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花信風  作者: つま先カラス
第二章 長州内乱
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第20話 月下の進軍

 元治元年十二月十五日。

 朝から降り続いていた雪は夜になってようやく止んだ。一面雪に覆われた功山寺の山門前には、高杉の呼びかけに応じた遊撃隊、力士隊、そして単身馳せ参じた村塾出身の佐世八十郎、合わせて八十四人が整然と並び、出陣の時を待っている。

 高杉は一人、五卿に別れの挨拶をするため、山門を潜り、境内へ続く石段を登っていた。その行く手を遮るように、大田市之進が横合いの林から進み出た。手には酒瓶と大杯を持っている。

「たとえ意見は違えど、この国を思う気持ちは同じ。各々信じた道を行こう」

「……相変わらず、堅苦しい奴じゃ」

 にやりと笑った高杉は静かに大田と別杯を交わし、後は一度も振り返ることなく石段の向こうへと消えた。


                  *


(……高杉さん、遅いな)

 長時間雪の上に立ったままで感覚もないほど冷え切った足先をそっと動かす。

 草月は馬関戦争の時と同じく、補給隊として弾薬、兵糧などを積んだ荷車の脇に控えていた。

 隊費不足により、日々の食事にも事欠く有様だったため、兵糧の確保は一苦労だった。周辺の村人に頭を下げ、着物や僅かな手回り品と交換に、米や味噌、塩などの食料を分けてもらったが、それでも総勢八十四人の隊士の二日分にもならなかった。

 きゅるるるる……、と腹の虫が鳴く。

(……もう! こんなんじゃ、山田くんたちに笑われるな。絶対に勝つって約束したのに)

 御楯隊の品川と山田がこっそり江雪庵の草月を訪ねて来たのは昨夜遅くのことだ。二人を前に、草月はいつになく改まって切り出した。

「……あの、品川さん、山田くん。ちゃんと言えてなかったけど、これまで本当に――」

「聞かんぞ俺は。別れの言葉なんぞ」

 品川が怒ったような顔で草月の言葉を遮った。品川も山田も、京を脱出するために頭を剃って坊主に化けたため、今は一寸ほど伸びた短い髪をさらさらと風に揺らしている。

「俺も言う気はない。俺たちは絶対にまた会える。高杉さんにもそう言った。……死ぬなよ、草月」

 品川に続いて山田も言う。

「ええか、初戦が肝心じゃ。初戦に勝てば、勢いに乗る。風向きも変わる。そうすれば諸隊も必ず動く。俺が大田を説得してみせる。じゃけえ、必ず勝て!」

 二人の真っ直ぐな言葉が嬉しい。涙が出るほどに。

「……うん。きっと勝ってまた会おう。話したいことがいっぱいあるの。落ち着いたら、前みたいに、みんなで集まって、お酒飲んで、わいわい騒ごう」

 約束、と小指を出したら、武士なら金打きんちょうじゃろう、と言われた。

「私、これしか持ってないんだけど……」

 懐から短筒を取り出すと、山田が可笑しみを堪えるような顔で言った。

「いいんじゃないか。お前らしくて」

 品川、山田の差し出した刀の鍔に銃身を打ち付ける。

 かちん、と澄んだ音がした。

 耳の奥に今も残るその音の余韻を反復しながら無意識に腰の短筒に触れていた手を離し、着物の襟を掻き合わせる。今日も草月は高杉たちにもらったあの着物を着てきた。もちろん、それだけでは寒いので、その上から綿を入れた着物を重ね、鎧代わりの胴着を着け、首には布を巻き付けている。だが、僅かな隙間から冷気が容赦なく入り込んできて、まるで全身が氷の膜に包まれているかのようだ。

 左の肩口に縫い付けた袖印が風にぱたぱたと揺れた。

『長藩遊撃隊 草月』

 そう書きつけた時の誇らしさ。

 気を引き締めなおして、前を向く。

 隊列の先頭では、隊長の石川と参謀の所が会話を交わしている。行軍の道順について細かな確認をした後、石川は石段の上を振り仰いで、わずかに目を眇めた。

「……それにしても、高杉の奴、遅いな。三条公らに引き留められでもしているのかもしれん。誰かに様子を見に行かせるか」

「――石川隊長! そのお役目、私にやらせてください!」

 男たちの後ろで精一杯右手を高く上げた草月を認めて、石川がよし、と頷いた。

「草月か。行ってこい」

「あ、俺も一緒に行くよ」

 気安く伊藤が言って、二人で石段を登っていく。半ばまで駆け上がったところで、高らかな声が辺りに響き渡った。


「――これより、長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す!」


 はっとして顔を上げると、石段の最上段に颯爽と現れた人影がある。

 折しも雲が切れ、冴え冴えとした青白い満月の光がその背を照らし出す。

 銀世界に鮮やかに映える紺糸威の鎧。短い髪を盛大に風に遊ばせ、鷹のような鋭い眼がきらりと光る。

 その様はまるで一幅の絵のようで――。

「何を呆けちょる」

 息をするのも忘れて見入っていた草月の頭上に、からかうような声が降ってくる。

「筋は通した。行くぞ」

 石段を下りた高杉は用意していた馬にひらりとまたがると、大音声で下知した。


「――出陣!」


                 *


 満月が照らす雪道を踏みしめ、八十四名の隊列が進んでいく。狙うは馬関会所。萩政府の出先機関だ。

 馬関は交易の要、ひいては長州の経済の要である。ここを押さえれば、萩政府にとって相当の痛手になるのは必定だ。

 馬に乗った高杉を先頭に、遊撃隊の隊士、荷車、野砲が続き、殿しんがりを伊藤の力士隊が務める。一行は人目の多い市街地を避け、峠越えの道を選択した。そのため荷車などの移動にいささか手間取ったが、おかげで役人に見咎められることもなく、無事に馬関へと入った。

 夜明けにはわずかに早い。

 不穏な気配など露も知らずに馬関の町はひっそりと静まり返っていた。満月の明かりを頼りに、勝手知ったる馬関の町を粛々と進み、速やかに会所を取り囲む。

 高杉の合図で、狙撃部隊が一斉に空鉄砲を撃ち鳴らした。

 轟音が町に木霊する。

「――何事じゃ!?」

「敵襲――! 敵襲じゃ――!」

 会所に詰めていた役人たちは算を乱して大小刀も持たずに逃げ去った。それきり、引き返して来る様子もない。

 驚くほどあっさりと、会所は決起隊の手に落ちた。

 激しい戦闘を覚悟していた草月ら隊士たちは、肩透かしを食らったような気分で、握りしめた武器を手に思わず顔を見合わせた。

 ともあれ、初戦は勝利だ。決起隊は会所から北へ少し行った所にある了円寺という寺に陣を構えた。

 翌日、高杉は隊の中から決死隊を募ると――伊藤、所、石川ら十八人が名乗りを上げた――、三艘の小舟に分乗して三田尻へ向かい、停泊していた癸亥丸・丙辰丸・庚申丸の船長に「長州の正義回復に賛同なら馬関へ来て欲しい」と呼びかけた。

 一方、馬関に残った草月たちは、周囲に決起の意図を知らせるため、木戸にその趣意を記した高札を掲げ、馬関市中から決起に加わる有志を募った。数日のうちに多くの町人が参加を表明し、その数は百数十に膨れ上がった。

 あっという間に手狭になった了円寺で草月らが対応に追われていると、新たに隊を訪ねて来た者がいる。

「一太郎さん、おさんちゃん!」

「お久しぶりです、草月さん」

 『一二三屋』の兄妹が、荷車一杯の荷を背に、にこりと笑って頭を下げた。

「二郎丸から、食料が足りないって連絡もらったもんじゃけえ、ありったけかき集めて持ってきました」

「ありがとうございます! 本当に助かります! 隊の人数は増える一方なのに、お金も食料もなくて、正直、困ってたんです」

 当初、会所の蔵にある武器や食料を当てにしていたのだが、ある程度襲撃を予期してか、蔵の中身は萩に移されて空っぽだった。

「二郎丸は良くやっちょりますか? 私も家長でさえなければ、すぐさま決起隊に参加するところなのですが……」

「兄さんたら、うちも参加したいって言ったら、『おなごは戦に関わるな』の一点張りなのよ! 草月さんだって、おなごだてらに立派に戦ってるっていうのに!」

 おさんは、つんと兄を睨みつける。

「まあまあ、おさんちゃん。武器を持って戦うだけが戦じゃないよ。こうして食料を届けてくれることだって、大事なことだよ。だって、腹が減っては戦は出来ぬって言うじゃない? 私、今度のことでつくづく実感してるもの」

 草月の言い方が真に迫っていたため、おさんはようやく腹の虫をおさめた。そして、まかないなら、うちにだって務まるわよね? と自信たっぷりに言ったのだった。


                 *


 草月らが食料のやりくりに手を焼いている頃、萩から悲報がもたらされた。正義派の七人が、野山獄に捕らえられ、その翌日に斬首されたのだ。七人の中には、楢崎や大和、長嶺、そして山田の叔父も含まれていた。

 それは、高杉らの決起直後の十二月十九日のことであった。

 散々泣いて真っ赤に目を腫らした草月が、二十六日に癸亥丸に乗って戻って来た高杉にそれを伝えると、彼は一刻ほど部屋に籠って出てこなかった。

 翌日、高杉は山口の吉富藤兵衛に軍資金用立てを求める手紙を書き、万が一吉富が断るようなら彼を殺して自らも死ねと厳命して使者を送り出した。

 吉富はすぐさまあるだけの金を都合して協力を約束し、近隣の領民にも決起軍への参加を呼びかけた。この頃、萩政府からは諸隊への協力を厳禁する触れが出されている。これを破ることは命がけであったが、しかし、領民はむしろ積極的に諸隊を支援した。

 続いて高杉は膨れ上がった隊士を整理し、本陣を関門海峡を望む光明寺へ、残りをその近くにある東光寺へと分営した。

 光明寺はかつて、久坂が攘夷を行った際に屯所とした寺である。

 草月は大晦日の除夜の鐘を、光明寺の堂宇で大勢の隊士たちとすし詰めになりながら聞いた。

 怒涛の元治元年が終わる。

 悲しみと怒りに彩られた一年が。

 来年はどんな一年になるのだろう。

 明日、自分が生きていられるかどうかすら分からないこの状況の中で、それはあまりにも迂遠な問だった。


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