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花信風  作者: つま先カラス
第一章 長州動乱
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第9話 再会の長州

 長崎へ行くという大型の帆船は、風を受けてぐんぐん進み、翌日の昼過ぎには瀬戸内海を抜けて周防灘へと入った。

 ここから見る限り、周辺に異国艦隊の姿はない。

(良かった、戦はまだ始まってないみたい)

 船頭に礼を言い、袴に着替えて富海の港に降り立った草月は、海岸沿いまで迫る山を右手に西へと進み、三田尻を経て進路を北へ取った。田畑の広がるのどかな村落を歩き続ければ、次第に大きな山の連なりが迫ってくる。山口はこの山を越えた先だ。

 強い日差しに流れる汗を拭って、険しい峠道に踏み入る。うっそうと茂った木々が作る木陰で暑さはだいぶましになったものの、高低差のある山道はかなり体力を消耗する。

 ここ数日の疲労も祟ってか、やっとのことで山を越えて山口の町へと至った時には、疲労困憊、日もかなり傾いていた。

 草月は慌ただしく出入りする藩士たちに交じり、政事堂の正面の厳めしい御門へと近づいた。

 『政事堂』と聞いて、漠然と藩邸と同じような建物を想像していたが、実際のそれは藩邸とはまるで違った。

 北と西にそびえる山を天然の要害として組み込み、東から南にかけて土塁と堀を巡らせている。南の正門には大規模な桝形を配し、その造りは単なる藩庁の域を超え、明確な敵を想定した城郭に等しかった。

 明らかに藩士ではない草月を見て、門番の男は露骨に不審な顔をしていたが、桂からの紹介状を見せるとようやく警戒を解いた。

「どうか、麻田公輔様に取り次ぎをお願いします」


                   *


 桂の報告書を読み終えた麻田は、それを丁寧に畳んで横に置いた。

 久方ぶりに会う麻田の表情には以前のような陽気さはなく、まるで十歳も老け込んだように見える。それでも、草月を見る目は変わらず優しかった。

「大変だったろう。君が無事で本当に嬉しいよ。長州のために色々尽力してくれたこと、長州の臣として心から礼を言う。ありがとう」

「いえ、私なんて何も……。麻田さんこそ大丈夫ですか? すごく、お疲れのように見えます」

「うん――。実は、戦の始末に関して幕府との交渉に手を焼いていてね。いかに幕府の要求をかわして長州の利益を守るか、難しいところだ。藩内でもその対応について意見が分かれていて、一向にまとまらないし」

「あ――」

(そうか、戦に負けたってことは、敗戦の責任を取らなきゃいけないってことなんだ。そこまで考えが至らなかった……)

「異国艦隊の問題もあるしな。藩内には未だ攘夷思想が根強くて、断固戦うべしとの声が強い。まったく、やっかいだよ」

「あ、あの、そのことなんですけど」

 草月が長州に来た目的を話すと、麻田は大きく頷いた。

「それは願ってもない。実は京の敗戦を受けて泡を食った連中が、慌てて和議を結ぼうと言い出したんだ」

「えっ! 本当ですか!」

 良かった、と胸をなでおろしたのも束の間、

「だが、そう簡単にはいかなくてな」

麻田は指で眉間を揉み解すようにして言った。

「とにかく奴らに会えば分かる。呼びにやらせるから、さっきの控えの間で待っておいで」


                   *


(奴ら、って誰なんだろう……)

 用意してくれた冷たいお茶をありがたく飲みながら待つことしばし。

「――草月!」

 部屋に飛び込んできた伊藤俊輔は、草月の姿を見て取るや突進し、こちらが身構える間もなく両手を広げて飛び付いた。勢い余って草月もろとも畳の上に倒れ込んだのも構わず、そのままぎゅうぎゅうと抱き締める。

「生きてたか! よく無事だったなあ! 京から戻って来た奴らの誰も、お前のことを知らないって言うから、死んだかと思ったぞ! やきもきさせやがって、この野郎!」

「伊藤さんも……。また会えるなんて、本当に嬉しいです」

 心配してくれていたのだ。

 その気持ちが痛いほど伝わってきて、草月もまた伊藤を抱き締め返した。

「……濡れ場なら遠慮するが」

 ぼそりとした呟きが落ちる。

「楢崎さん!」

 楢崎弥八郎だ。冗談か本気か分からない物言いも昔のまま。その後ろに、志道聞多と大和国之助の姿も見える。

「志道さん! 大和さんも! お久しぶりです!」

 伊藤から体を離して、起き上がる。

 イギリスへ行っていたため、伊藤と志道は髷ではなく、断髪姿だ。伊藤はあまり似合っているとは言えないが、志道のほうは割合良く似合っている。

「今は志道でなく、井上じゃ。麻田さんがやたらと急かすから、一体誰が来たのかと思えば、お前か」

「悪かったですね、私で」

「まあ、そう膨れるな草月。口ではこう言っちょるが、聞多だって内心は喜んじょるんじゃ。俺ももちろん嬉しいぞ。……先に戻った奴らから、京の戦のことは聞いた。辛かったな」

 大和は大きな手でいたわるように草月の背中を叩いた。

 優しい言葉が堪らなくて、泣きそうになる。それを振り切るように尋ねた。

「あの! 先に戻った人たちって? 寺島さんや入江さん、山田くんや品川さんや、有吉さん、それに所先生は? 無事ですか?」

「市と弥二は無事だよ。所先生も。寺島と九一と熊次郎は、まだ……」

 下を向いた伊藤と入れ替わるように、楢崎の目がひたと草月を見据えた。

「――なぜ、久坂と桂さんの安否を尋ねない?君なら真っ先に挙がるはずの名前だ」

「……」

 草月の顔が強張る。合わせ鏡のように、他の四人の顔も徐々に強張っていく。

「まさか、二人とも……」

 言いかけた伊藤の言葉が、それ以上言えないとばかりに途切れる。

「桂さんは無事です! 私が京を出る直前まで一緒にいたから、それは確かです! ……でも、久坂さんは――」

 喉が詰まる。

 全身が冷えて体が震える。

 伝えなきゃ。久坂さんがどんな最期だったか。

 草月はきつく拳を握りしめた。

「……久坂さんは、鷹司様のお屋敷で寺島さんや入江さん、真木様の隊と一緒に戦っていました。でも、幕府軍の攻勢が強くて……」

「それでどうしたんじゃ! 久坂は!」

 井上が怒ったような顔で詰め寄った。

「足を撃たれた久坂さんは、入江さんと寺島さんに後を託して一人屋敷に残りました。私は長州の撤退を伝えに行って、そのことを聞きました。それから、私に逃げるように言って、自分は――」

 それ以上はとても言葉に出来なかった。堪えきれずに涙が溢れる。一度流れた涙は、容易には止まってはくれなかった。


                  *


「……落ち着いたか?」

 さんざん泣いて、気が付くと辺りはすっかり薄暗く、そばには伊藤と井上だけがいた。

「はい……。すみません、取り乱して」

「いや、辛いこと思い出させて悪かったよ。ごめんな」

 そう言う伊藤もぼろぼろ泣いている。

 井上がこちらを見ぬまま言った。

「久坂は……、最期まで久坂らしかったんじゃな」

「はい。真っ直ぐで、優しくて、一心にこの国のことを思っていました。……約束したんです。絶対にこの国を変えるって。だから、しっかりしなきゃ」

 草月は涙をぬぐうと真っ直ぐに前を向いた。

「麻田さんから、外国艦隊との和議を結ぶって聞きました。話はまとまりそうなんですか?」

「まとまるもなにもないわ!」

 途端に不機嫌な顔で吐き捨てた井上に代わって、伊藤が答えた。

「異国の文明がいかに優れてるか、俺たちがどれだけ説明しても、藩の奴ら、まるで理解してくれないんだよ。あげくに俺たちをほら吹き呼ばわり。攘夷派の連中は俺たちを売国奴と呼んで斬ってやると騒ぐしさ」

「それが、今日突然呼び出されて何事かと思えば、和議の交渉をしろ、ときた。何が今更和議じゃ。わしらはひと月も前から攘夷は無謀だ、開国すべきだと口を酸っぱくして説いてきたんじゃぞ。それを、『たとえ防長二州が焦土と化しても攘夷の方針は変えぬ』と一蹴してきた奴らが、どの面下げて和議なんぞと口にするんじゃ! こんないい加減な奴らと一緒に大事が出来るか! もう外国の砲撃開始の期限まで十日もないんじゃ。こうなったら、二度と攘夷などする気が起きんようになるくらい散々に打ち負かされればいいんじゃ」

「――負けてもいいなんて、軽々しく言わないでください!」

 草月の瞳に燃え立つような光が宿った。

 その気迫に、井上がわずか身を引く。

「……京にいたんですよ、私は。混乱と無秩序しかなかったあの京に。志道さんだって聞いたでしょう? 戦のあと、そこら中に死体や、斬られた腕や、大砲で吹き飛んだ人の残骸が転がってた。負けた長州の兵は、埋葬もしてもらえなくて、そのまま打ち捨てられて、腐ってひどい臭いを放ってた。なのに、私はそれを見ているしかできなかった。兵士だけじゃありません。京の町の人たちも、大勢犠牲になりました。小さな子供でさえ――。その人たちには何の咎もなかったのに。もう、あんなのは御免です。戦をしなくて済む可能性があるなら、その可能性にかけてみるべきです!」

「……じゃが、一旦和議が成ったとしても、国力が回復すればまた攘夷をしようと言いかねん連中じゃぞ。そうなったら、今度こそ異国は和議など生ぬるいことはせずに、徹底的に長州を叩くじゃろう。それでもいいのか」

「……なら、武力以外で、異国の脅威が伝わればいいんでしょう? 何か、具体的に異国の文明の高さが分かるものがあれば……」

「『具体的』?」

 井上は鼻を鳴らした。

「蒸気機関車でも持ってくるのか? それとも、レンガ造りの巨大な建物をか? 設備の整った大学の研究室をか?」

「これは? 前に、ジュードさんにもらったんです」

 草月は懐から懐中時計を引っ張り出した。

 井上はちらりと一瞥をくれただけで、言下に切り捨てた。

「そのくらいもの、脅威でもなんでもない。細工の緻密さだけなら日本も負けん」

「なら……」

 何かないか。知恵を振り絞った。

「写真……、そう、写真はどうでしょう。機関車を持ってくることは出来なくても、それが映った写真を見れば、嘘じゃないって分かりますよ。イギリスから、何か写真は持って帰ってないんですか?」

「生憎と、役に立ちそうなものはないな」

「なら、もらいに行きましょう」

「は!?」

「外国の人なら写真の一枚や二枚、持ってるでしょう。写真がなければ、新聞でもいい。とにかく使えそうなものを何でもいいから借りてくるんです」

「分かった。俺も一緒に行くよ。聞多は……」

 井上は険しい顔のまま首を振った。

「わしはここに残る。和議の確約を取り付けられるよう、もう一度働きかけてみる」


                 *


 翌、早朝。

 草月と伊藤は富海まで駕籠を飛ばし、船を手配して、豊後の国姫島へと向かった。

 そこには英国艦が一隻、停泊している。伊藤と井上を長州まで送ってきてくれた艦だ。

 甲板へ上がった二人を、すらりと背の高い男がさっそうと迎えてくれる。

 褐色の髪を丁寧に後ろに撫でつけ、灰色のスーツを隙なく着こなした若い男だ。

「紹介するよ。草月、こちらは領事館員のアーネスト・サトウさん。サトウさん、こっちが俺の友達の草月」

「初めまして、草月です」

 すっと差し出された手を握り返すと、

「ソウゲツ……」

 サトウは響きを確かめるように草月の名前を舌の上で転がした。そして流暢な日本語で言った。

「もしかしてあなた、『ミス・ソウ』ですか?」

「――その名前、どうして……。もしかして、ジュードさんから!?」

「ええ、ジュードは親しい友人でね。私だけにこっそり教えてくれたんです。面白い友人が出来たと。ようやく会えました」

サトウの整った知的な顔に、少年のような好奇心が覗く。

「ジュードさんはお元気なんですか? ここには来ていないんでしょうか」

「残念ながら、ジュードは昨年末に本国へ帰りました。お父上が病気だという知らせが届いたのです。……幸い、大事には至らなかったようですが、ご高齢ということもあり、ジュードもそばにいることにしたようです。彼はこの国をとても気に入っていましたから、残念だったでしょうがね」

「そうなんですか……」

「日本の様子を教えろと、先日も催促の手紙を受け取ったところですよ。あなたに会ったと知らせてやれば、きっと喜ぶでしょう」

「私からもよろしく言っていたと伝えてください。元気にやっていると」

「ええ、もちろん。――おっと、おしゃべりが過ぎたようですね。ご用件は何です? 新たに戦の交渉、というわけでもないようですが」

 サトウは茶目っ気たっぷりに草月を横目で見て言った。

「実は、蒸気機関車の写真があれば貸して欲しいんだ」

「写真?」

「機関車じゃなくてもいい、外国の文明が分かるような写真があれば」

 伊藤が簡単に事情を説明すると、サトウは快く承諾してくれた。

「分かりました。何かないか、探してみましょう」


                   *


 イギリスの町並みが写った数点の風景写真を手に伊藤が山口に戻ると、すでにひとしきり重臣たちとやりあった後らしい井上が不機嫌な顔を隠しもせずに迎えた。

 伊藤が一人なのを見て、あの女はどうした、と尋ねる。

「草月なら馬関に行ったよ」

「馬関――、何じゃと!?」

 目を剥く井上を見て、伊藤は心底おかしげに笑った。

「それ、俺も同じ反応した」

 ――英国艦から富海へと着いて。

 急いで山口に戻ろうとする伊藤を制した草月は、突如、馬関に行くと言い出したのだ。

 驚く伊藤を尻目に、草月はさっさと船頭に話を付けて再び船に乗り込んだ。

「……だって、私が政事堂に行って何するんです? 藩士でもない私がご重臣たちのいる会議の場に乗り込んで行くわけにもいかないでしょう? だから、私は、馬関を守ってる奇兵隊や諸隊の人たちの所へ行ってきます。万が一戦になった時に、武器を運ぶなり食料を届けるなり、私でも手伝えることはいくらでもあるはずですから!」

 そう言うと、船頭を急かして瞬く間に馬関へと漕ぎ出していった。

 話を聞き終えた井上は呆れと感嘆の入り混じった息を吐いた。

「……久しぶりに会ったかと思えば、あいつ、男っぷりに磨きがかかっちょらんか?」

「そこいらの男顔負けって感じだね。俺らも負けてられないよ。とにかく、この写真を見せて、お偉方に和議の確約を取り付けなくちゃ」


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