第10話 馬関にて
馬関海峡は、上海・長崎・江戸を結ぶ海上交通の要である。しかし、ここ一年ほどは、攘夷を唱える長州藩により、海峡封鎖が続けられていた。
長州の最西にある彦島から長府にかけての長い海岸沿いに十四基の砲台が築かれ、大砲の総数は百十七門を数える。
それらの砲台及び内陸に建てられた陣屋には、外国艦隊の襲来に備えて諸隊が配備されていた。
中でも前田台場は、二十門の大砲が置かれ、松下村塾出身の総督・赤根武人率いる奇兵隊が守りについている主力部分である。
同じく村塾出身の軍艦・山県狂介、福田俠平が率いる隊士たちが守るのは、三門の大砲を擁する壇ノ浦台場だ。馬関海峡が一番狭まった場所に位置するここからは、対岸の小倉藩の沿岸をはっきりと見てとることができる。
草月は、そこから西へ少し行った先、馬関市街にほど近い亀山台場にいた。
海岸にせり出すように建つ亀山八幡宮の境内に据えられた台場で、かつて久坂が攘夷の火ぶたを切った場所でもある。ここを守る遊撃隊は、元々は来島又兵衛が種々の職人を集めて創設した隊であるが、来島の死後は石川小五郎という長州藩士が隊を引き継ぎ、隊士も大部分が入れ替わっていた。今は京を追われた脱藩浪士らの受け皿のようになっている。参謀の所郁太郎が口添えしてくれたこともあって、草月のような者でも意外とすんなり受け入れてもらえた。
総勢五十名ほどの隊士は、隊長・参謀以下、砲兵、狙撃兵、伝令兵、補給兵などに分けられており、草月はその内の補給兵に入れられた。戦時には砲弾・弾薬などの補給任務に当たるが、平時の今は食料の調達および食事の支度が主な仕事だ。
単に食事の支度と言っても、五十人分の食事を一度に作るのだからなかなか大変である。凝ったものは作れないから、朝は塩むすびに漬物。昼はそれに汁物を付け、夜はおかず代わりの具だくさんおにぎりが一つ、という具合だ。
野菜などの食材は近隣の村落の住人が毎日売りに来てくれるが、この人数ではその費用も馬鹿にならない。幸い、魚だけは目の前の海からいくらでも獲れるので、釣りが得意な者が釣り糸を垂らし、食材の足しにしている。ただ、いかんせん自然が相手なので、
「今日はイサキが大漁だぞ! 塩焼きにして食おう」
という日もあれば、
「……何か妙な魚がかかったが、食えるのか、これ?」
「くっそー、今日はボウズじゃった!」
という日もある。
さて、本日の昼食は、里芋と人参、その辺で採れた野草を加えた味噌汁である。
次から次へとやって来る隊士に休む間もなく給仕をして、ようやく自分の昼食にありつけた頃にはとうに昼時を過ぎていた。
今日は夜の食事当番に当たっていないので、この後は自由時間だ。
手早く片付けを済ませて、外へ出た。
広い境内でひときわ目に付くのは、海に向けて据えられた二門の大砲――八十斤加農砲―――である。
砲身の長さは約一丈二尺(四メートル)。それを支える砲架も含めると、長さは約二丈(六メートル)、幅約六尺(二メートル)、高さ約一丈(三メートル)にもおよぶ。
この巨大な大砲を操るには十人以上もの人数を必要とし、今も隊長以下、砲兵達が訓練に励んでいる。
きびきびとした隊士たちの動きを横目に見ながら拝殿の正面にある長い石段を下りる。大きな鳥居を潜ると目の前はもう海であり、そこから直接船に乗ることも出来る。
草月は海岸沿いの柵に上体を預けると、ほうっと息をついた。
足元では白い波しぶきがどうどうと音を立てて岸壁にぶつかっては散っていく。
空は抜けるような青空。対岸の小倉の町と背後の山並みが陰影までくっきりと見て取れる。
「お嬢さん」
不意に、後ろから声がかかった。
「――所先生」
「どうした、ぼうっとして」
所は無造作に近づいてくると、ぶしつけに草月の顔をじろじろと見た。
顔色は悪くないようだな、と言って、そのまま隣に並んで柵に背をもたせ掛ける。
「……何かあったのか」
「何も……。ただ、不思議だなと思って」
「不思議?」
「はい。……ここって、去年、久坂さんが攘夷を始めた場所なんですよね。あの頃は、まだ自分の道が見えてなくて、悩んでばかりで……。まさか、自分がそこに立つことになるなんて、思ってもみませんでした」
草月は眩しそうに目を細めた。
強い海風がいたずらに髪を乱して吹き抜ける。
あの頃から、何もかもが変わってしまった。
長州は転落の一途をたどり、仲間の多くが命を散らした。
「山口からの報せは、まだ来ないんですか? もう、外国が通告してきた攻撃開始の八月五日まで、あと三日しかないのに」
「まだだ。相当手こずってるんだろうな。長州内には未だ頑迷な攘夷論者が多い。一時的な和議ならともかく、以後一切の攘夷を放棄して開国に転じるとなれば、当然反発は凄まじいだろう」
所は皮肉気に口元をゆがめた。
何を隠そう、井上と伊藤の主張する開国論に真っ先に賛成したのが所なのだ。しかし、そのために過激攘夷派の者たちから命を狙われ、一時は身を隠すはめになった。
「――そうだ、あんた、この後は非番か」
そうだと答えると、所はならちょうどいい、と体を起こした。
「俺も少し手が空いたんでな。前に、西洋銃の撃ち方を教えて欲しいって言ってただろう」
「え、教えてくれるんですか!」
「……着いてきな」
所は拝殿の裏手へ向けて顎をしゃくった。
*
「始める前に、念のため確認しておくがな、お嬢さん。銃ってのは、人殺しの道具だぜ。それは分かってるな」
西洋銃を手にした所の表情はいつになく真剣だった。
ごまかしはきかない。
草月は一つ、二つ、大きく息をした。そして言った。
「……正直、怖いです。でも、私、前に人に向けて短筒を撃ったことがあるんです。……最初は、自分の身を守るために、無我夢中だから撃てたと思った。でも、次に撃つ機会があった時も、私はためらわなかった。自分でも、不思議に思うくらいに。銃を撃てば、人を殺してしまうかもしれないって分かってます。でも、私は、私と、私の大事な人たちを守るためなら、きっとまたためらいなく引き金を引きます」
所は草月の心を見極めるようにじっと黙って見つめていた。草月が目をそらさずにいると、やがて根負けしたように頷いた。
「分かった。まずは弾の装填の仕方からだ。俺がやって見せるから、よく見てろ」
*
所による特訓は、一刻以上に及んだ。
草月が曲がりなりにも手順を覚えて、引き金を引くところまで、所は根気強く教えてくれた。
二人が使ったのは、ゲベール銃という種類の西洋銃だ。
一挺が約五両と比較的安価なため、西洋銃の中では最も良く使用されているが、射程がわずか三丁(三百メートル)ほどしかなく、命中率も恐ろしく悪かった。
「おい、もう腕が下がってきてるぞ。しっかり構えろ。それじゃ、狙いを定めるどころじゃないだろう。実際に撃つときにはこれに発火の衝撃が加わるんだ。これくらいでふらふらしてたんじゃ、とても銃なんか持たせられないぞ」
「はいっ!」
答えて、銃を構えなおす。
額からはじっとりと汗が流れ落ちてくる。
草月の身長ほどもあるゲベール銃の重さは約一貫(四キログラム)。
持ち続けているうちに、腕は銃の重さに耐えかね、悲鳴を上げている。
それでも草月は何度も反復練習を繰り返した。
「……思ってた以上に、銃を撃つのって難しいんですね」
くたくたになって拝殿へ引き上げる途中で草月がこぼすと、所は何を言ってる、と鼻であしらった。
「一度でもう降参か? これでも、雷管式になって随分とやりやすくなったんだぜ。前の火打石式のやつは、雨になるとすぐ火花がつかずに使えなくなったらしいからな。……まあ、使い勝手でいえば、ミニエー銃がよほどいいんだが。精度も飛距離も段違いだしな」
「ミニエー銃って、確か、引き金のすぐそばから弾を込める元込め式の銃でしたっけ」
「それだけじゃない。『施条式』と言って、銃身の内側にらせん状の溝が彫ってあるんだ。らせんに沿って弾に回転が起こることで弾道が安定し、命中率が飛躍的に高まる」
「諸隊には置いてないんですか?」
「藩兵なら多少は装備してあるだろうが、いかんせん高いからな。一挺で四十両近くもするそうだぜ。そう何挺もは買えない。俺も数回しか見たことはないんだ。……それより、」
所は皮肉気な笑みを浮かべて草月を見た。
「お嬢さんの場合、問題は装填技術より力のなさだな。たとえあんたが最新式の銃を持ったところで、長い間構えていられないんじゃ、宝の持ち腐れだ」
まったくもってその通りなので、草月はがっくりとうなだれた。
「銃を習う以前の問題ですよね。すみません、わざわざお時間割いてもらったのに……。腕立て伏せでもやって、腕力つけなきゃ」
「まだ一度やっただけだろう。何度も練習していれば、そのうち重さにも慣れるさ。……とはいっても、その成果を実際に試すようなことにならないほうがいいけどな」
「そうですね……」
沈みかけた夕日が真っ赤に空と海を染めている。
綺麗なはずのその景色が、なぜだか不吉なことの前触れのように思えてならなかった。
*
そうして。
和議についての進展は何もないまま、八月四日になった。
「――異国艦じゃ! 異国艦が来たぞ!」
昼を大きく回った頃。見張りの大声に、草月は夕食用のかぼちゃを放り出して、他の隊士らと共に急いで外へと飛び出した。
東のはるか沖合に、無数の黒い影が点々と見えている。
ついに、四ヶ国の連合艦隊がその威容を現したのだ。




