第24話 夢、途上
元治二年二月二十二日。
藩主毛利敬親は祭礼を執り行い、祖先の霊前に、『武備恭順』を藩是とし、藩内一丸となって国難に臨むことを誓った。政府員は一新され、長州はついに幕府との戦に向けた体制へと変わろうとしていた。今回の征長は戦になることなく終わったが、この先長州が幕命に応じなければ、次なる征長があるのは間違いないからだ。
だが、優秀な人材の多くは、度重なる戦や俗論党の弾圧によって失われている。高杉は出石に潜伏したままの桂を呼び戻そうと躍起になったが、誰も正確な居場所を知らない。切歯扼腕しているところへ折良く、桂の方から接触があった。長州の状況を知るため、廣戸甚助を馬関に遣わしてきたのだ。廣戸を案内役に、幾松が志願して桂のもとへ行くことになった。
桂の帰郷を待つ傍ら、高杉は軍制改革にも着手した。膨れ上がった諸隊を縮小・再編成し、新たに創設する干城隊(世禄の藩士から精鋭を選んで結成)の指揮下におくのだ。
諸隊の定員を削減することについて、隊士の間からは激しい反対の声が上がった。
当然であろう。
命がけで戦ったにもかかわらず、勝った後は不要とばかりにお払い箱にされるのだ。隊士の中には、他に行く当てのない者も大勢いる。藩は、そうした者たちへの生活保障と新たな仕事の斡旋をすることで、どうにか不満をそらそうと必死になった。
「お嬢さんはどうするんだい」
諸隊幹部の会議から戻り、屯所の土間に顔を出して茶を所望した所は、草月から受け取った茶を美味そうに飲みながら尋ねた。
「そうですね……、さすがに女の私が正式な藩兵になるわけにもいかないし――そもそも真っ先に首切りの対象でしょうけど――、馬関に行こうかと思ってます。たしか、馬関を開港するっていう話があるんですよね? もしそれが実現するなら、私でも何か、役に立てることがあるかもしれませんから。……遊撃隊の仲間と離れるのは寂しいですけどね」
特に、外国艦隊と戦った頃からの仲間とは、もう何か月も一緒にいて、何度も死線を共にした。今ではすっかり気心の知れた仲だ。
「そうか。俺もしばらくはこっちにいるから、しばしお別れだな。おそらく、藩庁もまたこっちに移すことになるだろう」
「そうなんですか。――ああ、でも、本当にいよいよって感じがしてきましたね。桂さんも帰ってきたら、きっと、もっと、色んなことが新しく変わっていくんでしょうね」
「そうだな。やることが山積みだ。お互い、離れてもそれぞれの力を尽くそう」
「はい!」
この先の道は決して容易くはないかもしれないけれど、それでも長州の未来は明るく見えた。
これからまた始まるのだ。
草月はそう思っていた。
――その、矢先だった。
所が、山口・吉敷村の陣中で、病に倒れたのは。
*
「具合はどうですか、先生」
遊撃隊の屯所から歩いてすぐ。小さな町屋の一間を借り受け、所は療養していた。夕刻、隊務を終えた草月が顔を出すと、所は布団から起き上がって何やら熱心に紙に書きつけていた。庭に面した障子は開け放たれ、風に乗ってかぐわしい花の香りが漂ってきている。
「お嬢さんか。今日はわりと気分が良いんだ。陽気のせいだろう」
「ぽかぽかして、すっかり春めいてきましたもんね。ほら、円正寺の桜も、この二日で、一気に咲き始めたんですよ。ご住職にお願いして、一枝もらってきました。後でお菊さんに活けてもらいましょう」
お菊とは、所の身の回りの世話をしてくれているこの家の内儀だ。
筆を置き、草月が差し出した桜の一枝を手にした所は、痩せて骨ばった手の中でくるりと回した。
所の周りには、何やらびっしりと書き連ねられた紙がいつくも散らばっている
「またお仕事されてたんですか? もう、休んでてくださいって、いつも言ってるのに」
まだ墨が乾ききっていないそれらを草月は丁寧に拾って綺麗に並べなおした。風で飛ばされないよう、適当な重石を乗せる。
(これ、幕軍の進軍経路と兵の規模を予想したものかな……。うわ、どこの藩がどの程度動員されるのかまで、細かく書いてある……)
――二月の終わり。
突如、激しい腹痛を訴えた所は、その日から高熱を出して床に伏した。二日経ち、三日が経っても、いっこうに熱が下がらず、うわ言を繰り返すばかりで、医者には「このままでは体力が持たず危ない」とまで言われた。
病状は一進一退を繰り返し、ようやく少し落ち着いてくると、所は寸暇を惜しむように、かねてからの懸案だった長州の軍制改革に心血を注ぎ始めた。
休むよう草月や高杉らがいくらたしなめても、「この国の大事に、自分の病など気にしてられるか」と聞き容れなかった。
「ちょうどいい。俺が口述するから、お嬢さんは書いていってくれないか。なに、多少字がまずくても構わない。後で清書させるから」
「まだやるつもりですか?」
断ろうとしたが、きっと草月が断れば、先ほどまでのように自分で書くのに違いない。
「分かりました。でも、疲れたら休んでくださいよ」
「ではいくぞ。……幕軍の攻め口として考えられるのは先に述べた四カ所であり――」
所は滔々と話し始めた。
頭の中で何度も繰り返し考え、整理していたのか、その言葉はよどむ所がない。半刻近くしゃべり続け、さすがに疲れたのだろう。少し咳き込んだ所に、草月は枕もとに置かれた水差しから湯呑に水を入れて差し出した。
甲斐甲斐しく世話を焼く草月を、所はどこか感慨深げに眺めた。
「あんた、いくつになるんだっけ」
「二十四です。どうしたんですか、いきなり」
「……いや、娘も、あと二十年もすれば、お嬢さんくらいになるのかと思ってな。元気に育ってくれるのはいいが、あんたのようにお転婆が過ぎるのも困りものだな」
「先生の娘さんなら、きっと頭のいい子に育ちますよ。もしかしたら、先生の跡を継いで、お医者さんになるかもしれませんよ」
「医者か……。女が医者になるなんて日が、来るのかね」
「来ますよ! きっと。男も女も、誰もが共に学べる、そんな時代が」
「お嬢さんが言うと、妙に説得力があるな」
くっくっく、と楽しげに笑う。
だが、その笑顔の裏に、穏やかならぬ思いを隠していることを草月は知っている。高杉や井上たちと話しているのを、偶然廊下で聞いてしまったからだ。
「――死にたくない。俺は死にたくないよ。死ぬのが怖いんじゃない。この国の行く末を見届けることができないのが無念なんだ。あと五年、いや、三年でもいい。俺に命があるなら……! だが、それも詮無きことだ。どうか、俺の最期の頼みと思って、俺の代わりにしっかりこの国を導いてくれ」
高杉たちが何と返事したかは知らない。草月の弱い心はそれ以上聞くのを拒み、足早にその場を立ち去らせた。
「……じゃあ、私はそろそろ戻ります。仕事もほどほどにして、ちゃんと食べて、ゆっくり養生してくださいね」
「分かった分かった。まったく、これじゃあ、どっちが医者だか分からないな」
「……確かに!」
ふふっと笑って、草月は部屋を辞した。
(ようし、早く戻ってこの書類を清書してもらわなきゃ。二、三日後には、萩から元込め式のスナイドル銃も届くっていうし、先生に見せたらきっと喜ぶ)
だが、その機会が訪れることは永遠になかった。
翌日、容態が急変し、にわかに危篤状態に陥ったのだ。急報を聞き、草月ら遊撃隊の隊士をはじめ、高杉、井上、品川ら、親しい者たちが次々に駆け付けた。
「所さん、しっかりしろ」
高杉と井上が、それぞれ所の手を取り、声をかける。所は意識が混濁しているのか、うつろな目をしてかぼそい息を繰り返すばかり。
目を離した瞬間に所の命の灯が消えてしまいそうな気がして、草月はただ一心に所を見つめていた。
未明近くになり、ふっと息遣いが穏やかになり、目にはっきりとした意思の光が戻った。
「――先生?」
周りを取り囲んでいた一同が、息をつめて、一斉に身を乗り出す。
「――」
かすかに唇が動いたが、もはや言葉にならなかった。
ふっと唇の端で笑って、一人一人の顔を見渡して、そしてゆっくりと瞳を閉じた。
しんとした部屋に、所の最期の一息が響く。
「……ご臨終です」
医師の固い声が死の静寂を破った。
部屋のあちこちからすすり泣きが漏れる。
(嘘よ、うそうそ先生が死ぬなんてだって先生いつも笑顔できっと元気になるってそんなの)
土気色をした乾いた唇は、もう草月をからかうことも、皮肉めいた笑みを浮かべることもない。
「……嘘でしょ、先生。また、からかってるんでしょ? そうだ、って言ってください。ねえ先生、目ぇ開けてくださいよ。いつもみたいに、皮肉言ってくださいよ。……私、全然女らしくないのに、『お嬢さん』って、呼んでくださいよ……!」
目の奥が熱くなり、視界がぼやける。
大粒の涙が、止めどなく溢れた。
すがるようにその体に覆いかぶさった。
*
所の遺体は円正寺の北部に葬られ、遺髪だけが故郷・美濃へと送られた。
「皮肉なもんじゃな。三途の川に首まで浸かったわしがこうして生き延び、わしを岸まで引っ張り上げてくれた恩人が、あっけなく先に逝ってしもうた……」
井上がぽつりと独りごちた。
葬儀の後、草月と井上だけが、いつまでも墓の前から動こうとしなかった。
しゃがみこみ、涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を膝頭に押し付けたまま、絞り出すように草月が答える。
「……理不尽です、こんなの。敵の手にかかって亡くなったのなら、まだ敵を恨むこともできた。でも、病気で、こんなにあっけなくいなくなっちゃうなんて……。これからなのに。やっと、戦も終わって、藩論も統一されて、これから、皆で頑張っていこうってしてたところだったのに。なのに、どうして先生が死ななくちゃいけないんですか!? どうして? どうして……!」
「一番無念じゃったのは所さんじゃろう。どれほど生きたかったか。じゃからこそ、わしらは足を止めてはいかん。長州を、この国を、異国と渡り合える国にしていかねばならんのじゃ」
分かっている。
けれど、もう限界だった。
心が悲鳴を上げていた。
「いつまでそうやってぐずぐずと泣いちょるつもりじゃ、このクソ女!」
ついに井上が爆発した。
「それで所さんが喜ぶと思うのか。所さんのことを思うなら、前を向け、足を止めるな、進み続けろ。たとえ幾人の仲間の屍を越えようとも、それが生き残った者の務めじゃ! それが出来ぬなら、そこで干からびるまで一人で泣いちょけ!」
「……酷い言い様ですね、井上さん」
くぐもった声で言った草月の言葉を、井上は「はん!」と刎ねつけた。
「わしが死にかけちょる時に、好き勝手罵倒してくれたのはお前の方じゃろう。『文句は後で聞く』と言った言葉を、よもや忘れたとは言わさんぞ」
「……ええ、そうですね」
ふ、と気が抜けたような吐息を鼻で漏らして、草月はようやく顔を上げた。
元治二年三月十二日、所郁太郎死去。享年二十八歳。




