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花信風  作者: つま先カラス
第二章 長州内乱
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第18話 巨星堕つ

 山口滞在中、草月は吉富藤兵衛の強い勧めで、吉富家の母屋の一室に泊まらせてもらうことになった。

 後で吉富本人から聞いたことだが、これは単なる親切心からだけではなく、もう一つ大きな理由があった。

 麻田はしばらく前からずっと気塞ぎで、目を離すと自害してしまいそうな危うさがあり、そのために萩から妻子が出て来て、早まったことをしないように見張っているのだという。草月に逗留を勧めたのも、その役割を期待してのことだった。その意を受け、草月はできるだけ麻田のそばにいるようにしていた。人と話しているときは努めて元気そうに見せている麻田だったが、ふとした瞬間に物憂げな表情を見せることがある。

(……私に、何かできることがあればいいんだけど)


                 *


「ほう。西洋料理、ですか」

「はい」

 昼を少し回った頃。草月はある計画を胸に、吉富の部屋を訪れた。

「麻田さん、最近あまり食欲がないみたいですけど、西洋料理なら、珍しがって少しは食べてくれるんじゃないかと思って」

 食材はこちらで用意するので、調理場を貸して欲しい。そう言うと、吉富は快く応じてくれた。

 高杉や楢崎たちにも声をかけて、その夜、再び吉富の屋敷に一同が集まる。

 草月が作ったのは、豆腐に細かく刻んだ鶏肉と蓮根を練り込み――蓮根を具材に入れたのは、『先の見通しが良くなるように』との縁起をかついでのことだ――、大根おろしと醤油で食べる和風ハンバーグ。そして、かりっと焼いた鯖と茄子を酢に漬け込んだマリネだ。

 もの珍しさもあってかおおむね好評で、麻田も、あまり量は食べられないながらも「美味い美味い」と喜んでくれた。

「日本にいながら西洋料理が味わえるとは思わなかったよ。君が異国のことに詳しいのは知っていたけど、まさか料理の知識まであるとはね」

「もともとのハンバーグは、豆腐じゃなくて、豚や牛の肉を細かくしたものを練って作るんです。だからこれは、正確には西洋料理もどき、なんですけど」

 草月は、少し前に伊藤と一緒にイギリス人のサトウとベアトを西洋料理でもてなしたことを話し、

「それ以来、お店の人たちと一緒に西洋料理の研究をしてるんです。肉とか調味料とか、日本じゃ手に入らない食材も多いんですけど、どうにか日本の食材に置き換えたりして……。ゆくゆくは店でお客さんに出せるようにしようって、いつも話してるんです」

「郁太郎から聞いたぞ」

 高杉が妙に楽しそうに、

「遊撃隊の隊士に、味見しろと迫っては嫌がられちょるんじゃろう?」

「べ、別に迫ってはないですよ! そりゃあ、確かに西洋料理って聞いて嫌がる人もいますけど、でも、最近は、次はどんなの作るんだって期待してくれてる人もいるんですから!」

「まあまあ。俺としては、料理だけでも西洋気分が味わえて、嬉しい限りだよ。俺たち、洋行しようとして結局果たせないままだもんな」

 長嶺の言葉に大和は大きく頷き、

「そうじゃなあ。この中で実際に洋行したのは、聞多だけじゃけえなあ」

「今のごたごたが落ち着いたら、諸兄も行くと良い。イギリスはすごいぞ。技術も学問も何もかもが進んじょる。わしも連合艦隊のことがなければ、もっとあっちで学びたかったんじゃが」

 井上がかすかに残念な様子を滲ませる。

「和議を結んだことで、これからは外国船が馬関に寄港するようになるんだろう。たとえ洋行できなくても、異国の知識がどんどん入ってくるようになるさ」

 楢崎が、相変わらず表情の変わらない淡々とした口調で言った。皿の上の料理は綺麗になくなっている。

 草月は楢崎の言葉をかみしめるように、ゆっくりと両手で湯呑を包み込んだ。陶器を通して、ほのかな温もりが伝わってくる。

「……でも、久坂さんが外国船を砲撃しなかったら、こんなふうに外国と関係を持つことにはならなかったんですよね。……久坂さんの目指していた方向とは違っているかもしれないけど、私は、このまま、外国といい関係が築けたら嬉しいです」

「『草莽攘夷』再び、じゃな」

 にやりとして高杉が言った。

 草月は目を見開き、次いでふわりと花が咲いたように微笑んだ。

「……はい!」


                    *


 麻田のもとには日々、政事堂の会議の様子や俗論党の動きといった情報が集まってくる。それらを逐一馬関の遊撃隊に書き送りながら草月が感じていたのは、俗論党の勢いがどんどん増していっている、ということだった。

 麻田は病を押してこの難局に当たり、どうにか藩是を確定せんとしたが、周旋を頼んだ岩国藩主は容易に事の成し難きを察して帰国を願うなど、藩政府の動揺は大きくなるばかりだ。

 高杉はこの状況に早々に見切りをつけ、辞職願を出して萩に引っ込み、ただ井上一人が強固に武備恭順を唱えて踏みとどまっているような状況だった。

 所が馬関での仕事を終えて山口へやって来たのはそんな時だ。元々、所が戻るまで、という約束だったから、草月の山口滞在もこれで終わりだ。長州の藩是がどうなるのか、気になるところではあったが、仕方がない。

 所の借りている町屋の一室で、互いの情報交換をしているうち、いつしかとっぷりと日も暮れていた。

 送って行こう、と所が立ち上がった時だった。

 血相を変えた吉富が飛び込んできた。

「藤兵衛さん? どうした――」

「い、井上様が……!」


                        *


 井上が政事堂からの帰り、刺客に襲われて虫の息だ――。


 吉富の言を受けた所と草月は、とるのもとりあえず、井上が運び込まれたという兄一家の住まいへと駆け付けた。布団の上に寝かされた井上は、全身血と泥にまみれ、息をすることさえ苦しそうにあえいでいた。

 そばで手を握っている初老の女性は母親のふさ、隣で沈痛な面持ちをしている男性は兄の五郎三郎だろう。

 所がすぐさま井上に駆け寄り、素早く患部を診る。複数の刺客にやられたのか、頬や、背中、胸など計六か所を斬られている。特に背中の傷がひどい。

「あまりに傷が深く、私どもの力ではどうしようもなく……」

 先に駆け付けていた医者の長野昌英と日野宗春が悄然として言った。所もまた、ぎりりと奥歯を噛みしめる。

 井上は意識が朦朧としているのか視線が定まらない。何か言おうとして言葉にならず、震える腕で己の首を斬る仕草をした。

 ――介錯を。

 兄の五郎三郎が、黙って刀を抜く。それを見た母親が井上の体に覆いかぶさった。

「何をしているのです! この子はまだ生きているのですよ。血を分けた兄弟をその手にかけようなど、母は決して許しません! どうしてもと言うのなら、この母を殺してからにしなさい!」

 母親の剣幕に、五郎三郎は刀を収めた。

 所は決心したように表情を引き締めると、井上の耳に口を寄せた。

「井上さん、聞こえるか。御母堂が身を挺してあんたを守ってるんだ。ここで死んだら、あんたとんだ親不孝者だぜ。俺がとにかく手を尽くすから、あんたも気弱なこと考えないで、少しでも長く生きられるよう踏ん張りな」

 井上が微かに頷いたのを確かめ、所はさっと立ち上がった。下げ緒を解いて手早くたすき掛けにしながら、てきぱきと指示を飛ばす。

「とにかく傷口を縫い合わせるしかない。御母堂、針と糸、それから清潔な布をありったけ持ってきてください。五郎三郎さんは焼酎を。藤兵衛さんは蝋燭を出来るだけたくさん頼みます。行灯の明かり程度では暗すぎる。――お嬢さんは傷を洗うための水を用意してくれ。長野さん、日野さん、手伝いをお願いします」

 そうして、大手術が始まった。

 麻酔なしに肌に針を刺されるというあまりの痛みに泣き叫んで暴れる井上を五郎三郎と吉富が押さえつけ、薄めた焼酎で洗った傷口を所が次々と縫っていく。

 縫った端から日野が膏薬をぬり、包帯を巻く。

 盥に張った水はすぐに汚れて使えなくなり、草月は何度も土間と病室とを往復した。

 何本も蝋燭を灯した部屋は暑いほどで、所の額には玉の汗いくつも浮かんでいる。

 ひときわ大きなうめき声を上げて井上が暴れた。

「井上さん、痛いのは分かるが堪えてくれ。そう暴れられちゃ、手元が狂って針が刺せない!」

 草月は見ていられなくて、堪らず井上を叱咤した。

「何やってるんですか、井上さん! いつものふてぶてしいほどの元気はどうしたんですか、情けない。聞こえてますか? 大嫌いな私なんかに、こんなふうに言わせたままで良いんですか?」

 井上が血走った眼で草月を睨みつけ、獣のようなうめき声を上げた。舌を噛まぬよう咥えた手ぬぐいのせいで明瞭ではなかったが、確かにこう言った。

「このクソ女……。覚えとけよ……」

 草月はそれに応えて精一杯意地悪く笑ってみせた。

「ええ。後でいくらでも文句を聞いてあげます。だから、お願いですから、頑張ってください」

 手術は明け方近くまでかかった。

 全部で五十針ほど縫い、まるで蓑虫のように全身を包帯で巻かれた井上は、もはや精根尽き果てて気を失っていた。

「今日のところは、ひとまず帰って休みましょう。草月さんも疲れたでしょう」

 寝ずの番で井上の様子を看るという所を残し、草月は吉富と連れ立って屋敷へと帰った。

 しかし、疲労困憊の二人を待っていたのは、あまりにも残酷で衝撃的な知らせだった。



 ――麻田公輔が、死んだのである。


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