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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第27話 思わぬ客人

 桂を中心に、着々と幕府に対する迎撃体制を整えていた長州であったが、幕府も、ただ座して待つばかりではなかった。将軍家茂が、再び長州征伐のための大軍を率いて江戸を発ったのだ。

 いつか征長軍が来るであろうことは分かっていたが、幕府の動きは長州首脳陣の予想以上に早かった。

 村田蔵六を中心に西洋式の軍事調練を進めているものの、村田自身、本で得た知識しかなく、手探りでやっているような状態だ。かてて加えて、銃や弾薬などの数が絶対的に足りない。購入したくても、幕府が外国に対し、長州との武器売買を禁じているため、入手の方途がないのだ。

 今、攻められれば、確実に長州は滅ぶ。誰もが焦りを隠せずにいた、そんな時だった。


 ――薩摩からの使者が、相次いで馬関を訪れたのは。


                        *


 使者に会うため、山口から忙しい身を押してわざわざ桂がやって来た。しかし、当然のことながら、会談の詳しい内容までは、草月のところには下りてこない。

(薩摩なんかが一体、長州に何の用があるっていうんだろ。どうせ、幕軍が攻めて来る前に大人しく降伏した方が長州のためだとか、偉そうなこと言いに来たに決まってる。桂さんも、律儀に話なんか聞かないで、塩撒いて追い払ってやればいいのに!)

 悶々としたまま数日が過ぎた閏五月九日、伊藤から呼び出しがあった。草月は早々に仕事を片付けると、柿渋色の傘を手に、ぬかるんだ雨の降る道を指定された料亭へ急いだ。

 女中に案内されて座敷に入った途端、「あっ」と言って立ちすくむ。

 中にいたのは、伊藤と桂、そして――

「――龍馬さん!?」

「おう、未咲さん! 久しぶりやにゃあ。元気にしよったがか?」

 満面の笑みを浮かべて大きく手を振ったのは、草月が以前世話になった土佐の脱藩浪士、坂本龍馬その人だった。


                       *


「ど、どうして龍馬さんがここに? 桂さんまで……。薩摩の使者と会ってたんじゃないんですか?」

「おりょ、聞いちょらんかったかえ」

 坂本はぼりぼりと頬をかいた。

「薩摩の使いはわしながじゃ」

「……え?」

 一瞬、頭が真っ白になった。

「――草月と坂本さんが知り合いだって桂さんから聞いて、驚かせようと思ってさ。草月のことだから、薩摩の用事が何か気になってじりじりしてるだろうし」

 草月の仰天ぶりを楽しそうに眺めていた伊藤が言った。だが、得意げに話す伊藤の言葉も草月の頭には入ってこない。

 坂本が薩摩の使いだという言葉を頭が理解するにつれ、じわじわと怒りが込み上げてきた。

「どうして……、龍馬さんが薩摩の使いなんか……?」

 出てきた声は自分でもびっくりするほど低い声だった。

 坂本は「こりゃあ、嫌われたもんじゃのう」と困ったように頭をかいた。

「答えてください! どうしてですか? 勝先生の指示ですか? 海軍塾のみんなは? 使いって、薩摩は長州に何を言いに来たんですか?」

「まあともかく座れ、草月」

 一方的に質問をぶつける草月を制し、桂が空いた席を片手で示した。

 膳の上には美味しそうな芋の煮つけや焼き魚が乗せられている。しぶしぶ座った草月は、だが、料理には目もくれずにじっと三人の男を睨み見据えた。

「……最初から話さんことには納得してもらえんようじゃな」

 精悍な顔つきになった坂本は、桂と顔を見合わせ、腹をくくったように話し始めた。

 一年前、草月を京の長州藩邸へ送り届けた後、坂本はできたばかりの海軍操練所で精力的に海軍修行に励む傍ら、京・大坂・江戸などを飛び回っていた。

 だが、先年十一月、勝麟太郎が突然軍艦奉行を罷免され、それに伴い神戸の海軍操練所・海軍塾も閉鎖になってしまった。行き場を失った坂本ら塾生たちは、航海術の腕を買われて大坂の薩摩藩邸にかくまわれることになった。

「わしは薩摩藩士の一人と京で同居しよったんじゃけんど、この四月に、薩摩の偉いさんがそろって薩摩に帰ることになって、それでわしも他の塾生と一緒に薩摩に向かったがじゃ」

 この時、薩摩へ向かった“偉いさん”とは家老の小松帯刀や西郷吉之助のことだ。幕府の長州再征に対する藩の方針を決めるためであった。

 彼らは薩摩に着くとすぐさま会議を開き、その結果、『薩摩は幕府から出兵要請があっても拒否する』との藩論を決定した。事実上の幕府との決別宣言である。それを長州に伝える使者として白羽の矢が立ったのが坂本である。

「わしが今回、薩摩の使いとして来たんは、こういうわけながじゃ。……けんど、わしは別に、薩摩に世話になったき、使いを引き受けた訳ではないぜよ。薩摩と長州が手を組めば、幕府に対抗しうる勢力になる。この日本国を外国にも負けん国にするためには、それが一番じゃと思ったがじゃ」

 坂本の熱弁を、草月はとても冷静になど聞いていられなかった。

「よくも……、そんな勝手なこと」

 胸の底から、どす黒い感情がむくむくと湧き上がってくる。激情のままに坂本を睨みつけた。

「薩摩が、長州に何をしたか……。薩摩のせいで、長州は大変なことになってるんですよ! どれだけの仲間が亡くなったか……」

 あの夏を思い出すたびに、全身の毛穴から血が吹き出すような心地がする。

「あれだけのことをしておいて、方針を変えたからこれまでの遺恨を忘れて手を組もうって言うんですか? ふざけないで! 薩摩なんて大嫌いです。名前を聞くだけでも胸糞悪い。たとえ龍馬さんでも、薩摩の味方をするなら長州の敵です!」

「こりゃあ、手厳しいのう」

 珍しく汚い言葉を吐く草月を前に、坂本は眉を八の字にして桂を見た。

「未咲さんがこれでは、ほかの者は推して知るべし、というやつかえ」

「諸隊の者が聞いたら、問答無用で斬りに来るだろうな」

 淡々とした口調で桂が言った。まるで他人事のような言い方にむっとして、草月は桂にも食って掛かった。

「桂さんも、薩摩を信用するって言うんですか!?  私は京の戦を忘れてません! 薩摩は、久坂さんや来島さんたちのかたきですよ!」

「もとより信用はしていない。だが、悪い話ではない。実を言うと、少し前からこの話はあったんだ。外へ漏れると厄介ゆえ、一部の者しか知らせていなかったが……。正直なところ、長州一藩で幕府に対抗するのは難しい。薩摩が征長軍に加わるのと加わらぬとでは、戦力に大きな差が出る。それは君も良く分かっているだろう」

「それは……」

「なあ未咲さん。わしらよそ者の話だけで信用しろとは言わん。実は、わしとは別にもう一人、京の薩摩藩邸からも土佐の者が使いとしてここに来ちゅうぜよ。その者の話によると、京の政府員は西郷を国許から京へ呼び寄せることに決めたそうながじゃ。その途中で、西郷に馬関に寄ってもらえば、直接話が出来る。今、慎太が薩摩に行って西郷を説得しゆうそうじゃき」

「『慎太』……。中岡さんですね」

 草月はむっつりしたまま頷いた。

 坂本と同じ土佐出身の中岡慎太郎は、先の京の戦でも長州と共に戦った同志である。草月とは数度顔を合わせたことがあるだけでじっくり話をしたことはないが、その短い時間の中にも誠実で真面目な人柄が察せられた。

「示し合わせたわけではないのに、色んな者の思惑が全て今、この馬関につながっちゅう。何か大きな力が、薩摩と長州を結び付けようとしゆうように思わんかえ」

「――西郷には、これまでの薩摩の行動について厳しく問い詰めるつもりだ。満足のいく回答が得られないようなら、この話はご破算だ」

 心中がどうあれ、桂は冷徹な政治家の顔を崩さない。

 ――桂の言うことは正しい。

 頭では分かっている。だが、到底すぐには受け入れられない。冷静な桂や伊藤を前に、裏切られたような気分だった。

 坂本は黙り込んだ草月をじっと見ていたが、やがて困ったように微笑んで、

「未咲さ……、いや、今は草月さんじゃったか。こうしてまた会えてまっこと嬉しかったぜよ。桂さんに、おまんが馬関ここにおるち聞いて、居ても立ってもおれんようなってのう。京の戦のことは聞いとったき、心配しとったがじゃ。……亀弥太のことも。最期を看取ってくれたそうじゃな。ありがとう」

 望月の名を聞き、草月の顔が泣きそうに歪んだ。

「それだけ伝えたかったがやき。嫌な思いさせてしもうてすまんかった」

 のっそりと立ち上がった坂本の大きな体が座敷の外へと去っていく。

「――龍馬さん!」

 寸前で、草月の手が、坂本の着物の袖を掴んでいた。

「……私も、龍馬さんに会えて嬉しかったです。それは本当です。でも、やっぱり私は、薩摩のことが許せない。龍馬さんのことも、薩摩の使いだと思ったら、腹が立って……。せっかく呼んでもらったのに、ごめんなさい」

 坂本はからりと笑った。

「おまんが謝ることではないぜよ。わしは西郷が来るまで、ここにおるつもりじゃき、気が向いたら会いに来とうせ。その時は『薩摩の使い』やのうて、ただの『坂本龍馬』として話をするぜよ」

 大きな手で草月の頭を撫でて、坂本は宿へと引き上げて行った。一人で何役もこなす多忙な身の桂もまた仕事があるからと間もなく去り、部屋には草月と伊藤だけが残された。

 伊藤は最前の気まずいやり取りを気にするでもなく、残っていた料理をもぐもぐと口に放り込んでいる。

「草月があんなに怒るところ、初めて見た。『胸糞悪い』とは、なかなか言うね」

「……すみません、つい興奮して」

 草月は恥じ入ったように俯いた。

「いいんじゃない? 桂さんもきっと、本心ではそう思ってるだろうし。それより、せっかくだから食べなよ。お代は桂さん持ちだから、遠慮しなくていいぜ」

 うながされて草月も箸を取ったが、味は良く分からなかった。老舗料亭の料理だ。こんな時でなければ楽しめたろう。

「伊藤さんは、どう思ってるんですか? 今回の薩摩の話。伊藤さんも前々から知ってたんでしょう」

「俺は乗ってみるのも悪くないと思ってるよ。いつ幕軍が攻めて来るか分からないのに、まだまだ長州は戦う準備が出来てない。薩摩が幕府の足を引っ張ってくれるなら助かるからね」

「でも、もしかしたら薩摩の策かもしれませんよ? 長州の味方だと思わせておいて、実は裏で幕府と通じているとか」

 よっぽど薩摩のことが嫌いなんだなあ、と伊藤は笑いながら、その可能性も捨てきれない、とあっさり言った。

「俺はむしろ、西郷が来ない方が、話に信憑性があると思うな。薩摩にとって長州は敵地だ。単身乗り込んで来たら、どんな目に遭うか、馬鹿でも分かる。それが分かっていて西郷がのこのこやって来るなら、そりゃあ怪しいよ。ともかく、今後の方針は西郷の出方次第ってこと。ここでぐだぐだ憶測並べても始まらないし、まあ気長に待とうよ」

「はい……」

 草月の心中を反映するかのように、外では、雨が一段と激しさを増していた。


 


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