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花信風  作者: つま先カラス
第二章 長州内乱
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第23話 湯田温泉にて

 山口の湯田は、温泉で有名な土地である。その昔、白狐が傷ついた体を池に浸しているのを見た和尚が発見したのが始まりで、以来、地元の人々から大切にされてきた。

 その湯田にある一軒の温泉宿。その立派な石造りの浴槽に首まで身を沈めて、草月はむうう、と喉の奥から心底満足げな声を出した。

 無色透明。肌に吸い付くような柔らかい湯は、あちこちにこしらえた擦り傷にも染みることなく、優しく全身を包み込んでくれる。

 まるで、これまでの疲れがそっくり湯に溶けていくようだ。

(温泉なんて、何年ぶりだろう……。まさか、こんな所で温泉に入れるなんて、思ってもみなかった)

 話は、二日前に遡る。遊撃隊の屯所を訪れた品川が、突如「温泉に行こう!」と言い出したのだ。

「お、温泉!? どうしたんですか、いきなり」

「どうって、あの約束だよ! 『落ち着いたら、皆で酒を飲んで騒ごう』――そう言ったろ? 停戦が成ったばっかで、ちょっと気が早いけど、いいよな。こういうのはもったいつけてても仕方がないし」

「もちろん約束は覚えてますけど、でも、温泉って?」

「あれ、知らなかった? 湯田には良い温泉が湧いてるんだよ。せっかくすぐ近くにあるんだ、入らない手はないだろ? 一日宿に泊まってさ、ゆっくりしようぜ」

(……温泉!!)

 品川の提案はたまらなく魅力的だった。俗論党勢力が台頭してきた昨秋からこちら、もう何か月もまともに風呂に入っていないし、着物だって着たきり雀だ。

「良いですねえ、行きましょう!」

 かくして、草月、山田、品川、それに高杉、井上、所、堀真五郎、白井小助を加えた八人が湯田に集まった。

 堀と白井の二人に会うのは久しぶりだった。それほど親しいというわけではないけれど、会えば挨拶を交わす程度には顔見知りで、二人とも草月との再会を喜んでくれた。

 白井の右目には黒い眼帯が巻かれている。以前会った時にはなかったものだ。聞けば、参謀を務める奇兵隊の訓練中、誤って雷管を爆発させてしまったのだという。

「前より男前になったじゃろう?」

 名前に反して大柄で浅黒い肌の白井には、確かに野性的な魅力に映った。

 草月が洗い髪を手ぬぐいで拭きながら、湯上りの上気した体を部屋へと運ぶと、男性陣はとっくに湯から上がっていたらしく、思い思いの体勢でくつろいでいた。

「よっ、お帰り。ずいぶんと長風呂だったな」

 品川がだらしなく寝そべった姿勢のまま、ひらひらと手を振った。

「すみません、あんまり気持ち良くて、つい……。いつの間にかうとうとしちゃってたみたいで、もう少しでのぼせちゃうところでした」

 あははと笑って、すとんと品川の隣に腰を下ろす。かすかに鼻にツンとくるこの匂いは、井上が傷口に塗った軟膏の匂いか。あれだけの重傷から驚異的な回復を見せた井上だが、今も頬には生々しい刀痕が残る。着物に隠れているが、おそらく全身もそうだろう。思わずじっと見てしまって、井上にぎろりと睨まれた。

「何じゃ」

「あ、いえ、何か、断髪率高いなあ、と思って」

 草月は慌ててごまかした。

「ほら、井上さんも、高杉さんも、品川さんも山田くんも所先生も、短いでしょう」

「おお、そういえば、髷を結っちょるのはわしと堀だけか」

 白井が堀と顔を見合わせる。

「知らない奴がこの部屋を覗いたら、異人の集まりだと思われるかもしれんな」

 ほんの少し口元を上げて、堀が言った。

「でも、短いと手入れが楽で良いですよね。私ももう少し切ろうかな……」

 昨夏に肩口まで切り落とした髪は、少し伸びて鎖骨に届くほどになっている。まだ水気の残る毛先をつまんでそう言うと、たちまち山田がぎょっとしたように目を剥いた。

「何を言っちょるんじゃ。それ以上切ってどうする! 髪は女の大事なものじゃろう」

「別に丸坊主にする気はないよ。でも、長いと洗うのも大変だし、中々乾かないし……。あ、そうか、切るにしても、髪を結ってもらえるくらいの長さは残しておかないと、おなごの姿になった時に変だよね」

「お前な……」

 何か根本的な感覚が違う草月に、山田はがっくりと肩を落としてため息をついた。

 そのやり取りに、周りが遠慮なく笑う。

 と、それが合図だったかのように、女中が料理の膳を運んできた。ほかほかの白米に熱々の味噌汁、こんがりと美味しそうな焼き目のついた魚、そして付け合わせの辛子レンコン。もちろん、酒もたっぷりついている。

「うわあ、美味しそう!」

 歓声を上げて箸を手に取った草月は、はたと我に返って、品川の袖を引いた。

「そういえば、ここの支払い、どうするんですか? こんな大人数で泊まったんじゃ、高いでしょう」

「そんなのツケだよ、ツケ。後で政府から慰労金でも貰って払えばいいよ」

「ええ!? いいんですか、そんなの」

「いいっていいって! そんなこと気にしないでさ、ほら、食おう!」

 まるで悪びれない品川を横目に、草月はせめて自分の分だけでも、金が出来たら払おうと心に固く誓ったのだった。


                *


 美味しい料理に舌鼓を打ち、たらふく酒を飲む。

 あれほど苦しく厳しかった戦も、終わってしまえば酒の肴だ。それぞれに開陳される武勇伝に負けじと、草月も弾薬を持って戦場を駆けまわった話を披露する。

 思えばここ一年は、辛い出来事ばかりだった。何人もの大切な仲間を失った。

 唯一、目出度い出来事と言えば、昨年十月、高杉に跡継ぎとなる男児が生まれたことだろうか。梅之進と名付けられたその赤ん坊は、萩の母親のもとで、すくすくと育っているらしい。

「やっと戦も終わったんだ。ちょっとは顔を見に行ってやりなよ。俺みたいに、会いに行けない訳じゃないんだから」

「え、所先生、子供さんいるんですか? ……というか、そもそも奥さんいたんですか」

 草月が目を丸くする。

「そんなに驚くことか? いるよ、妻も子供も。娘は三歳になる。三年前に娶ってすぐに故郷の美濃を離れたから、それ以来、会ってないけどな」

「そんな、じゃあ、娘さんの顔を見たことないんですか? 一度も?」

「そうなるな。美濃まで、そう気軽に行ける距離じゃなし、第一、国事に奔走してる俺は故郷じゃお尋ね者だ。会いに行けば、かえって家族の迷惑になる」

 草月の顔を見た所は、言葉を切って、ふっと微笑んだ。いつもの皮肉な笑みではなく、暖かな笑みだった。

「なんで俺よりお嬢さんの方が辛そうな顔してるんだよ。――いいんだ。町医者の道を捨てて、国の大事に命をかけると決めた時から、己の幸せなんて求めちゃいない。妻には悪いと思ってるけどな。こんな男のもとに嫁入りしたばかりに、苦労かけて」

 所は一息に酒をあおった。

「そういうわけだ、高杉さん。大事な家族には会える時に会っておかないと、後で後悔するぜ」

「医者からの忠告なら、聞かぬわけにはいかんな」

 高杉はちょっと笑って、珍しく素直に頷いた。そして、おもむろに、用意して来た三味線を手に取って弾き始めた。明るい三味線の音色が静かな座敷に満ちる。

「今日は湿っぽいのはなしじゃ。死んだ奴らの分まで飲んで騒ごう」

「よし、なら、俺が一世一代の裸踊りをご披露します!」

「おう、やれ、弥二!」

「裸踊りなら、わしも負けんぞ」

 品川に続いて、白井までが色黒の巨体を躍らせる。

 井上が楽しげに調子はずれの歌を響かせる。

 堀が、料理の彩に添えられていた葉っぱを使って、器用に草笛を吹いている。

 所が箸で茶碗や器を叩いて拍子をとる。

 品川に強引に着物を剥がされた山田が、半ばやけくそになってふんどし一丁で踊っている。

(ああ、いいな、こういうの)

 見ている草月もまた、体がうずうずしてくる。えいやと立ち上がった草月を見て、品川が、「おっ?」という顔をする。

「いいねえ! お前もやるか、草月?」

「私が女だってことお忘れなく!」

 ぽんぽんと気の合った軽口を交わして、草月はひらりと扇子を開く。音曲に身をゆだねると、自然と体が動いた。

 右へ、左へ。

 くるくると蝶のように扇子がひらめく。

「よっ! さすがは京で鳴らした芸妓! 日本一!」

 冗談めいた所の掛け声に、幾松仕込みの流し目で応え(られたかどうかは定かではない)、草月は皆と一緒にただ夢中で踊った。


                  *


 宴に興じるうち、いつしかすっかり夜も更け、とろとろと心地よい眠気が訪れる。船を漕ぎ出した草月に気付いて、所がそっと声をかけた。

「お嬢さん、そろそろ自分の部屋に戻って寝た方がいい」

「はい……」

 おやすみなさい、と挨拶して、草月は向かいの部屋に敷かれた布団にもぐりこんだ。

 まぶたを閉じると、すとんと眠りに落ちた。

 一人になると蘇る耳の奥に残って消えない銃声も恐怖も、この夜ばかりは草月の眠りを妨げはしなかった。



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