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花信風  作者: つま先カラス
第二章 長州内乱
19/84

第17話 しめやかな宴

 山口にいる高杉から、草月に手紙が届いたのは九月も半ばに差しかかった頃のことだった。

 数日後に迫った十九日の仲間の命日に、皆で集まってその死を偲ぼうと言うのだ。

(――行きたい。でも……)

 ここから山口まではおよそ十二里余り。往復で四日はかかる距離だ。

(隊務があるのに、私用でそんなに長く休みをもらう訳にはいかないし……)

 折よく役目で馬関に来ていた所に相談すると、所はきっぱり「行ってこい」と言った。

「石川さんには俺から話しといてやる。お嬢さんは久坂さん達と随分親しかっただろう。故人の思い出を語ることは、決して後ろ向きなことじゃない。亡くなった者への供養にもなるし、残された者にとっては気持ちの整理にもなる。俺はこっちで仕事があるから行けないけど、俺の分まで線香をあげてきてくれ。俺も、あの人達には世話になったからな」

「……はい」

 隊長の石川からは、山口の状況を偵察して報告するという条件付きで、山口行きの許可が下りた。ありがたいことに、宿泊費・食事代などの必要経費も隊から支給される。

 夜明け前のひんやりした空気に身を包まれて、草月は馬関を発った。

 澄み切った青空の下、稲刈りも終った田んぼを左右に見ながら細いあぜ道を進み、赤に黄色に紅葉していく木々の美しさに励まされながら険しい山道を抜ける。途中の小さな村で宿を取ったのは一八日のこと。

 翌朝は、前日の秋晴れが嘘のように空は分厚い灰色の雲に覆われ、いつ降り出してもおかしくないような天気であった。

(何とか降ってくる前に山口に着けたらいいんだけど)

 その願いも空しく、やがて細かな霧雨が草月の体をしっとりと濡らした。すっかり冷え切ってしまった体を山口へ運んだのは昼を大きく回った頃。最初に目に付いた宿屋に飛び込み、替えの着物と宿の女中が出してくれた熱いお茶で人心地つく。

 約束の時間にはまだ少しあったが、迷って遅れてはいけないと、早めに出かけることにする。幸いこの頃には雨も止んで、空も明るくなってきていた。

 山口に来るのは三度目だが、以前の二度はどちらも切羽詰まった状況だったため、ろくに町を見て回る余裕もなかった。草月は改めて町を見回した。

 現藩庁の置かれたここ山口は、外国との戦いに備えて選ばれた、四方を山に囲まれた要衝の地である。町を流れる川に沿うように道が作られ、その両側に大小の町屋が整然と並んでいる。追々は萩からこちらに武家屋敷を移してきちんとした城下町を整備する予定らしいが、まだ移転はほとんど進んでおらず、藩士たちは町人の町屋などを借りて生活している。

 高杉が集まりの場所に指定したのは、その中の一つ。政事堂から西に一里ほど行った先にある吉富藤兵衛の屋敷だ。山口でも有数の大庄屋である吉富は勤王家としても知られており、彼の屋敷の離れが麻田公輔の仮住まいとなっている。

 ちなみに井上の実家はここ山口にあるが、今は長州に逃れてきた三条実美にその家を譲っているため、兄一家は近くの医師・野上周伯の家に居候していた。井上自身は、さらに別の家の一間を借り受け、そこで起居している。家が近所であった吉富と井上は年も近く、同じ学び舎で学んだ学友でもあった。

 事前に聞いた情報を反芻しながら、町の地理を確認するように歩いていると、ぽつ、と冷たいものが頬に当たった。かと思うと、たちまち大粒の雨がざあっと降って来る。

「――え!? うそ、もう降らないと思ってたのに!」

 周りの人々に倣って、慌てて近くの民家の軒下に避難する。

(……こんなことなら、宿で傘を借りてくるんだった……)

 恨めし気に見上げた空は、一部雲に覆われた部分を除いて明るい。濡れるのを覚悟で、いったん宿に戻ろうか。それともしばらく待つべきか。

 思案していると、隣に一人の武士が駆け込んできた。

 歳は草月と同じか、少し上。

 まだらに水滴の付いた着物をぱたぱたと手で払っているのを見て、草月は懐から手ぬぐいを取り出して男に差し出した。

「あの、これよかったら」

「――かたじけない」

 男はちょっと驚いた様子を見せたものの、すぐに軽く頭を下げて受け取った。さっと拭いて、手ぬぐいを返してきた男は、そこで初めて草月に思い当たったように凝視する。

「……お主、どこかで見覚えがあると思ったが、以前、井上と共に殿の御前に乱入したおなごじゃな」

 草月はどきりとして男を見返した。

「確か、遊撃隊に所属していると言ったか。懲りもせずに、また殿に武備恭順を迫る上書でも持ってきたのか?」

 苦々しい口調からすると、俗論党――『一意恭順派』――の人物だろうか。

「まったく、お前たちのような身分のない者たちが愚にもつかないことを並べ立てるけえ、長州はこのような窮地に陥ったのだ。それを分からずに、さらに幕府に抗するべしなどと恐れ多くも殿に申し上げるとは、正気の沙汰とは思えん」

「……あの、あなたはどうして幕府と戦わない方がいいと思うんですか?」

「何?」

 まさかそんな質問をされるとは思わなかったらしい。不愉快そうな眉間の皺がさらに深くなった。

「日本を取り巻く状況は、外国からの脅威によって、大きく変わっています。それなのに、今までと何も変わらずただ幕府に従うやり方でいいんでしょうか」

「おなごがいらぬ口を挟むな! お前といい、松下村塾の連中といい、身分の低い者が愚かにも国の政治に口を突っ込むから、このようなことになるんじゃ」

「――久坂たちさんのこと、そんなふうに言わないでください!」

 草月は堪らず言い返した。

「久坂さんたちは、真剣にこの国のことを考えていました。その気持ちに身分は関係ありません。あなたはこのまま唯々諾々と幕府に従うことがこの国のためだと本当に思っているんですか? 仲間を殺されて、悔しくないんですか!?」

「感情で政治は動かせぬ。激情のままに暴走した結果が、あの惨めな京の敗戦ではないか。我ら毛利の臣には、先祖代々受け継いできたこの地と、長州五十万の民の命と生活を守る責務があるんじゃ。勝ち目のない戦はするべきではない」

「でも、それでは今までと何も変わりません。弱腰の幕府にこの国を任せておけないと思ったからこそ、それを変えようと久坂さんたちはやってきたんです」

「そうやってただ詰るだけなら子供にもできる。対案のない批判は批判ではない」

「……確かに、今の私には明確な展望はありません。でも、このまま幕府に従うことが長州のためだとは思えません。――私は悔しい。村塾の人たちだけじゃなく、来島さんや、一緒に戦ってくれた他の藩の人たち……。大切な人たちを殺した幕府が憎い。会津も薩摩も憎い。このまま幕府の言うなりになるなんて御免です。確かに、久坂さんたちは間違ったかもしれません。でも、だからって、その全てを否定するんですか? 外国船を砲撃したことは良くないことでした。そのせいで、長州は存亡の危機にさらされました。でも、それがきっかけで、外国との交流の道が開けました。悪いことばかりじゃありません。危機を好機に変えて、挽回することだってできるんです。ちょっと外国にやられて、幕府に脅されたからって、それで怖がってただ穏便に済ませようとするなんて、そんなの……!」

 ふいに男の目が危険な色を帯びた。

 斬られるかもしれない。

 本気でそう思った。

「……手ぬぐいの礼に、今の暴言は聞かなかったことにしてやる。これ以上は関わらない方が身のためじゃ」

 男は冷ややかに言い捨てると、いつの間にか小降りになった雨の道を早足に去って行った。

 草月は痛いほどに手ぬぐいを握り締めたまま、小さくなる男の背を見続けていた。


                       *


 大庄屋というだけあって、吉富の屋敷は広大な敷地を有する大屋敷であった。表門を潜った先に立派な瓦葺きの母屋があり、奥にある茶室からは綺麗に整えられた枯山水の庭園を眺めることが出来る。

 麻田が暮らしているのは母屋とは別棟にある離れだ。家人に案内され草月が入っていくと、仄かに線香の匂いが漂う部屋の中、麻田が薄く開いた窓の隙間からぼんやりと外を見ていた。以前より体調が思わしくないらしく、政事堂にもほとんど顔を出していないと聞いていたが、実際に見ると思った以上に痩せて顔色が悪い。

「麻田さん」

 遠慮がちに草月が呼びかけると、夢から覚めたようにこちらを向く。

「やあ、いらっしゃい。雨には降られなかったかい」

 言いながら麻田は部屋の東――京の方角だ――に向かって置かれた線香立てを示した。

「まずはあいつらに線香をあげてやってくれ」

「はい」

 草月は線香をあげ、そっと手を合わせる。

 長い間そうしてから、ようやく顔を上げた。

 線香立ての隣に置かれた書状の山に目を留め、その中の一通を手に取った。

「これ、寺島さんの書いたものですか」

 草月は署名の文字を指でゆっくりとなぞった。生真面目な寺島らしい、整然とした真っ直ぐな手蹟だ。

 生死の分からなかった寺島や入江、有吉であったが、先ごろ長州に戻って来た者から、戦死が伝えられていた。鷹司邸を脱出してすぐに会津藩兵と交戦になり、討たれたという。

 その報を聞かされた時、草月は一晩中泣き明かした。大きな体を揺らして豪快に笑う有吉の顔や、常に冷静で博識な寺島の理知的な顔が浮かんでは消えた。天王山の陣で、きっとまた会おうと笑顔で約束して別れたのに。

 今もまた目の奥が熱くなって、草月はぐっと喉の奥に力を込めて堪えた。

「整理しようと思って萩の家から取り寄せたんだが、読み返していたら懐かしくてね。ついつい読みふけってしまった」

 麻田は柔らかなまなざしでそれを見つめた。

「こっちはじい様から来た文だ。思い出すよ、桂と三人、朝まで酒を飲みながら良く語り明かしたもんだ。じい様はすぐ頭に血が上るし、俺も酒癖が悪いから、いつも議論が熱くなり過ぎて、終いに桂が仲裁に入って――」

 ぽろぽろと再び落ちて来た雨粒が屋根瓦を叩いた。

 雨音に混じるように障子の外に人の気配がして、客人の到来を告げた。


                 *


 離れの一室に、麻田、高杉、井上、楢崎、大和、長嶺、そして草月がそろった。簡単な酒と肴が運び込まれ、各々の杯に酒が注がれる。

「皆、忙しい中を良く集まってくれた。まずは献杯しよう。――京で散った友たちに」

 麻田の音頭で、一斉に盃を上げる。

 口に含んだ酒はひどく苦い。

 それぞれが持ち寄った故人ゆかりの品を手に、とりとめなく思い出が語られる。

 久坂や寺島たちが血気盛んな少年だった頃のくすりと笑える失敗談から、松下村塾で机を並べて熱く未来を語り合った頃の話、江戸の吉原へ初めて行った時の興奮。皆で酒を飲み明かして大騒ぎした時の話。藩の方針を巡って、激論を戦わせた夜のこと。

「そういや、草月が江戸の藩邸に来たばかりの頃も、酔ってじい様が大暴れしたことあったろ? ほら、例の『女形おやま事件』」

「――あったなあ、そんなこと! 据わった眼のじい様がいきなり剣舞をやり出すから、見てるこっちはひやひやしたもんじゃ」

 長嶺の言葉に懐かしそうに大和が言えば、麻田が苦笑をもらす。

「俺にも覚えがあるから、耳が痛いな」

「じい様と言えば」

 酒を飲む手を止めて井上が口をはさんだ。

「わしや高杉たちが横浜で異人を斬る計画を立てた時に、策を弄してじい様から軍資金十両をせしめたことがあったんじゃが――」

「――ちょ、そんなことしてたんですか!?」

「昔の話じゃ。……それで、攘夷をしたのがわしらじゃと分かったら、『でかした!』と快哉を叫んだそうじゃぞ」

「来島翁らしい」

 楢崎がふっと口元を和ませた。

「攘夷の筆頭を行くお方だったからな」

「僕はやたらと怒鳴られた覚えが強いがな」

 と、これは高杉。

「……あの日も、じい様の言葉に頭に血が上って長州を飛び出した。それがじい様に会った最後じゃった」

「……私もです。進軍を考え直してくれるよう説得に行って、結局果たせなくて……。ひどい別れ方をしたのが最後になってしまったことが、今でも心残りです」

 あの時、もっと粘り強く説得していたら。

 自分がもっと積極的に動いていたら。

 もしかしたら何か違っていたかもしれないのに。

「あまり強く握ると皺になるぞ」

 無意識に袴を強く握った草月の拳を、隣に座った楢崎がそっと引き剥がした。

「……そういえば、その着物と袴。よく着てるけど、随分と年季が入ってるな」

 長嶺が指摘した草月の着物は、元の濃紺色がすっかり色あせて鼠色になり、ところどころ繕った跡も窺える。

「ああ、これは……」

 草月は着物を愛おし気に撫でた。

「私が江戸の藩邸に来たばかりの頃、高杉さんと久坂さんと伊藤さんがあつらえてくれたものなんです。もうだいぶ生地も薄くなっちゃってるんですけど、どうしても捨てられなくて……。今じゃ、お守りみたいなものでしょうか。ここぞという時に、これを着ると、気が引き締まるんです。京の戦の時も、馬関の戦の時も、これを着てたから生き延びられたんだと思ってます」

 久坂からもらった手紙も何もかも、京の藩邸で燃えてしまったから、形見と呼べるものはこれしか残っていない。

(ううん、それともう一つ……)

 揺らいでいい、悩んでいいと言ってくれたあの言葉。

(正直、今も揺らいでる。またたくさんの犠牲を出すかもしれないのに、あえて幕府と対することを選ぶのか)

雨宿りで一緒になった武士の言葉を思い出す。


『我ら毛利の臣には、先祖代々受け継いできたこの地と、長州五十万の民の命と生活を守る責務がある』


(……でも、私は、久坂さんたちのやって来たことを、何もかもなかったことにしたくない。きっといい方向へ変えていけると信じたい。だから――)

 ――幕府の言うなりにはならない。でも、長州の人たちの犠牲も出さないようにする。

(綺麗ごとかもしれないけど、私はそう決めた)

 草月はにこりと笑ってみせた。

「……そういえば、久坂さん、私のこの格好を初めて見た時、『とてもおなごには見えない』って真顔で言ったんですよ? 本人は真剣に褒めてるつもりだったんでしょうけど、女心としてはけっこう複雑でした」

「あいつはそういう朴念仁なところがあったけえの。京に長くいるうちに随分と洗練されたようじゃが」

「そうなんですよね。久坂さんが端唄を唄うと、『長州の久坂さんが通る!』って、女の人が群がって来たって聞きました」

「それは……、すごいな」

 長嶺がつるりとした顎を撫でながら言った。かく言う長嶺も、『役者のようないい男』だと言われる色白の色男である。

 楽しかった思い出も、辛い思い出も、尽きることなく、次々とあふれた。

 悲しみは決して消えない。けれど、一人で悲しみを抱え込んでいるよりも、こうして思い出を語り合えることが今はありがたかった。

 久坂も、来島も、有吉も寺島も入江も、亡くなった数多くの仲間は皆、亡くなってなお、それぞれの思い出の中に生き生きと息づいている。

 しめやかな宴は深更まで続いた。


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