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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第13話 御前会議

 昼を少し回った頃。船木の代官所前に一挺の駕籠が着いた。

 中から降りて来たのは、緊張に顔を強ばらせた草月だ。身につけているのは、上等な黒羽二重の紋付長着羽織に仙台平の袴。世子に会うのに、ろくな着物を持っていない草月のために井上が用意したものである。

 控えの間に通され、大人しく待っていると、間もなく二回目の講和会談を終えた井上がやって来た。井上は、草月の姿を上から下まで眺めて、むっつりと腕を組む。

「多少、袖丈が合っちょらんが、この際仕方あるまい。武家の礼儀作法が期待できん以上、見た目だけでも完璧にしておきたかったが」

 散々な言われようだが、礼儀作法うんぬんは事実なので反論のしようもない。では傷だらけのこの顔はいいのかと草月がやり返すと、戦になればどうなるか知っていただくには好都合だと返ってきた。

「会談の方は、上手くいったんですか」

「ああ。和議の条件として、向こうがいくつか提示してきた。次の会談は四日後じゃ。それまでに、長州には何としても和議の方針を固めてもらわねばならん」

 井上は断固とした口調で言った。

「世子様には麻田さんから話が通っちょる。いいか、変に気張らずに、いつものお前のままでやれ」

「はい……」

 頷いたものの、先ほどから手の震えがおさまらない。

 大きく深呼吸をしたちょうどその時、案内役の藩士が二人を呼びに来た。

 井上は藩主敬親との謁見に向かうために途中で別れた。なのでここからは草月一人の力でやらなければならない。

 通されたのは、何十畳もあろうかという広間。

 そこにぽつんと一人、放り出される。

 やがて静かに横の襖が開いて、草月は深く平伏した。かすかな衣擦れとともに、世子が上座につく気配がする。

「草月と申す者はそなたか」

 柔らかな声音。草月はそのままの姿勢で、はっ、とだけ言った。

「そのように固くならずとも良い。直答を許す。面を上げよ」

 はい、とかすれた声で答えて、ゆるゆると顔を上げた。

 生傷だらけの草月の顔を見て世子は驚いたように目を見開き、それからその面長な顔をわずか思案するように傾けた。

 そこに得心の表情が浮かんだかと思うと、

「お主、以前に一度会ったことがあるな」

 信じられないことを言われた。

「……え?」

「覚えておらぬか? 二年ほど前、江戸の梅屋敷で土佐家中の者を交えた宴の席にいたであろう」

 ――忘れるはずもない。

「覚えていてくださったんですか⁉」

 言葉を交わしたわけでもない。

 遠目に一度見ただけの草月のことを。

「当然であろう?」

 広封はむしろ不思議そうな口調で言った。

「わしがこうしていられるのも、全て家臣のおかげ。その家臣の恩人の顔を、どうして忘れることができよう」

「……」

 草月の胸を、いわく言い難い感情が満たした。

 それは暖かく、全身を駆け巡って、緊張で固まった草月の体を包み込んだ。

 ――この人なら。

「恐れながら申し上げます! ……きちんとした物言いを知らず、失礼な言い方になること、お許しください。ですが、どうしても聞いていただきたいことがございます」

 広封の穏やかに促すような目に励まされ、草月は言葉を継いだ。

「どうか、和議の方針は藩としての方針であるとお示しください。――私は江戸にいた折、縁あってイギリス領事館員の一人と知り合いになり、海外の事情には多少なりとも通じております。外国は国際法という厳格な国同士の決め事に従って行動しています。一度決めた和議を翻すことは、それに背く行為であり――」

(違う、こんなことが言いたいんじゃない)

「……いいえ、こんなのは本当は建前です。私は、私が本当に言いたいのは……」

 草月はひたと世子の目を見つめた。

「世子様、どうか……、どうか、高杉さんと伊藤さんを、助けてください。二人は今、和議に反対する攘夷派の刺客に命を狙われて、身を隠しています。井上さんも、危険を承知でここまで来ました」

 草月は高杉達の窮状を必死に訴えた。

 藩主や世子が開国派と攘夷派との間で、苦しい立場なのも分かる。それでも、主君思いの高杉のために、見捨てて欲しくなかった。

 ようやく、広封がそっと口を開いた

「晋作は、そこまで窮しておったのか」

 人が高杉のことを名前で呼ぶのを初めて聞いた。

「――世子様は、高杉さんとお親しいんですか?」

 『晋作』、という呼び方に、ただの臣下以上のものを感じて、草月は思わず聞き返した。

「うむ、わしと晋作は同い年でな。小姓を勤めてくれていたこともある」

「高杉さんがお小姓!?」

 あの鉄砲玉が、生真面目に人の世話をしているところなどとても想像できない。

 素っ頓狂な声を上げた草月を咎めるでもなく、広封は逆に面白そうに問うた。

「そんなに意外か?」

「いえ、その、私、高杉さんがお仕事してるところ、見た事なくて」

 草月はしどろもどろに言い繕った。

「私の知ってる高杉さんは、短気で、自分勝手で、怒りっぽくて、遊び好きで、次に何をするかまるで分らない嵐みたいな人で……。でも、心から長州のことを思っている人です。長州のため、この国のため、自分に何が出来るか、いつだって悩んで悩んで苦しんでいました。講和の使者にと言われた時も、難しいのは承知の上で、長州のために引き受けたんだと思います」

 言い方はたどたどしかったが、草月の言葉には、心の底から高杉を思う気持ちが溢れていた。

 広封は、暖かい気持ちが胸の中に広がっていくのを感じた。

「藩主様や世子様も、高杉さんなら大事な仕事を任せられると思って、講和の使者を命じられたのでしょう? なのに、都合が悪くなったら放り出すなんて、高杉さん達が辛すぎます。だって、高杉さんは御両殿様のこと、ホントに好きなのに」

「好き、とな?」

 広封は不思議なことでも聞いたように、ぱしぱしと瞬きした。

「はい。高杉さん、言ってました。もし戦になったら、御両殿様だけはどうあってもお助けして、朝鮮に亡命するって。なのに……」

 広封は、草月の目をじっと見つめて言った。

「そなたは、晋作が好きか」

「はい」

 草月はきっぱりと、迷いなく頷いた。

「そうか、好きか。わしも晋作が好きじゃ」

 二人、にっこりと笑いあった。

「よし、わしからも殿に話してみよう。あちらでは井上の癇癪が始まっている頃であろう。急がねばな。そなたも来なさい」

 広封に連れられて、御前会議が開かれている大広間へと長い廊下を進む。

 突然現れた世子にうろたえたように、廊下で控えていた藩士が慌てて頭を下げる。

「父上に話がある。ここを開けよ」


                 *


 左右にずらりと並んだ重臣たちが、いっせいにこちらを向く。

 世子の後ろに続いた草月に目を留め、大半の者が「誰だこいつは」というふうに露骨に不快感を表した。

 笑いをかみ殺した少数派は、麻田公輔や長嶺内蔵太、楢崎弥八郎、大和国之助。そして井上がちろりと草月に視線を投げて寄こした。

 世子はすっと腰を下ろすと、藩主敬親へと真っ直ぐに相対した。

「父上、私からもお願い申し上げます。長州は先の結論通り、以後、開国の方針で行くべきです。約束を反故にすることは人としての信義に反すること。それは異人に対しても然り。ましてや忠義を尽くしてくれた臣下に対して、許されることではありません」

 振り返って、後ろに控えている草月を示し、

「それをこの者に諭されました」

 敬親は深く頷いた。

「わしも先程から聞多に叱られておったところじゃ。――分かった。奇兵隊と御楯隊は直ちに宮市(山口から南へ四里ほどの地)へ転陣させることとする。藩内には広く布告を出せ。今回の和議は外患を緩め、再び尊王の大義を貫徹せんとするためのものである。以後長州は攘夷を捨て、開国を是とする、と」

「殿!」

「なりませんぞ、このような者たちの言葉を真に受けて」

 左右から、たちまち非難の声が上がる。

 だが、敬親はきっぱりと言い切った。

「もう決めたことじゃ」

 井上に顔を向け、

「ところで聞多、広封を諭したというその者も、お主の差し金であろう? 家中の者ではないようじゃが、一体何者じゃ?」

「はっ。草月と申す者にて、女だてらに、長州のため、尽力してくれております」

「なんと、女とな?」

 にわかに場がざわついた。

(――ちょっと井上さん!)

 慌てた草月に構わず、井上は素知らぬ顔で続けた。

「御一同、こいつは女ではありますが、女だからと侮っては痛い目をみますぞ。江戸では高杉や久坂らに交じって時勢を論じ、京では同志間の連絡係を務め、先の馬関の戦では遊撃隊の一員として男どもに交じって立派に戦った剛の者です」

 敬親は素直に感心した様子で、ほう、と草月を見た。

「なんと、そなたはまるで、女だてらに戦場を駆けた成田の甲斐姫のようじゃな」

「いいえ!」

 草月は急いで首を振った。

 気が動転するあまり、相手がこの国で一番偉い藩主であるという意識は頭から吹っ飛んでいた。

「私はそんな立派な人じゃありません。単に、お世話になった長州の人たちのために、少しでも力になりたいだけの、ただの草月です」

「ただの草月か。それはいい」

 敬親は朗らかに笑った。

「ならば、ただの草月。早く行って、高杉と伊藤を呼び戻してやるとよい」

「ありがとうございます!」

 草月はぱっと顔を輝かせ、額の打ち身も忘れて勢いよく頭を下げた。




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