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花信風  作者: つま先カラス
第二章 長州内乱
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第19話 高杉、起つ

 井上のことがあっただけに、草月の頭に真っ先に浮かんだのは、俗論党の凶刃が麻田にも及んだのかということだった。

 だが、そうではなかった。

 麻田はどこからか短刀を手に入れ、家人の目が離れたわずかな隙を突いて庭に下り、自らの首を掻き切ったのだ。

 長州を今の苦境に追い込んだ不明を恥じての、覚悟の自死だった。

 異変に気付いた家人が駆け付けた時にはまだ意識があり、何か言おうとしたものの、喉がごぼごぼと鳴るだけで言葉にならず、そのまま息を引き取った。

 草月と吉富が駆け付けた時はまだぬくもりがその体に残っていた。

 それから数日の記憶は曖昧だ。

 麻田の亡骸を前にひどく取り乱したことはおぼろげに覚えている。気が付けば通夜も終わり、所や吉富と共に葬儀の末列に並んでいた。

 麻田は生前、息子の公平に『幕軍が攻めて来たら死霊と化しても戦うから、遺体は街道の傍らに埋めるように』と言い遺していた。そこで亡骸は遺言通り山口南郊に埋められた。

 思い出されるのは、初めて会った時から変わらぬ、気さくで、茶目っ気たっぷりの麻田の姿だ。草月の不審極まりない出自をまるで気にも留めず、本当の身内のように、いつも親しげに接してくれた。

 さんざん泣いて、もうこれ以上涙は出ないだろうと思うほど泣いたのに、あとからあとから涙が溢れてくる。

 望月を失い、久坂を失い、来島、寺島、有吉、そして今度は麻田――。

(いつまで続くの、こんなことが。お願い、もう誰も死なないで)


                  *


 『武備恭順』を唱える正義派は正念場を迎えていた。

 正義派の重鎮であった麻田の死、そしてその急先鋒である井上の暗殺未遂。さらには正義派唯一の家老・清水清太郎が辞表を提出して閉居したことで、正義派の勢いは急坂を転がるようにみるみる衰えていった。

 楢崎・大和・長嶺ら正義派の重役は次々に罷免・辞職に追いやられ、先の京の戦で参謀を務めた四士もまた捕らえられて野山獄へ投獄された。

 そして、政権を握った俗論党により、藩主父子の帰萩、山口にある政務機関を全て萩に戻すことが決定した。

 諸隊とて、この事態を黙って見ていたわけではない。

 十月半ばに出された諸隊解散命令にも従わず、三田尻・徳地に屯集し、互いに連携を深めて事態の打開に向けた策を練った。だが、解散命令に従わなかったことで藩からの扶持は止まり、隊士たちの生活は非常に苦しいものになっていた。日におにぎり一つ腹に入れば良いほうで、何も食べるものがない日は水を飲んで空腹を紛らわせるような有様。ひもじさに耐えかねて隊を離れる者も出始め、このままでは近いうちに瓦解すると判断した諸隊幹部は、諸隊を山口に移し、五卿を奉じて団結して『武備恭順』を貫こうとはかった。

「萩では、京の戦に参じた御家老の益田様、国司様、福原様が切腹、それから参謀の宍戸様たち四人が斬首に処せられたそうだ」

「いくら周りを十五万の幕兵に囲まれているからとはいえ、幕府の言いなりにそのような暴挙に及ぶとは……!」

「それだけではない。幕府の征長総督府は、御両殿様の謝罪・蟄居や、五卿の方々を九州へお移しすることまで要求してきているらしい」

「君公の謝罪文に、謹慎だと? それでは君公に罪があると認めるようなものではないか」

「その通りじゃ! そんなことをしては、御家老様たちの死が無駄になってしまう」

「ここで幕府に屈して君公が謝罪してしまえば、長州は骨抜きにされる。たとえ家名は残っても、実質は幕府の傀儡じゃ。それだけは絶対にならん!」

「そのためにも五卿は手放せぬ。あの方々を失えば、この事態を変える手立ては万に一つも無くなるぞ」

「……となれば、この山口では守るに難い。ここは長府侯を頼り、『武備恭順』の国是を確立すべきだ」

 こうして奇兵隊や遊撃隊をはじめとする諸隊七百五十余名と五卿は、十一月十五日、山口から長府へと転陣し、各地の寺院を屯所に充てた。

 度重なる移動からくる疲労や隊費欠乏による食料不足、厳しさを増す寒さ、そして先の見えない状況への不安などで、隊士たちの士気はなかなか上がらなかった。

 草月もまた、遊撃隊の一隊士として従軍しながらも、内心の不安を隠せないでいた。

(高杉さんはどうしてるんだろう。高杉さんと話したい)

 いつものあの不遜な表情で、大丈夫だと言ってもらいたかった。そうすれば、きっとそう信じられるのに。

 空きっ腹を抱え、かじかむ手をこすり合わせて外へ出た。

 身を切るような冷気が体を包む。

 五卿の居所に充てられたのは、霊鷲山の麓に広大な敷地を有する古刹・功山寺。草月たち遊撃隊は、その傍の林にひっそりと佇む小さな寺――江雪庵――に落ち着いていた。

 冬枯れの木々の間から透けて見える空は、諸隊の状況を反映したような暗い鉛色の雲に覆われ、今にも雪が降り出しそうな気配がする。

 横浜から戻り、今は馬関にいる伊藤からの情報によると、高杉は萩の役人による捕縛を間一髪逃れて馬関から九州の筑前へと渡り、俗論党追放の協力を取り付けようとしているらしい。瀕死の重傷を負った井上は驚異の回復力を見せ――襲撃の三日目には「水をくれ」と言えるほどになっていた――、容態の落ち着いた現在は兄一家のもとで静養中とのことだ。

(……そういえば、私、井上さんに酷い暴言吐いちゃったんだっけ。今度会ったら思いっきり嫌み言われそうだなあ……。また会えれば、の話だけど)

 ふわり、と白いものが視界を横切った。

(あ――)

 ひとつ、ふたつと舞い降りれ来たそれはやがて瞬く間に数を増して草月の視界を白く彩った。

「初雪――」

 高杉が九州から戻り、長府へとやって来たのは、それから半月あまり経った十二月十二日のことである。


                   *


「――挙兵せよ、だと!?」

「そうじゃ」

 諸隊幹部が集まった功山寺の一室において。傲然と高杉の放った言葉に、一座はどよめいた。

「九州の諸侯は頼みにならん。他藩に助けを求めたのがそもそもの間違いじゃった。長州のことは長州でやるしかない。じゃが、五卿を手放しては、もはや正義派回復の機はない。俗論党の連中に討伐されて終いじゃ」

「いや、それはない!」

 異を唱えたのは御楯隊の隊長・大田市之進だ。

「五卿の方々は征長軍解体を条件に九州へ渡ることをすでにご承知だ。それに、俗論党とも、五卿を渡せば捕らえている正義派諸士や諸隊に危害は加えぬと話がついている。征長軍が間近に迫っている今、内輪もめをしている時ではない。長州一丸となってこの難局を乗り切ることこそ肝要なのだ」

「そんなものは所詮一時しのぎに過ぎん! 俗論党が政権を握ったままでは、もはやこの先幕府に対抗することなど望めん。ことは長州だけの問題ではない。日本国全体に関わる問題なんじゃ!」

 だが、高杉がいくら熱弁をふるっても、呼びかけに応じたのは、遊撃隊の石川小五郎のみであった。いっこうに腰を上げようとしない他の者らの態度が腹に据えかねて、高杉はついに激高した。

「もう良い! 所詮はわが身が惜しいか、この大卑怯者たちめ! 諸君らには失望した。僕は真の毛利家恩顧の家臣じゃ。たとえ僕一人であっても、この国のため、忠義を尽くす!」

「卑怯者呼ばわりとは聞き捨てならんぞ、高杉!」

 血相を変えた大田が刀の柄に手をかけたため、石川が慌てて高杉を外へ連れ出した。

「その気のない者たちなど、捨て置けばよい。高杉、我らだけでも、長州、ひいては日本国への勤めを果たそう。心配せずとも、遊撃隊の隊士たちは俺がやると言えばついてくる気概のある奴らばかりじゃ」

「よし、やろう! ……じゃが、その前に、もう一人、声をかけておきたい奴がいる」

「ほう、誰だ?」

「馬関にいる伊藤俊輔じゃ。それと、道中の供に、隊士を一人借り受けたい」


                   *


 石川に呼び出された草月は、突然の展開に面食らいながらも、高杉と共に馬関へと向かった。雪こそ降っていないものの、強い北風が容赦なく吹きつけてくるせいで、実際よりも数段寒く感じる。

「急ぐぞ。日暮れまでには着きたい」

「はい!」

 霊鷲山の山裾に沿って、街道を南東へずんずんと進んでいく。早足で先を行く高杉を必死に追いかけながら、草月の心はまた揺れていた。

 ついに高杉が動く。

 それはずっと願っていたことだった。

 だがそれは、諸隊と俗論党との間に交わされた約定を破ることだった。萩に留まっている楢崎や大和、長嶺たちの身に危険が及ぶことだった。

 それだけではない。

 長州の地を、そこに住む人々を、幕府との戦乱に巻き込むということだ。

(決めたのに……。幕府の言うなりにはならないって。なのに、また誰か死んでしまうかもしれないと思ったら、怖くて前に進めない)

 知らず知らずに足が止まっていた草月を、振り返った高杉が急かした。

「おい、何しちょる。早く来い」

「高杉さん、本当に俗論党に戦を仕掛けるんですか」

 この質問は酷だと分かっていて、でも聞かずにはいられなかった。

「戦になれば、たくさんの犠牲が出ます。楢崎さんたちだってどうなるか……」

「やる」

 高杉はきっぱり言い切った。

「たとえ失敗に終わって世の誹りを受けようとも、僕はこれが必要な道じゃと信じる」

 強い風が二人の髪をばさばさと乱す。

 高杉の瞳は強い決意を宿し揺らがなかった。

(――覚悟を決めてるんだ、高杉さんは。戦いを挑むことで起こる全てのことに。……だったら、私も共に背負おう。だって決めたんだもの。きっと、ホントはもうとっくに。高杉さんについていこうって)

 その後は二人とも無言で馬関への道を急いだ。

 日没と共に馬関へ入り、越荷方の役所にいる伊藤を『一二三屋』に呼び出した。決起を呼びかけると、伊藤は目を輝かせ、「やりましょう!」と一も二もなく賛成した。

「俺たち力士隊三十人、高杉さんに命を預けます!」

 力士隊の隊士は、御楯隊に預けてあるから、越荷方の仕事を片付けたらすぐに隊士を招集して合流します、と言った。

 あまりにあっさりしていて、こちらが拍子抜けするほどだった。だが、これで遊撃隊と力士隊を合わせて総勢八十人となった。意気揚々と出て行く伊藤を見送って、草月はほっとして高杉に目を向けた。

「良かったですね、高杉さん。伊藤さんが賛成してくれて。……そうだ、出発まで少し時間ありますか? 最後になるかもしれないから、幾松さんに挨拶しておきたいんですけど」

 だが、返って来たのは思いもよらない言葉だった。

「長府へは僕だけで行く。おのしはここに残れ」

「……え?」

 草月は虚を突かれて目をしばたいた。高杉はこちらに顔を向けぬまま続ける。

「おのしを連れて来たのはそのためじゃ。幾松のところにいろ。とりあえずは安全じゃ」

「そんな……。どうしてですか!? 戦は初めてじゃありません。私だって戦えます。訓練して、ゲベール銃だって撃てるようになりました!」

「危険すぎる。この先どう転ぶか分からんのじゃ。おのしが長州のことにこれ以上関わることはない。何かあれば、白石正一郎という商人を頼れ。僕の名前を出せば、何とかしてくれる」

 こちらの言い分も聞かずに一方的に話をまとめようとする。草月は苛立って声を荒げた。

「危険は承知です。高杉さんこそ、戦の何を知っているんですか!? 私や久坂さんたちが京で必死に戦っていた時に、一人牢屋にいたくせに――!」

 部屋の空気が凍り付いた。

 草月ははっとして口をふさいだが、出てしまった言葉は取り消せない。

「ごめんなさい、私――」

「……いや、おのしが言ったのは本当のことじゃ」

 謝罪の言葉を遮るように、高杉は自嘲気味に笑った。

「僕はいつも肝心な時にいない。松陰先生が処刑された時も、京で久坂たちが戦っている時も、僕だけがそこにいなかった」

(……高杉さん、本当は一緒に戦いたかったんだ)

 一人、牢の中で友の安否を気遣うことしかできなかった高杉の心中はいかばかりだったろうか。

(私、一番酷いこと言っちゃったんだ)

 草月は高杉に膝が触れそうなほどにじり寄った。

「……あの、こうは考えられませんか。京にいなかったのは、今ここで戦うためだったんだって。高杉さんならきっと長州を託せると思ったから、だから久坂さんは高杉さんに『頼む』と言ったんです」

「……どうしておのしはそこまで長州に尽くしてくれるんじゃ」

 ようやく高杉が草月の方を向いた。その目は寄る辺ない子供のようで、まるで泣きそうな表情にも見えた。

「ずっと考えちょった。三年前のあの日、僕が異人を斬ろうと考えなければ、おのしはあのまま『たつみ屋』で平穏に暮らしちょったはずじゃ。それを、僕のせいで血なまぐさい長州の政争に巻き込んでしまった」

「――今まで、そんなふうに思ってたんですか?」

 初めて聞く高杉の本音。

 草月は強く首を振った。

「それは違います! 確かに、始まりはそうだったかもしれない。でも今は、私の、私自身の意思でここにいるんです。……楽しかったです。高杉さんや、久坂さんや、伊藤さん……。みんなと一緒にいられて。そりゃあ、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、いっぱいあったけど、たつみ屋にいたままじゃ、きっと、こんな気持ち、一生知らないままでした。命をかけてでも何かをしたいなんて思うこと、なかった。……私は弱いから、絶対後悔しないなんて格好いいこと言えません。でも、これだけは言えます。私、高杉さんに会えて良かった――」

 不意に体が前に倒れ込んで、温かな吐息が首筋にかかった。

 抱き締められている、と感じた瞬間、一気に頬に血が上る。

 ため息と共にこぼれた声が耳朶に届いた。

「馬鹿じゃの。普通のおなごは、そんなこと言わんぞ」

「……普通じゃないですから、私」

 草月はそっと高杉の背に自らの手を回した。

「高杉さん、私……」

「うん?」

「私、絶対に一緒に戦いますからね。止めても無駄ですよ」

「……おのしは……」

 高杉は脱力したように、ぼすんと頭を草月の肩に乗せた。

「こういう時はもっと色気のあることを言え」



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