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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第14話 伊藤の頼みごと

 再び家老・宍戸刑馬に扮した高杉と通詞の伊藤、そして正真正銘の家老三名(宍戸備前・毛利出雲・井原主計)らによる交渉の結果、ついに連合国との間に停戦協定が妥結された。

 この功により高杉は藩政の中核である政務座役に任じられ、山口の政事堂で麻田や楢崎、長嶺、大和らと共に今度は幕府への対策に頭を悩ませている。

 井上は小郡に戻り、代官として人心の掌握に努める日々だ。

 所は正式に長州藩士として召し抱えられることになり、遊撃隊の参謀の職はそのままに、小荷駄奉行米銀方に任じられ、山口と馬関を行き来する忙しい生活を送っていた。

 一方、馬関に残った草月と伊藤は、戦後処理に追われていた。

 草月は遊撃隊と共に、停戦協定に基づいた台場の破壊や大砲の引き渡しを手伝い、伊藤は長州と連合国との間で取り交わすべき細々とした書状のやりとりに連日走り回っていた。停戦の合意が成ったとはいえ、つい先日まで戦火を交えていた仲だ。当然何らかの衝突が予想されたが、幸い大した揉め事もなく円滑に進んだ。結果、連合艦隊は軍事目的が達成されたことを確認して、数日のうちにそのほとんどが馬関から引き上げて行った。

 久しぶりに時間の空いた草月は、隊に断って町へと出かけた。頬を撫でる風は涼しく、いつの間にか秋の気配が感じられるようになっている。町には郊外へ避難していた住民らが戻り、少しずつ戦の前の活気を取り戻しているようだった。時折外国人が遊びに来ることもあるようだが、町人も慣れたのか以前のように怖がって逃げ出すこともないらしい。

 町の中ほどにある一軒の料理屋『一二三屋ひふみや』に草月が入っていくと、

「こっち、こっち!」

 奥の座敷から伊藤がひょっこりと顔を出した。

「悪かったな、わざわざ呼び出して。役場や亀山八幡宮より、ここのほうがゆっくり話せると思って」

「いえ、すぐ近くですから」

 促されるまま座敷に上がる。すぐに若い女中が料理の膳を運んできてくれた。ほかほかと湯気の立つ美味しそうな焼き魚や味噌汁が並んでいる。彼女が下がるのを待って、口を開いた。

「……でも、和議が成って、本当に良かったです。町に火が点いた時は、このまま長州は外国に滅ぼされるんじゃないかって、本気で思いましたから」

「ああ、草月はあの時ここにいたんだっけ」

「はい」

 いい具合に焼き目のついたあじを頬張る。ふっくらとした食感と旨みが口いっぱいに広がり、たまらず唸る。戦の間はろくに食べることもできなかったから、こうしたちゃんとした食事が何より嬉しい。

「和議と言えばさ――」

 伊藤が笑いを堪えた顔で、内緒話をするように声を潜めた。

「三度目の交渉に、俺と高杉さん達で行ったろ? その時、面白いことがあったんだ」

「面白いこと?」

 秘密めかした雰囲気につられて、草月も小声になる。

「うん。……連合国側が示した和議の条件は知ってるか?」

 全部は知らないと返すと、伊藤はそれらをすらすらと暗唱してみせた。


 一つ、馬関の海峡を外国船が自由に航行出来るようにすること

 一つ、石炭・食料・水など、航海に必要なものを提供すること

 一つ、悪天候時における、船長の馬関上陸の許可

 一つ、馬関の砲台の撤去、および、新たな大砲設置の禁止

 一つ、賠償金三百万ドルの支払い


「色々揉めたんだけど、最終的には最初の四つの条件は受け入れることにしたんだ。問題は最後。連合国側の最高責任者――イギリスのキューパー提督って人なんだけど――、その人が、賠償金に加えて彦島を租借したいって言い出してさ」

「そしゃく?」

「簡単に言うと、外国の一部の土地を一定期間借り受けて、自国の統治下に置くこと」

「うーん……」

 そう言われても、いま一つ実態が掴めない。

「じゃあ、想像してみて。草月が住んでる家があるとするよ。そこに、いきなり見ず知らずの男がやって来て、『今日から三日間、この家の居間は俺の物だ。許可なしに立ち入ることは許さん!』って言い出すんだ。そうしたら草月はどう思う?」

「うわ、それってすっごく最悪です! それに、そんな勝手な人なら、三日の期限が過ぎても、絶対に出て行ってくれなさそう! それどころか、庭や台所とか、他の場所まで自由に使われそうです」

「そこなんだよ! 提督の狙いはまさにそれさ!」

 伊藤は我が意を得たりとばかりに膝を打った。

「そうやって徐々に自国の領土を広げる常套手段なんだ。上海がいい例だよ。うかつにそんな話を受けたら終わりだ。高杉さんが何て返すのかと思ったら……」

 伊藤はその時のことを事細かに語り始めた。


                 *


(まずいぞ。これをどう切り抜ける……?)

 英国艦ユーリアラス号の一室には、連合国代表と長州代表が机を挟んで向かい合って座っている。

 はらはらと見守る伊藤に対し、この要求の意味を分かっているのかいないのか、高杉は傲然とした態度を崩さなかった。そして、きっぱりと拒絶したのだ。

「昨年の外国商船砲撃は、朝廷の沙汰に従っただけで、断じて長州に責任はない。賠償というなら朝廷に対して要求すべきであって、それをこちらに賠償しろなどとは、思いもよらんことじゃ。彦島については言うまでもない」

 伊藤が素早く訳すと、キューパーは髭を震わせて怒り出した。

「幕府へ交渉すれば長州へ行けと言い、長州へ交渉すれば朝廷にかけあえと言う。一体、この国の主権はどこにあるのだ!」

「外国は日本の国体を知らんけえ、そういう事を言うんじゃ。よろしい。ひとつ僕が講釈してしんぜよう」

 高杉は怒り狂うキューパーにもまるでひるむ様子もなく、懐から取り出した扇子でぱちんと拍子を取ると、だしぬけに「天地あめつちのはじめの時……」と語り始めた。

 『古事記』である。

「おい、俊輔、何をぼけっとしちょる。さっさと訳せ。……『伊邪那岐命と伊邪那美命、天浮橋に立たして天沼矛を刺したまいて、ころころとかきならし……おのころ島に天下りまして天の御柱をみ立て……』」

「ええ!? ち、ちょっと待ってくださいよ! ええと、A long time ago… 」

 ただでさえ難解で持って回った言い回しの古事記を、伊藤のまずい英語で訳すのだから、ますます訳が分からなくなる。まるで魔王のように口から呪文めいた言葉を吐き続ける男を前にしては、僅かな期間で日本語に精通した語学の天才、アーネスト・サトウの頭脳を以ってしても歯が立たない。

 その場はたちまち悪霊渦巻く混沌と化した。

 これにはさしものキューパーも根を上げ、

「もういい、分かった。彦島の件は忘れてくれ。賠償金のことは幕府に掛け合うことにする」

 青い顔で言ったのだった。


                  *


「――そんなことがあったんですか! うわあ、私もその場にいたかった!」

 たちまちお腹を抱えて笑いだす草月と一緒に、伊藤も大いに笑って言った。

「最高だろ? ……でも、今だから笑い話になるけど、その時は本当に大変だったんだぜ? 高杉さんが朗々と語る横で、俺はともかく訳さなくちゃって必死で頭を絞って……。今じゃ、その時自分が何て訳したのかまるで覚えてないよ。大体、『天沼矛』だの何だのなんて、どう訳すんだよ。もう二度と御免だね」

 ひとしきり笑いあった後、草月がふと首を傾げた。

「そういえば……。今更なんですけど、どうして和議の使節に高杉さんが選ばれたんでしょうか? わざわざ身分を偽って家老に仕立ててまで。そんなことしなくても、ちゃんとした御家老様もいらしたわけでしょう?」

「まあなぁ。身分云々で言えば、高杉さんは最前まで座敷牢に入ってた罪人なわけだから。……藩としても、一か八かの賭けだったんじゃないの? 奇兵隊を創ったことからして、常人にはない発想が出来る人なのは良く分かってるし。外国相手に四角四面の事しか言えない人より、多少不安要素はあっても、物怖じしないその型破りな性格で相手を圧倒してくれるかもしれない、ってさ。実際、それがうまく嵌ったしね」

 話の区切りがついたのを見計らったかのように、先ほどの女中がお茶のおかわりはどうかとやって来た。有り難く淹れてもらいながら、伊藤は彼女に、一太郎の手が空いたらここに寄越してくれるよう頼んだ。

「一太郎?」

「うん――。実は草月に今日ここに来てもらったのは、頼みたいことがあったからなんだ」

 ちょうどいい熱さのお茶を一口飲んで、伊藤は続けた。

「今、馬関にはまだ外国船が何隻か残ってるだろ。でも、和議に関する諸々も粗方済んだから、今月末には全部引き上げることになったらしい。それで、俺は通詞として、家老の井原様たちと一緒に、その中の英国艦に便乗して横浜へ行くよう命じられたんけど――」

 その打ち合わせにサトウが近々馬関へ来るので、その時にサトウを食事でもてなしたい。料亭の仕出し料理などではなく、西洋式の料理を出して驚かせたい、と伊藤は言った。そのために草月の力を貸して欲しいと。

 思いがけない申し出だったが、草月はたちまち目を輝かせて賛同の意を示した。このところ重苦しい出来事ばかりだったから、久しぶりの楽しい計画に胸が弾む。

「どうせやるなら、とことん本格的にやりましょうよ。料理だけじゃなく、ちゃんとナイフとフォークを揃えて、椅子とテーブルの席も用意して」

「さっすが草月! 話が早いよ」

 伊藤は図に当たったとばかりに喜んだ。

「異国を知らない奴には、フォークが何か、ってことから説明しなくちゃならないからさ」

「それで、肝心の料理は何にするか決まってるんですか?」

「それなんだよ。俺もイギリスじゃ、食う専門で、自分で作ったりすることなんかなかったから分からなくて。単に肉を焼くくらいなら俺にも出来るけど、こっちじゃ牛の肉なんて手に入らないだろ? 日本にあるもので、作れる西洋料理って何かないかな」

「そうですねえ……」

 草月はううんと言って考え込んだ。

 ハンバーグ、カレー、パスタ、オムレツ、グラタン……。

 思いつくまま挙げてみるが、では作れるかと聞かれれば、否、と言うよりない。

(大学に入ってからは、一人暮らしで自炊していたとは言っても、そんなに手の込んだものは作ってなかったしなあ。カレーだって、市販のルーがあったから簡単に作れたけど、一から作るとなると、どうやって作るのかまるで分らないし)

「……あ」

「何かあった?」

「あの、アクアパッツァなんてどうでしょうか?」

「アクア……、パッツァ?」

「魚をトマトと白ワインで煮込んだイタリアの料理なんです」

 下宿先のマンションに母親が遊びに来た際、ちゃんと自炊している所を見せようと気張って作ったのがアクアパッツァなのだ。結局、その時の一度しか作らなかったが、初めてにしてはなかなか美味しく出来たし、大体の作り方なら覚えている。

「トマトはないけど、貝で旨みを足して、ワインの代わりにお酒を使えば何とかなると思います」

「よし、なら一品はそれにしよう。あと、出来ればやっぱり肉料理も入れたいんだ。鶏肉なら、近くの農家から手に入るんだけど」

「ぱっと思いつくのは、砂糖と醤油で味付けした照り焼きですね。でも、それじゃ西洋料理っぽくないし」

 良い案が出ずに悩んでいると、ちょうど一太郎という男が現れた。歳は三十代後半といったところだろうか。この店の主人兼料理人で、会食当日も手伝ってくれることになっているらしい。

 一品はアクアパッツァという魚料理に決まったこと、肉料理で悩んでいることを伝え、

「ハーブとかレモンがあれば、それを塩焼きした鶏肉にかけるだけで、かなり西洋料理っぽくなるんですけど」

 草月が言えば、一太郎は興味津々に身を乗り出した。

「その、はあぶとかれもん、とはどんなものですか?」

「ハーブは、料理の香り付けに使う草のことです。レモンは、酸味のある外国の果物ですね。……何か、代用できそうなものはないですか?」

「そうですね……。香りのいい葉なら紫蘇の葉がありますし、酸味のある果物といえば、蜜柑や柚子でしょうか」

「ああ、なるほど! いいですね、紫蘇の葉は刻んで上に乗せれば色合いもきれいだし、柚子をかければさっぱりと食べられます」

 三人で知恵を出し合い、手に入る食材と作りやすさを考慮した結果、品書きは次の通りになった。


 一品目、鯛とあさりのアクアパッツァ

 二品目、鰻のかば焼き

 三品目、すっぽん鍋

 四品目、鶏肉の塩焼き柚子風味

 デザート、柿の味醂漬け


 中には明らかに西洋料理ではないものも交じっているが、それは草月の料理知識の限界と、味を重視した結果だ。盛り付け方を工夫すれば、一応それらしく見えるだろう。

「じゃあ、料理はこれでいくとして……。ああでも、家具や食器も準備しないといけないし、当日は料理を作る以外に、料理を運ぶ給仕もいるし……。それを考えると、私たち三人だけじゃ、ちょっと大変ですね」

「――ああ、それなら大丈夫」

 伊藤がにんまりと笑ったその時、店の入り口から「隊長!」と呼ぶ大きな声がした。

「……隊長?」

 現れたのは草月の三倍はあろうかという巨漢だ。

「紹介するよ、力士隊の二郎丸。一太郎の弟で、この店を紹介してくれたのもこいつなんだ」

「二郎丸です! 草月さんですね? 隊長からお話は聞いちょります。よろしくお願いします!」

 二郎丸は大きな体を窮屈そうに縮めて、朗らかにあいさつした。

「あ、こちらこそ……。え、でも、『隊長』って?」

「俺のこと。……この前、和議の件で暗殺されかけたからさ、護衛代わりに、って押し付けられた」

 伊藤はまんざらでもない様子で言った。諸隊の一つである力士隊はその名の通り、力士からなる三十人ほどの小隊だ。

「家具を運んだりするような力仕事は、二郎丸たちが手伝ってくれる。当日の給仕も、こいつらの妹のおさんちゃん――ほら、さっきお茶のおかわりを淹れてくれた子だよ――と、その友達がやってくれることになってるんだ」

「さっすがは伊藤さん、手回しがいいですねえ。……なら当日は、私は一太郎さんと一緒に料理を作るのに専念して大丈夫ですね」

「あ、それなんだけど」

 伊藤は何食わぬ顔で爆弾を落とした。

「草月には、俺と一緒に、もてなし役を頼みたいんだ」

「――ええ!?」

「だって、招待客がサトウとその連れの男が一人で、こっちも俺一人じゃ、男三人で華がないだろ。それに、草月だって、サトウとまた話してみたいと思わない?」

「それは、そうですけど……」

 ベインのことも聞きたいし、外国の話も聞いてみたい。迷っているうちに、伊藤は強引にまとまてしまった。

「それじゃ、そういうことで! じゃあみんな、夕食会まであと三日。よろしく頼む!」



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