第3話 とんだはちきん・前
手紙を書いている望月の足元に、むにむにと毛むくじゃらの生き物が鼻面を押し付けてくる。
「こら、着物を噛むな、ソバ」
首根っこを捕まえて引き剥がすと、すかさず横から訂正の言葉が飛んでくる。
「違いますよ、望月さん。その足先が白いのはムギです。あっちの全体に赤茶なのがソバ、ちょっと体が小さいのがツユです」
「全然分からん」
望月はお手上げだと言わんばかりに、子猫――ムギだかソバだか――をポイと兄弟のほうへ放り投げた。
子猫が生まれて一ヶ月近く。生まれてすぐの頃はまだ目も開いていなかった子猫たちも、今は全身にふわふわの毛が生えてすっかり猫らしくなった。何にでも興味を持ってちょこまかと動き回り、小萩お気に入りだった座布団は、子猫たちの猛攻によって今や見る影もなくぼろぼろだ。
「良く見てれば分かりますよ。最近は性格の違いなんかも出てきて、面白いです。ねえ、小萩?」
横で母親らしく鷹揚に子供たちを見守っていた小萩は、答える代わりに、とん、と尻尾で畳を叩いた。
草月は大量の洗濯物を手際よく畳み終えると、肩を揉みほぐすようにぐるぐると回した。
「私はちょっと買い物に行ってきますね。あ、それと、この望月さんの着物、袂の所が少しほつれてたので、帰ったら繕いますから」
「それくらいは自分でやるき、かまんかまん。それより、買い物なら俺も付き合うぜよ」
「え、でも……」
草月はちらりと外を見た。まだ日が高い。
「出歩くのは危ないですよ。何か要る物があるなら、私がついでに買ってきますから」
「しばらくお天道様の下を歩いちょらんきに、どうにも調子が悪いんじゃ。ちゃあんと笠は被って行く き、心配せんでええ。それに、」
望月はちらりと悪戯っぽい笑みを見せて、
「まさかおなごに春画本買ってきてもらうわけにもいかんじゃろう?」
「し、春画……!? う、わ、分かりました」
*
本屋に入った望月は、難しそうな漢文の本を手に取っては楽しげに見ている。いっこうに春画本に目をくれる気配もないので、草月に気兼ねしているのかと思い、買わないのかとそっと聞いてみたら、
「ああ、ええんじゃ。あれは外に出るための口実じゃき」
「ええっ!?」
「騙して悪かった。けんど、ああでも言わんと、おまんは絶対に止めるじゃろう?」
「……もう、自分の命がかかってるっていうのに」
ため息交じりに言ったものの、笠の下から覗く望月のすまなそうな顔を見ると怒るに怒れなくて、草月は仕方ないなあ、と苦笑した。
「でも、本当に気を付けてくださいね、『松尾』さん?」
「おう、まかしとけ」
にっこりと満面の笑みで『松尾』こと望月は答えた。
望月の気の済むまで本屋で過ごした後、二人は五条大橋近くにある小間物屋『三好屋』を訪れた。ここを切り盛りしているのはお絹という名の若い女将で、一人息子の太助共々、草月とは縁あって顔なじみである。ただ、なんだかんだで忙しくしていたから、ここを訪れるのは昨年の夏以来だ。
「まあまあ、草月はん! えろうご無沙汰で……。京を出てはったて聞いてましたけんど、いつ戻りはったんどすか? 長州はんもえろう難儀なことにならはったさかい、お大変どすなあ。うちに出来ることがあったら、何でも言うておくれやす」
お絹は変わらぬ朗らかさで草月を迎えてくれた。その後ろから、ひょっこりと小さな頭がのぞく。
「たあ坊も、久しぶり。しばらく会わないうちに、随分背が伸びたんじゃない?」
「うちも、もう六つやもん。店番かてしてるんや」
やんちゃそうな瞳を輝かせて、太助が得意気に胸を反らせた。
「せやさかい、草月姉ちゃんの買い物も、うちがちゃあんと手伝うで!」
「頼もしいなあ。じゃあ、お願いしようかな。……実は、うちで飼ってる猫が子猫を生んだんだけど」
その子猫たちにつける鈴と紐を探しているのだと説明する。
「それやったら、こっちや!」
太助がうんと背伸びして、中央の棚を指し示す。覗き込んだ草月は、思わず、わっと歓声を上げた。
仕切り棚いっぱいに、何種類もの組紐が並んでいる。一色使いのものから、二色、三色と組み合わせたもの。縞模様に花模様、幾何学模様。丸紐に平紐。実に様々だ。
これも可愛い、あれも綺麗。
いちいち手に取りながら、望月やお絹も一緒にわいわい悩んだ挙げ句、ようやくこれぞという紐を選んだ。ムギには群青色、ソバは萌黄色、女の子のツユには桃色の丸い組み紐だ。
「これで望月さんも、ムギたちの見分けがつきますね」
鈴と一緒に包んでもらっていると、太助が不意に草月を手招いた。
「なあに?」
そばにしゃがんだ草月の耳にそっと顔を近づけ、
「なあ、草月姉ちゃん、実はな、うち秘密があるんや」
「秘密? 何?」
草月も自然とひそひそ声になる
「誰にも言わへん?」
「言わないよ。たあ坊が内緒にしてって言うなら、絶対誰にも言わない」
真っ直ぐに太助の目を見て請けあうと、
「……ほな、姉ちゃんにだけ教えたげる」
こっち、と手を引かれて土間を抜けた先の庭の隅に連れて行かれる。
ごそごそと低木の茂みをかき分けて、奥から風呂敷包みを取り出す。包みの中に入っていたのは、細長い紙の綴りだ。表紙には何も書かれておらず、中を開くと、日付や、金額らしき数字が延々と並んでいる。
「――ほう、それは帳簿みたいじゃな」
「!」
誰もいないと思っていたところに突然割り込んだ声に、草月と太助は揃って弾かれたように振り向いた。
「もちづ――、じゃない、松尾さん! 何で……!」
「品物を包んでもらったき、呼びに来たんじゃ。女将さんは別の客の相手をしゆう。で、それは何じゃ? 俺だけ除け者はずるいぜよ」
咄嗟に綴りを後ろ手に隠した太助が大丈夫なの、というように草月を見る。草月がしっかりと頷いて返すと、太助はようよう体の力を抜いて、改めて綴りを二人に見せた。
望月の言う通り、帳簿のようだが、表に何も書かれていないのが少し変だ。商家のものなら、大福帳なり売上帳なり、分かりやすいように書いているのが普通である。
「三好屋の帳簿じゃないよね。どこで見つけたの?」
「昨日、預かったんや」
太助によると、店の前でシャボン玉を吹いて遊んでいた時、後ろから走って来た十五、六歳の少女とぶつかったそうだ。
「坊、堪忍え、急いどったもんやさかい」
少女は倒れた太助を慌てて助け起こし、怪我はないかと尋ねた。
「どうもおへん。それに、坊やない。三好屋の太助や」
「太助か。ほんまに堪忍な。そうや、太助。堪忍ついでに、これを預かってくれへんやろか。後で必ず取りに来るよって」
少女は持っていた風呂敷包みを押し付けるように太助に渡すと、瞬く間にどこかへ消えてしまった。
「そのすぐ後、怖い顔した男の人らが走っていかはって、なんや、あの姉ちゃんを追いかけてるみたいやった」
「ふうん、いかにも何か訳ありみたいじゃな」
帳簿をめくる手を止め、それを包んでいた風呂敷を見ていた望月が、ふいに顔を上げて太助を見た。
「のう太助。これ、預からせてもらってもええか。もしかしたら、これをおまんに預けた娘の行方が分かるかもしれん。俺に心当たりがあるき」
*
「松尾さん、急にどうかしたんですか? 心当たりって、その帳簿の持ち主が分かったんですか?」
「これはおそらく裏帳簿じゃ」
「――え、裏帳簿!?」
「まともな商家なら、あんないい加減な帳簿の付け方はせん。その娘、どうやら面倒なことに関わっちゅうようじゃ。太助が巻き込まれんうちに、どうにかせんといかん」
望月は厳しい顔を崩さぬまま、大股に歩を進めた。
「風呂敷を見たら、小さく屋号が染め抜いてあった。事情は良く分からんけんど、とにかくそこに行ってみるぜよ。ここからそう遠くないはずじゃ」
果たして、その店は三好屋から三町ほど北に行ったところにあった。
風呂敷にあるのと同じ、丸に泉の屋号を染め抜いた朱色の暖簾が、風にひらひらとはためいている。その暖簾の下で、十歳くらいの少年が店の者となにやら押し問答をしているのが目に留まった。
「せやから、お玉は昨日、いつも通り帰った言うとるやろ!」
「そない言わはるけど、姉ちゃんは昨日から家に帰ってへんのどす」
「そんなら、どこか友達の家にでも泊まってるんと違うか」
「うちの姉ちゃんは勝手にそないなことしやしまへん。いつでも仕事が終わったらまっすぐ家に帰って来はります」
「ああもう、しつこいなあ。いいから帰れ、商売の邪魔や」
男はいい加減うんざりした様子で、子供を突き放した。諦めきれない様子で店を見ていた少年だったが、やがてとぼとぼと歩き始める。
通りの向かいからその様子を見ていた草月と望月は、どちらともなく顔を見合わせると、急いでその子を追いかけた。
話を聞きたい、と声をかけると初めは驚いた顔をしていたものの、姉らしき人物から預かった物があると知ると、自分から進んで事情を打ち明けた。
「じゃあ、お姉さんは、あの店で通いの女中をしてたんだ」
「へえ。せやけど、何日か前から少し様子がおかしかったんどす。真っ青な顔で家に帰ってきて、大変なもの見つけてしもた、って」
(それって、あの裏帳簿……!?)
望月も同じことを考えたらしい。
「お玉さんは店の誰かが不正しちゅうことに気付いて、それを知った奴に捕まったんかもしれん」
「でも、一体誰なんでしょう。さっきの人は本当に知らないみたいでしたけど」
「帳簿に細工できるとしたら、一番怪しいのは番頭じゃなあ」
「番頭の伊平はんは今、出掛けてはるって。……あっ、あのお人や!」
子供――佐吉――が指さした先には、こちらに向かってせかせかと歩いてくる四角い顔の男の姿。
「よし、おまんは先に帰っちょけ。姉さんは必ず見つけてやるきに」
子供を家に帰し、番頭に話を聞こうと近づいていく。だが、伊平は望月に気付いた途端、突如泡を食って逃げ出した。
「待たんか!」
望月があっさり捕まえて人気のない細い路地に連れ込む。伊平は真っ青な顔で何度も頭を下げた。
「すんまへん、すんまへん。金はちゃあんと返すさかい、堪忍しておくれやす」
「金? 何のことじゃ」
「へ? 借金の督促やないんどすか?」
間の抜けた沈黙が落ちる。
いち早く気を取り直したのは望月だった。ぎろりと伊平を睨みつけ、
「俺はお玉というおなごを探しゆうんじゃ。おまん、何か知っちゅうじゃろう。正直に話せ!」
「し、知りまへん! ほんまに知りまへん! 昨日、店で見たんが最後どす」
「ほう、あくまでシラをきるつもりかえ。ほいたら、これ見たら思い出すか?」
望月が懐から裏帳簿を取り出すと、伊平は途端に顔色を変えた。
「そ、それは……。どこで……」
「お玉が持っとったんじゃ。誰かに追われちょったらしい。それが誰か、おまん、心当たりがあるろう!」
伊平の四角い顔が真っ青になった。
「そ、そんな……、まさか、手荒な真似はせんて……」
「どういうことじゃ」
「じ、実は――」
伊平はこの春、大坂に買い付けに行った時、出来心で博打をして、莫大な借金を負ってしまったらしい。その借金を返すために、店の金に手を出した。店の者に見つからぬよう、帳簿に細工をして。
「それをお玉さんに見つかったんですね。お玉さんは証拠としてこの帳簿を持ち出した。でも、誰かに相談する前に、その博徒に襲われた」
「店の女中に気付かれたらしいと博徒に相談したら、任せろ言われたんどす。まさか、そないな手荒な真似するや思わんかったんどす。ほんまどす! 信じとくれやす」
「ほたえな! 悪党がご丁寧に説得するとでも思うたんか、唐変木。ええから、そいつらの居場所を教えろ」
伊平は震えあがって白状した。




