぐにその手が止まってしまった。んんん、と唸り声ばかりが漏れる。
「難しいですね。〝杉”は〝三”と〝木”に分けられるとして、〝高”は……。あ、“口”が二つあるから、松陰先生と同じで、『回』が出来るのか。となると、残りのパーツを、“十”が一つと……“一”が、いち、に、さん……、十個と数えて、『二十回』……。『二十回狂生』っていうのはどうですか」
「松陰先生に一回足りない『二十回』か。先生でさえ数回しか果たせなかったのに、僕が出来るかのう」
「……いえ、本気でこれ以上無茶ばかりされても困るんですけど」
高杉なら本当にやろうとしかねないので、草月は急いで釘を刺した。
高杉はくっくっと喉の奥で笑い、ふと窓に目を向けた。
いつの間にか、青白い光が部屋に差し込んできている。
分厚い雲の隙間から、白い月が顔をのぞかせたのだ。
草月と高杉は並んで窓辺に立つと開け放たれた障子窓から空を見上げた。
「『寝待月』か。まさに、今宵にふさわしい月じゃな」
「……あの、できれば今夜のことは記憶から抹消してください。今すぐに」
「それは無理な相談じゃなあ」
高杉はにやにやした。
「長い付き合いじゃが、あれほど酔っぱらったおのしを見たのは、初めてじゃ。貴重な思い出は、大事にしまっておかんとな」
草月は無言で高杉の脛を軽く蹴飛ばした。
「何するんじゃ」
「仕返しです。乙女の貴重な寝顔見たんですから」
「見たのは聞多と俊輔もじゃぞ」
「あの二人は高杉さんみたいにからかったりしなかったからいいんです!」
我ながら子供じみている自覚はある。まだ酒が残っているのかもしれない。
高杉は大げさに痛そうなふりをしながらも、むしろ楽しそうだった。
「あーあ」
その場にしゃがみこんだ草月は、「ねえ、高杉さん」と言った。
「……薩摩は、本当に長州と手を組む気があるんでしょうか」
「さあのう。ただ、ここであれこれ考えちょっても仕方ないことだけは確かじゃ。すべては西郷の出方次第、じゃな」
「そうですね……」
瞼が重い。抱え込んだ膝の上に頭を乗せると、そのまま睡魔に連れていかれそうになる。
遠くで高杉の呼ぶ声が聞こえた気がした。




