第16話 本当は
外国艦隊の問題が一応の決着をみたとはいえ、長州を取り巻く状況は依然、厳しい状態にあった。
尊王を唱えていたはずの長州は、今や朝廷の怒りを買って朝敵となり、長州藩主父子は官職停止の憂き目にあった。幕府からは先年の外国船砲撃と京の戦の責を問われ、江戸・京・大坂などに置かれた長州屋敷を没収された。将軍偏諱も剥奪され、藩主慶親は『敬親』、世子定広は『広封』へと名を変えた。
さらに幕府は西国諸藩へ出兵令を出し、長州を四方から囲い込んでいる。
この長州存亡の危機に、麻田は支藩である岩国藩主に長幕間の周旋を依頼して事に当たったが、藩内は麻田ら急進派の唱える『武備恭順』(表向きは恭順の意を示しつつ、裏で武力を蓄えるという考え)と、椋梨藤太ら保守派の唱える『一意恭順』(ひたすらに恭順すべしという考え)の二派が激しく対立して容易に意見の一致をみない。
こうした中、これまで急進派に頭を押さえられてきた保守派が、萩から山口に乗り込んできた八百人の武装家臣団を背景に、今の事態を招いた急進派を激しく非難。麻田ら政府員の更迭を迫るなど、日増しに発言力を増していった。
諸隊もこの事態を指をくわえて見ていたわけではない。政府に対し、諸隊の連名で武備恭順の藩是確定と俗論党排斥(武備恭順派は自分たちを『正義派』と呼び、一意恭順派を『俗論党』と呼んだ)を求める上書を何度も提出している。だが、今のところ梨の礫だ。
遊撃隊の一隊士に過ぎない草月には、そうした山口の状況を人づてに聞くことしかできない。もどかしい思いを抱えつつも、まさか江戸や京の藩邸にいた頃のように、山口の政事堂に押しかけて行くわけにもいかず、今はひたすら隊の訓練に励む日々だ。
だがその甲斐あってか、初めは構えていることさえ覚束なかったゲベール銃の扱いにも少しは慣れて、今や実弾の訓練にも参加している。ただ、実際に撃つことは見た目よりよほど大変だった。発射の際の衝撃が凄まじく、それを抑え込むのに相当の力が必要だからだ。
初めて撃った時は、そのあまりの衝撃に、体が後ろにふっとんで尻餅をつき、弾は哀れ遥か空の彼方へと消えていった。銃底でしたたかに打ち付けた肩は、酷い痣になって、二・三日痛みが取れなかった。
訓練を重ねた今でも、三発も撃てば腕が痺れて、しばらくは銃を持つことすら危うくなる。
(もっと筋力つけないと、まだまだ実戦で戦えるようになるには程遠いな……。いや、進んで戦いたいわけじゃないし、そもそも戦なんてもう起こって欲しくないんだけど)
午後の訓練を終え、がちがちに凝った肩をぐるぐると回してほぐす。
ううんと体を伸ばした視線の先には、真っ青な空を覆うようなうろこ雲。ゆっくりと流れる雲につられるように、草月はふらりと屯所を出た。
特に目的地も決めずに海沿いの道を南へ歩いていると、波の音に混じって、達者な三味線の音色を耳が拾った。
(あ、この曲……)
京で幾松が良く弾いていたものだ。懐かしくて自然と足がそちらへ向く。
大小多数の倉庫や商家が建ち並ぶこの一角は、藩の越荷方(物資の保管・運搬や金融業などを行う役所)がある場所だ。
音の出所を辿って顔を上げた時、『紅屋』という一際大きな商家の二階に開いた障子窓から、女の姿が見えた。
あっ、と声が漏れる。
「――幾松さん姉さん!?」
*
「なんで姉さんが長州にいてはるんどす? 京は? 桂はんから何か連絡はあったんどすか?」
部屋に通され、手を取り合って互いの無事を喜び合ったのも束の間。矢継ぎ早に質問を飛ばす草月に、幾松は苦笑を向けた。
「ちょっと落ち着き。そないいっぺんに言われても答えられへんえ」
「あ、すんまへん、つい……」
「まあ、ええわ。うちも色々話したいことや聞きたいことがあるし」
幾松は女中が運んできてくれたお茶を飲んで唇を湿らせると、ゆっくりと話し始めた。
「あんたと桂はんが京を発った後も、うちは京に残って、芸妓を続けながら情報を集めてたんや。せやけど……」
ある日、桂の行方を捜す幕吏に捕まりそうになってしまう。幾松は、とっさに持っていた三味線を膝でへし折って幕吏に投げつけ、相手が怯んだ隙に逃げ出して対馬藩邸に駆け込んだ。
「――姉さん格好いい!」
思わず合いの手を入れた草月を目顔で制し、幾松は話を続ける。
安全かと思われた対馬藩邸だったが、対馬藩内も親長派と親幕派に分かれて事実上の内紛状態にあり、決して安心できる場所とは言い難かった。そのため、桂とも親交のあった対馬藩士・多田正蔵の手引きで京を脱し、九月の初めごろに、ここ長州までやって来たのだ。
「今は多田様とお付きの人らと一緒に、ここ『紅屋』の喜助はんのとこに寄せてもろてるんや」
「そうやったんどすか……。こんな近くにいてはったゆうのに、いっこも気ぃ付かしまへんどした。知らせてくれはったら、もっと早う会えましたのに」
「そう言うたかて、あんたがどこにおるか見当もつかへんかったし、それに、異国との戦で大変やったんやろ? さあ、今度はあんたのこと教えとくれやす。こっちに来てからどないしてたんや?」
「へえ。……うちが長州に着いた時には、外国と戦をするかせんかで、そらえらい混乱してたんどす。どないか戦にならんようにて頑張ったんやけど、結局、戦ゆうことになって――」
聞き上手の幾松に促されるまま、草月はどんどんしゃべった。
激しい砲撃の応酬、すったもんだの挙句の和議。
「――それで、なんとか落ち着いて、お世話になったイギリス人のお人に西洋料理を振る舞ったりしたんどす。その時に知り合ったおさんちゃんとお梅ちゃんとはええ友達になって……。せや、お梅ちゃんと伊藤はんは、どことのう良い雰囲気なんどすえ? 先だっても、横浜に行ってはる伊藤はんからお梅ちゃんに手紙が来たんどすけど、お梅ちゃんは読み書きが得意やあれへんゆうんで、うちが代わりに読んだり、返事書くのを手伝ったりして」
いつになく浮き浮きと話す草月を幾松はじっと見つめていたが、話が途切れたのを待って、静かに口を開いた。
「草月はん。何かあったやろ」
「……え?」
草月の顔が一瞬、強張った。
「何か、ってなんどすか? 別にうちは……」
「ごまかしてもあかん。うちはあんたの師匠え? 何でもないように見せてはったかて、あんたが何かに苦しんではるんはすぐに分かる。戦に出た言わはったけど、そこで何かあったんと違う?」
「……ほんまに大したことあらへんのどす。ただ……」
草月は言葉を切り、わずか目を伏せた。
ずっと胸の奥にしまい込んでいた感情。
幾松は何も言わずに草月が話し出すのを待っている。
大きく息を吸って、草月は言葉を継いだ。
「……みんな、うちのこと、すごいって言ってくれはるんどす。度胸がある、大したものだ、よく頑張ったって。……でも、実際は、全然すごくなんかないんです。本当の私は、臆病で、弱虫で。戦の時だって、いざ死ぬかもしれないと思ったら、怖くて怖くてたまらなかった。弾薬を抱えて走り回りながら、心の中では、逃げ出したい、戦うなんて言わなきゃよかったって、ずっと後悔してたんです」
一度話し始めると止まらなかった。
知らずにいつもの話し言葉になっていたことも、自分では気づかないほどに。
「今だって、何度も夢に見てうなされる。京で見たあの酷い町の光景や、嵐みたいな砲撃の音……。思い出すだけで、足が震えてくる。――情けないですよね。他の人たちは全然そんなことなくて、ただ次にするべきことだけを考えて真っ直ぐ進んでるのに。……本当の私がこんなだって分かったら、きっとみんな幻滅しちゃう。もう、一緒にいられなくなる」
静かに涙を流す草月の手を、幾松は自身の両手でぎゅっと包み込んだ。
「怖いと思うことのどこが情けないことなんや。怖いと思うて何があかんの。死にとうない思うて何が悪いの。あんたは、怖うても、逃げたい思うても、踏ん張って戦った。今かて、精一杯虚勢張ってでも頑張ってはる。大したもんやないの。何も自分を卑下することなんかあらへん。自信をお持ちやす。うちは胸張って言えるえ。あんたはうちの自慢の弟子やって」
「幾松さん姉さん……」
「それにな、草月はん」
幾松は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「何でもないようにしてはるお侍はんやって、ほんまは怖いん隠してはるんかもしれんえ。やせ我慢してでも格好つけたがるんがお侍はんやさかい」
「姉さんてば」
ふ、と心が軽くなる気がした。
かしかしと涙をぬぐって、にっこりと、今度は心から微笑む。
「おおきに。なんや吐き出したら、すっきりしました。すみまへん、幾松さん姉さんかて、桂はんの消息が分からんままでお辛いのに」
「うちはええんや。きっと生きてまた会えるて信じてるさかい。……せやけど、どうしても不安になったら、今度は草月はんに話聞いてもらおか」
「へえ、もちろんどす」
師弟は顔を見合わせ、ふふふと笑い合った。




