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花信風  作者: つま先カラス
第三章 薩長盟約
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第25話 馬関迷走

 強い海風が盛大に草月の髪を乱す。

 馬関海峡の海は、今日も変わらず急な流れを波間に隠して群青にきらめいている。

 船から馬関港へ下り立った草月は、二か月ぶりに見る馬関の町に目を細めた。

「懐かしいなあ。なんか、馬関に来ると、『帰って来た!』って感じがします」

「何を大げさなことを言っちょる。船酔いで頭がいかれたか」

 辛辣な言葉を投げつけて来たのは同乗していた井上だ。草月はむっとして振り返った。

「……人がせっかく感慨にふけってるのに、ぶち壊さないでくれます?」

「そんな暇があるか。仕事は山積みなんじゃ、ぐずぐずしちょると置いていくぞ」

 じろりと睨みつける草月などまるで意に介さず、井上はすたすたと足早に歩き出す。

「あ、ちょっと待ってくださいよ!」

 身の回りの品をまとめた小さな行李の紐をしっかりと握りなおし、草月は急いでその背を追いかけた。

 井上の言う通り、ここへ来たのは思い出に浸るためではなく、仕事のためだ。外国応接掛として馬関に赴任することになった井上は、「やる気があるなら手伝え」の一言で草月を役所付きの小者に仕立て上げた。

 外国応接掛とは、外国との講和以降に新たに創設された役職で、その名の通り、外国人との折衝に当たるのが仕事である。食料や燃料を求めて馬関に寄港する外国船は日を追うごとに増えており、まだまだ外国語の話せる者が少ない長州では、草月のつたない英語力でも役に立つ。

 馬関本陣・佐甲甚右衛門の広大な屋敷を借り受けた役所は、急ごしらえながらも一室をソファーとテーブルを置いた西洋風の設えに改装し、外国人とも落ち着いて話し合いが持てるような空間になっている。

 通詞の仕事がない時は、来客の取り次ぎ、お茶汲み、掃除、整理整頓、墨やら筆やら紙やらといった備品の補充・買い出し、資料や書類、手紙の配達……等々、命じられれば何でもやった。容赦なくこき使われ、ようやく役所の仕事が終われば、下宿させてもらっている『一二三屋』の手伝いだ。ろくに休む暇もない忙しさだが、そうして忙しくしているほうが、悲しみが紛れてありがたかった。

 そうした日々が続いたある日、山口から高杉と伊藤がやって来た。そこで高杉の口から出たのは、相変わらず突拍子もない言葉だった。

「馬関を開港し、直接イギリスと貿易をする算段のため、俊輔と共に洋行する!」

 すでに藩から許しも得て(表向きは英学修行と内外の情勢偵察のため、横浜行きを命じるというもの)、旅費の三千両を支給されているという。

「貿易で国が富めば、幕府も、薩摩も、いわんや外国さえも恐るるに足らず! これぞ『大割拠』じゃ。まずは長崎へ行ってイギリス商人に話をつけ、イギリス行きの船に乗せてもらう」

 期待を胸に楽しげに語る高杉を前にすれば、反対などできようはずもない。

(ずうーっと前から、洋行したいって言ってたもんなあ、高杉さん)

 最初の衝撃の波が去った後に残ったのは、一抹の寂しさと諦めの気持ち。

 最初は大反対だった井上も――「内乱が終わったばかりで、諸隊と干城隊の関係もうまくいっていないというのに、今お前に去られたら困る!」――、最終的には折れた。

 長崎行きの船を待つ間、四人は馬関の東にある花街に繰り出して、盛大な送別会を開いた。

 それから間もなく、長崎へ行く途中だというイギリス船が馬関に寄港し、二人はこの船に便乗することになった。

 そして、出発の朝。

 見送りに来たお梅に、伊藤が「何年かかっても必ず戻ってくるから、俺と一緒になってくれ!」と求婚し、感激したお梅は目を潤ませながら「十年でも二十年でも、梅はずっとお待ち申しております!」と答え、周りからやんやの喝采を浴びていた。

 最後に高杉が草月に向き直り、

「達者でな。いつかおのしが故郷に帰れるよう、遠い異国から祈っちょる」

「――はい」

 急に目の奥が熱くなって、草月はぐっと腹に力を込めて涙を堪えた。みっともない泣き顔は見られたくない。

「高杉さんも、お元気で。くれぐれも体には気を付けてくださいね」

「ああ、約束じゃ」

 名残は尽きなかったが、出航の時間だ。小舟に乗って沖合の船に向かう二人の姿を、草月と井上は見えなくなるまで見送っていた。


                   *


 それから半月余り。

 馬関海峡を渡る強い海風はいつしか暖気を帯び、照りつける陽射しの強さは夏の近いことを知らせてくる。

(笠を被ってくれば良かったかな)

 口元にかかった髪を払った手が、荒れてかさついた頬に触れて、今更ながらに思い至る。

 すぐ隣では、草月のゆうに二倍はあろうかという偉丈夫のアメリカ商人が、まるで暑さなど感じぬように商談に熱中している。訛りの強い早口の英語にいささか手こずったものの、何とか大きな混乱なく通詞の役目を終えた。

「Good Bye!」と笑顔で船に戻って行く商人にこちらも笑顔で手を振り、役所に戻ろうと桟橋に背を向けた時だった。

 高杉の声が聞こえた気がして、足を止めた。きょろきょろと辺りを見渡す。

(空耳か……。まさか、高杉さんがここにいるはずないもんね)

 今頃は遥か遠くの海の上だろう。

 しっかりしなきゃ、と自分に活を入れて再び歩き出そうとした時。

「――草月! こっちじゃ!」

 高杉さんだ。空耳じゃない!

 くるりと振り返る。大きく目を見開いた。

 沖合の小舟から手を振っていたのは、遠く異国に旅立ったはずの高杉と伊藤だった。

「ど、どうしたんですか! イギリスに行ったんじゃなかったんですか? 何か忘れものでも……、まさか、路銀を花街かどこかで使い果たしちゃったとか!?」

「何でそうなる」

 桟橋に降り立った高杉は憮然とした顔になった。

「違う。洋行は取りやめにしたんじゃ」

「え――?」


                            *


 井上も交えて詳しい事情を聞いたところによると、次のような次第らしい。

 長崎に着いた高杉と伊藤は、さっそくイギリス領事ガワーを訪ね、馬関開港計画を披歴した。しかし、ガワーは慎重だった。

『幕府を通さぬ長州との直接貿易は時期尚早であり、イギリス政府は応じないだろう。今はそれより、長州の国力を高めるべきだ』というのがガワーの主張だった。

 伊藤の旧知であるイギリス商人・グラバーもまたガワーと同意見だったため、二人はやむなく洋行を諦めた。

「イギリスとの正式貿易の計画は頓挫したが、それなら裏で密かにやればいいことじゃ。幕府と戦うには、武器が要る。グラバーの口ぶりでは、金と手段さえあれば、長州に武器を売ることにためらいはないようじゃったしな」

 藩にその旨を上書すると、間もなく高杉と伊藤に外国応接掛の命が下り、井上と三人で密かに馬関開港に向けて奔走し始めた。だが、彼らのやる気もむなしく、事はそう容易には進まなかった。

 彼らを阻む最大の問題点は、馬関という地の複雑さにある。実は、馬関における長州藩の領地は西端のごく一部に過ぎず、残りの大部分は支藩の長府藩や清末藩の領地なのである。

 馬関は交通の要衝であり、経済効果の高い土地だ。それを、みすみす長州本藩に渡してしまうなどもってのほか――。支藩の者たちは激怒した。

「おまけに外国人が馬関に自由に出入りするなどけしからん!」と、一部の過激な者たち――泉十郎を首領とする三人の長府藩士――が高杉らをつけ狙い始めた。

「このまま三人そろって馬関にいるのは危険じゃ。ほとぼりが冷めるまで、別々に逃げるとしよう」

 商人に化けた高杉は、周囲の目をごまかすためと称して、馴染みの芸者を連れて四国へ逃げ、井上は九州の豊後へと逃げた。対馬へ行こうとしていた伊藤は、対馬藩内が予想以上に紛糾していることを知り、やむなく断念。国外へ出るのを諦め、『一二三屋』に潜伏することにした。

「――役所の人が話しているのを聞いたんですけど、長州藩政府は、馬関の開港はしないって、正式に布告を出したそうですよ!」

 夕刻、仕事を終えて戻って来た草月は、怒りに頬を染めて伊藤に報告した。

「これじゃ、講和会談の時とまるで同じじゃないですか! 旗色が悪くなったら、自分は関係ないって顔して、全部、人に責任を押し付けて。藩主様も世子様も、何考えてるんだか。前にお会いした時は、家臣思いの良い方達だって思ったのに!」

「そんなこと言うと、高杉さんに怒られるよ」

 部屋でだらしなく着物の襟をくつろげて本を読んでいた伊藤は、どうでもよさそうに言った。

「御両殿様命だから」

「だけど、このままじゃ……。私一人じゃ、殿様に直談判というわけにもいかないし」

「今回は本藩と支藩の利権が絡んでるからね。殿の一声でどうにかなる問題じゃない。桂さんならこういう交渉事は得意だ。桂さんさえ戻ってきてくれたら――」

「幾松さんが迎えに行ってから、もう二か月ですよね。とっくに長州に着いててもおかしくないのに……。何かあったんでしょうか。もしかして、役人の警戒が厳しくて、関所を越えられないとか」

 いっそのこと、私が様子を見に行きましょうかと言うと、伊藤は、いいや、と首を振った。

「今行っても、入れ違いになる可能性が高い。――大丈夫、桂さんならきっとうまくやるよ。それより草月は役所の動きに目を光らせてて。今、自由に動けるのは草月だけなんだから」

「分かりました」

 伊藤は本を放り出すと、「あーあ」、と大の字に寝っ転がった。がん、と壁に足をぶつけて、苛立たし気に引っ込める。

「こんなことなら、あの時、無理やりにでも洋行しておけばよかった。……高杉さんだって、気にしてないようなふりしてるけど、内心はすごくがっかりしてるんだぜ」

「……やっぱりそうなんですか」

「うん。……だけど、あの人はああ見えて、長州毛利家の臣ってことにものすごく誇りを持ってる人だからさ。長州のためだと言われたら、たとえ数年来の自分の望みを捨ててでも、迷わずそっちを取るんだ。『奇兵隊』なんて、藩の兵制の根幹揺るがすようなこと平気でやっといて、矛盾してると思うけど」

「でも、そういう矛盾してるところが高杉さんらしいですよね」

 くすりと笑った時、階下で若い女の声がした。

「お梅だ!」

 とたんに伊藤が起き上がって、いそいそと身だしなみを整え始める。いくらもしないうちに、廊下から遠慮がちにお梅の顔が覗いた。

「失礼します……。あの、伊藤様、昨日お預かりした繕い物が出来たのでお持ちしました」

「もう出来たの!? 早いなあ、ありがとう。さあさ、上がってよ。狭いとこだけど」

 お梅と入れ替わりに、草月は「じゃあ私はこれで」とにっこり笑って腰を上げた。

「そろそろお店が込み合う時間だから、手伝ってくる。お梅ちゃん、ゆっくりしてってね」

「――あ、草月!」

 襖に手をかけた草月を伊藤が呼び止める。

「お前も十分気をつけろよ。お前が俺たちと親しいのは役所の人間なら誰でも知ってるんだ。俺たちみたいに命を狙われることはないにしても、何らかの害をなそうとしてくるかもしれない」

「そうですね……、注意しておきます」

 いつになく真剣な顔の伊藤に、草月もぐっと気を引き締めて頷いた。


 この伊藤の忠告は、数日後、別の形で現実となる。


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