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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第26話 最後の大物

 それは初々しい柔らかな新緑も次第しだいに固く濃い緑の葉へと変わり始めた四月下旬のことだった。仕事を終えた草月が、眩しい西日に目を細めながら帰途について間もなく、見知らぬ子供に声をかけられた。

「怖い顔のお侍さんから、渡すよう頼まれた」と言って差し出されたのは細く折りたたまれた文。困惑気味に中を開いた草月の顔が、一瞬にして険しくなった。

「伊藤さん!」

 全速力で『一二三屋』へ駆け戻り、荒い息のまま伊藤へ文を突き出す。そこにはこう書かれてあった。


『お前の女は預かった。返して欲しくば、今日の暮れ六つ、茶臼山の麓にある稲荷神社へ来い。高杉・井上・伊藤の居場所の情報と引き換えにお梅を返す。  泉十郎』


「――お梅!」

 一読するや血相を変えて飛び出そうとした伊藤の腕を、草月が慌てて掴んで止めた。

「一人じゃ無理ですよ! 相手が何人いるかも分からないし、お梅ちゃんを人質に取られてるんですよ!?」

「奴らの狙いは俺だ。俺さえ出て行けば、お梅は助かる」

「それで自分は殺されてもいいって言うんですか!? 馬鹿言わないでください!」

 草月の全身がかっと燃えるように熱くなった。握った拳がぶるぶると震える。

「自分のせいで好きな人が死んじゃったら、そんなの全然嬉しくないんですよ。お梅ちゃんが伊藤さんの菩提を弔うって言って、仏門にでも入っちゃったらどうするんですか。まだ十七なんですよ。お梅ちゃんが大事だって言うなら、その未来まるごと全部守ってあげてください。それでこそ男です!」

「お前……」

 草月の剣幕に呆気に取られていた伊藤だったが、やにわに腹を抱えて笑い出した。さんざん笑って、ようやく笑いを納めて、

「分かった。そうだな、頭が冷えたよ。まったく、こんな時だってのに笑えるなんてな」

「……私は別に笑われるようなこと言った覚えはないんですけど」

 草月は憮然として言った。

「分かってるよ」

 伊藤は目じりにたまった涙を拭って、表情を改めた。

「策を練ろう。お梅を助けて、俺もお前も無事に逃げる方法を」

「はい。……この文面だと、伊藤さんがここに隠れているって知られたわけではないようですね。私を男だと思い込んで、私とお梅ちゃんが好い仲だと勘違いしてるみたい」

「そうだな。そこに付け入る隙があるかもしれない」


                         *


 朱い夕陽が山の端に沈んでいく。

「……?」

 時間通りに指定の稲荷神社にやってきた泉十郎は、ふいに足を止めて眉をひそめた。奥にある社殿の石段に、ひっそりと腰掛けた女がいる。 

 街道から少し外れた辺鄙な場所にあるこの神社は、手入れする者も絶えて久しい。木々の葉や雑草が好き放題に生い茂り、社殿は風雨に晒されて朽ちる寸前だ。昼間でも薄暗く不気味なため、今では子供さえ寄り付かない。だからこそ、ここを取引の場に選んだというのに、なぜ、今この時に限って人がいるのか。

(格好からして、旅の者か。大方、連れとはぐれて迷い込んだのだろうが……)

 泉は仲間の一人にお梅を任せると、つかつかと女に近づいた。目深に被った笠の影になって、女の顔は良く見えない。泉は構わず横柄に口を開いた。

「そこの女、ここは日が落ちると物騒だ。そこの石灯篭の横を進めば街道に出られる。早く立ち去った方が良い」

「まあ、そうどすか」

 柔らかな上方なまりで答えた女は、じれったいほどゆっくりとした動作で立ち上がった。

「ご親切におおきに」

 女は頭を下げて立ち去りかけ、そこで初めて泉の仲間たちに気付いたようだった。体格の良い武士二人に挟まれて、お梅が怯えたように縮こまっている。

「あの……。お連れの娘はんはどこかお加減でもお悪いんどすやろか。お顔の色が真っ青や」

「いや、大したことはない。少し頭痛がするようだが、少し休めば直に治る」

「そうどすか。――せや、頭痛やったら、ちょうどうちが良いお薬持っとりますよって、良かったら差し上げます。――ああ、ほんま辛そうや。だいじおへんか」

 女は泉が制止する間もなくすたすたとお梅に近づくと、気遣うように顔を覗き込んだ。お梅の目が驚いたように大きく見開かれる。

「そ――」

 お梅の言葉を目顔で制し、女――草月は、お梅を拘束していた鷲鼻の男からさりげなく引き離した。石段に座らせ、竹筒から水を飲ませる。

「……ところで、お武家様方はどなたはんかと待ち合わせどすか? さっきもここに、人を待ってる様子の男の人がいてはりましたけど」

「何!?」

 泉が大げさなほど驚いて草月に詰め寄った。

「そいつはどこにいる」

「どこ、て……」

 草月は空とぼけた。

「しばらくそこの鳥居の方におって、それから、なんや、あっちの方に行かはりましたけど」

 社殿の裏手にある、うっそうと木の生い茂った薄暗い山奥を指差す。泉は仲間二人に合図してそちらへ向かわせた。自身はお梅から目を離さぬように、鋭いまなざしをこちらに向けている。

(さすがに、お梅ちゃんを置いては行ってくれないか。……でも、これで敵は一人!)

 軋んだ音と共に社殿の扉が開き、頭巾で顔を隠した伊藤が飛び出した。

 驚く泉に体当たりを食らわせ、

「――今だ! 二人とも走れ! 人の多い街道に出さえすれば、そいつらだって派手に手出しはできない」

「はい! 行こう、お梅ちゃん」

 お梅の手を引き走り出した草月の行く手に、裏の山へ向かったはずの仲間二人が立ちはだかった。

「何かおかしいと思ったが、やはりそういうことか。くだらぬ三文芝居に付き合わされたもんじゃ」

 角ばった顔立ちの武士は、ちらりと泉に目を向け、

「大丈夫か、十郎」

「ああ、不覚を取ったが、大事ない」

 たたらを踏んだ泉だったが、すぐさま態勢を立て直し、ずらりと刀を抜く。

 前と後ろを完全に挟まれてしまった。伊藤がお梅を背中にかばう。

「貴様ら、何者だ? 草月という男の仲間か。自分の女の一大事に、他人や、ましてや女まで使うとは見下げた男だな、草月という奴は」

 その言葉を刎ね付けるように、草月は胸を張った。目深に被っていた笠を投げ捨てる。一つにまとめた髪がさらりとこぼれた。

「お生憎様、草月は私よ」

「何――?」

 虚を突かれて、泉たちの動きが寸の間、止まる。

 その機を逃さず、草月と伊藤が同時に動いた。

 ぶわりと風が吹いたような感覚がして、お梅は思わずぎゅっと固く目を閉じる。

 砂利を蹴る音、怒鳴り声、金属音。

 そして――

 目を開いて見えたのは、互いに刀を向けて睨み合う伊藤らの姿。伊藤が頭巾の隙間から、お梅を凝視している。

(伊藤様、何をあんなに必死な顔してらっしゃるのかしら。私なら大丈夫です。……そう、大丈夫、って言わなきゃ)

 口を開きかけて、喉にぴりっとした痛みが走った。

「――!」

 ――泉だ。泉が後ろから、刀を突き付けているのだ。お梅の喉元から、声にならない悲鳴が漏れる。

「お梅!」

 伊藤は頭巾をかなぐり捨てた。

「やめろ! 伊藤は俺だ! お前たちの狙いは俺だろう。お梅を離せ。それ以上お梅を傷付けたら、絶対に許さないからな。ばらばらに刻んで海に捨ててやる!」

「ほう、そんなところにいたか。言うことだけは勇ましいな」

 嘲るような口調で泉が言った。

 伊藤に向かって、じり、とわずかに身じろぎした鷲鼻の男を、草月が構えた短筒で素早く牽制する。

「下手な動きしないで! あなたがどんなに剣の達人でも、私が撃つ方が早い」

「そうか? 大層なことを言う割には、手が震えているようだが」

 ――ばれている。 

 草月は内心毒吐いた。いくら実戦経験があるとはいえ、間近に刀を向けられる恐怖と緊張感はそう易々と克服できるものではない。

「じゃあ試してみますか。そのお腹に穴が開いても知りませんよ」

 それでも精一杯虚勢を張ってみせる。

 すぐそばでは、伊藤と泉の応酬が続いていた。

「まさか、お前自ら来ているとはな。居所を聞く手間が省けた。――そうか、このお梅はお前の女だな? 馬関を夷的に開こうとする目論見と言い、そこの草月と言い、どこまでこの国を愚弄するつもりだ!」

「うるさい、この石頭野郎! お前こそ、この期に及んで、未だに攘夷攘夷言ってる時点でとっくに時代遅れなんだよ! いつまでも古臭い考えにしがみついてないで、現実を見ろ!」

「何をこの売国奴めが!」

 間合いを計りながらも、お互い目の前の相手から目を逸らさない。

 まるで三すくみのような状態だ。

 ほんの僅かな指先の動き一つが、この均衡を破る。そんな危うさがこの場に張り詰めていた。

 周りの音は一切消え、時間すらも止まったかのよう。

 と――、


「――そこまでだ。刀を納めろ、野々村」


 均衡を崩さぬ絶妙の間合いを突いて、静かな声が割って入った。

 それは何でもない一言。

 だが、泉はまるで鋭い斬撃を受けたかのように顔色を失くして硬直した。

 黄昏の闇の中から、声の主はゆっくりと姿を現した。

 長身で均整の取れた体躯。きりりとした濃い眉に鼻筋の通った端正な顔立ち。

「「桂さん!」」

 草月と伊藤の声が重なった。

 桂は刀に手をかけてさえいない。だが、その内から放たれる気迫は、この場の誰をも圧倒していた。

 ついに、泉が刀を下ろした。仲間二人も次々にそれに倣う。

 解放されたお梅に、伊藤が駆け寄る。

 草月は呆然と桂を見た。

「桂さん、どうして――」

 聞きたいことは山ほどあるのに、頭が空回りして、それ以上言葉が出てこない。

「積もる話は後だ、草月。まずはこの者たちと話がある」

 桂は戦意を失くして立ちすくむ三人の刺客に向き直った。


                          *


「……まっさか、あの泉って奴が、桂さんの旧知だったとはなあ!」

 冷酒をぐいっと煽り、興奮冷めやらぬ様子で伊藤が言った。

 昼間の汗ばむほどの陽気を残して、日が落ちてもさほど気温は下がらない。薄く開いた障子窓の向こうから、ほのかに月の光が透けて見える。

 すっかり溜まり場と化した、いつもの『一二三屋』のいつもの一室。

 ひと騒動を終えて戻って来た草月たちの前には、一太郎が用意してくれた心づくしの夕食の膳が置かれており、尽きぬ会話の間にも、みるみるうちに、それぞれの腹の中へと収まっていく。

「本当に! あんなに偉そうにしてたのに、桂さんに一喝されて、子供みたいに小さくなってましたもんね。……ちょっと可笑しかったです」

 桂が『野々村』と呼びかけた刺客の泉は、なんと、桂が塾頭を務めた江戸の剣術道場で修業をしていた男だった。

『防長二州が一丸となって幕府に当たらねばならぬ時に、身内同士で争うとは何事か!』

 かつての兄弟子からこっぴどく叱られた泉は、仲間共々神妙な顔で頭を下げた。

 その後、草月たちはお梅を家まで送り届け、こうして『一二三屋』に集ったというわけである。

「もっと叱り飛ばしてやっても良かったくらいだよ! お梅をあんな目に遭わせたんだから。……くそう、やっぱり一発殴っておくんだった!」

「気持ちは分かるが、私に免じて勘弁してやれ。悪い男ではないんだ。やり方はまずかったが」

 桂が幾松らと共に船で馬関へ着いたのはこの日の夕刻。旧知の商人から伊藤らの窮状を聞き、『一二三屋』を訪ねると、その時には伊藤も草月も店を飛び出した後だった。一太郎から事情を聞いた桂は急いで後を追い、先の次第となった。

 綺麗に膳を平らげた桂は、箸を置くと、改めて居住まいを正した。

「本題に入ろう。私がいない間の長州の状況について、大まかな部分は把握しているが、もっと詳細なところを知りたい」

 桂はひたと草月と伊藤の顔を見据えた。

「――全て、話してくれ」


                         *


 話は深更に及んだ。やがて、大方語りつくしたころ、桂がぽつりと漏らした。

「……俊輔も、草月も、皆、私がいない間、ずいぶんと大変だったようだな。何も力になれず、すまない」

 桂の瞳の奥には深い懊悩が見えた。

 部屋に満ちた重い空気を振り払ったのは、伊藤の明るい声だった。

「何言ってるんですか、桂さん! 今こうして帰って来てくれたことで十分ですよ。俺たちだけじゃ、どうしようもなくて困ってたんですから。なあ、草月?」

「そうですよ!」

 草月も熱を込めて、

「桂さんがいることで、私たちがどんなに心強いか。ああ、高杉さんや井上さんにも早く知らせてあげなきゃ」

「いや、その前に、支藩との軋轢をどうにかする必要がある。……確か、村田先生が馬関にいるはずだったな?」

 はい、と伊藤が頷く。

『村田先生』とは、兵法の見識を買われて長州に招聘された村田蔵六のことである。

「では、村田先生に頼んで山口へ使者に立ってもらおう。私の帰還を藩がどう判断するかが肝だ。なんせ、一年近くも隠遁していた身だからな」

 自嘲気味に笑った桂だったが、それは杞憂に終わった。人材難にあえいでいた藩は、すぐさま桂を山口へ呼び寄せ、政務に当たるよう命じたのだ。桂は水を得た魚のように、精力的に動き始めた。

 長府支藩らに働きかけ、高杉らを狙う壮士を鎮め、防長一丸となって幕府に当たることを確認させた。続いて、諸隊の正規兵化および西洋式調練の導入、武器購入のための予備金の放出を建言し、長州藩はことごとくこれらを了承した。

 今や桂は、一人で外交・軍事・国政の実権を担う八面六臂の活躍を見せていた。長州若手きっての有能株と言われた能吏の面目躍如である。

 暦は五月下旬。いつしか季節は、しとしとと雨の降る梅雨の時期に入っていた。



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