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32,大舞踏会

 大舞踏会を前に、マリウスは正式にクラレンス・デルヴィーニュの養子として迎えられデルヴィーニュの名を受け継ぎ、次期当主となる手続きが済んだ。


この事で気力が沸き、体力を持ち直したようで、クラレンスは大舞踏会への参加を決め、軍服の仕立て直しをすることとなった。


 正式な行事であるこの舞踏会では、女性もいつもの夜会のドレスではなく、左胸に家の紋章の刺繍の入ったドレスを着用するのだ。色は淡い色と決まっているし、ドレスの裾は長く左手の紐と結びついている。形はみな決まっている。レナはこれをデビュタントらしく白にしていた。


男性たちは正装の濃紺の軍服で身分が高いほど装飾が多くなる。

レナはこれを着たジョルダンにすら、普段見慣れない装いに思わずまじまじと見てしまったし、これがヴィクターであったなら……更にだろうと想像に難くない。


グランヴィル伯爵家からはジョルダンとレナだけ拝謁する。王太子 エリアルドの隣にフェリシアの姿はなく、そして当然ながらギルセルドの姿も無かった。それでも、国王夫妻と王弟夫妻、それにプリシラとアンジェリンの華やかな姿は健在で、君主一家に相応しい威光を放ち圧倒していた。


「来年はお母様も一緒だといいわね、お父様」

「そうだな」

「……早めにウィンスティアに戻ってもいいかしら?」

「そんなに急ぐことはない。あっという間にシーズンが終わって、次はシーズンの始まりを楽しみに待つだろう」


この夜の一曲目は、父であるジョルダンと。

正式な場では初めてとなる。

レッスンを始めた頃は遥かに大きかった筈なのに、今は向かい合っていても丁度良い身長差になっている。


レナと同じような事をジョルダンも感じているらしくて

「子供はあっという間に手を離れてしまうものだな」


王都に来る前は早く家を出るべきではとも思っていたけれど、娘として居られるのはあとどれくらいの時が約束されているのかと想像すると、それはまた怖さを伴う。

いつまでも、娘でいたいと思ってしまう。まだ、早いと……。


それにレナは、父と娘として関係を築いてきたジョルダンに対して反抗的であったように思えて、軽く唇を噛んだ。


「わたしはいつまでも、お父様の娘よ」


気がつくとそう、呟いていた。

父と呼ぶのは目の前のジョルダンでしかあり得ない。例えソール・ラングトンが墓場から甦って父を名乗ったとしても、ずっと見守ってきて導いてくれたその存在と、比べるべきもないのだ。

「いい娘じゃなかったわ。でも、そう思っていていいでしょう?」

「レナはいつだって私の愛しい娘だ。大切な……出来ることなら誰にも渡したくない」

そう言って、軽く笑った。


「ヴィクター?」

「彼も含めてね」


「じゃあ、ずっと婚約中のまま家にいたらどうするの?」

「レナが本当にそうしたいなら」


冗談のように語っているけれど、ジョルダンは本当にそれを許してくれそうだ。


家にずっといる事も、ヴィクターと結婚する事も、どちらも手にしたいなんて不可能な事なのだ。何かを得ようとすれば、何かを手放さなくてはならない。だからせめて、もうしばらく娘として過ごしていたい……。素直にそう思えたのだった。


「何も恐れる事はない。何も」


曲はやがて終わり、ジョルダンの手でヴィクターの元へと導かれる。目の前には濃紺の軍服が凛々しく、武門の家の子息らしくとてもよく似合っていた。

黒髪はいつも以上にきっちりと整えられて精悍な印象だ。


「レナを頼んだよ、ヴィクター」

「お任せ下さい」

微笑みを浮かべて、レナの手を取るのを見届けると、ジョルダンは慣れた足取りで離れて行く。

その瞬間、ふとヴィクターが深く息を吐いた。


「……緊張するんだよ」

レナが見上げるとボソッとそんな一言を溢す。

「どうして?」

「伯爵閣下は俺の事を値踏みしてる」

「まさか」


「……勝手に話を進めた事のお怒りがまだ解けてない」

「そんな事ないわ、ヴィクターの事はいつも優秀だと褒めているもの」

そう言うと、ヴィクターは首を軽く横に振った。


「いや、大事な娘の事だから閣下も簡単に割り切れないんだろうな……。この間の事がバレたら大変だ」

最後は小声で囁いたけれど、その表情は少しも大変そうではなく、むしろ瞳は輝いている。この間の事とはもちろん、レナの部屋に忍び込んだ事だろう。やましいことは何もなかったけれど、それでもきっと大変だ。


「レディ レナ、次の曲を踊っていただけますか?」

曲が流れはじめ、そうお決まりの台詞と共に差し出されたヴィクターの手に手を重ねて、

「喜んで」

答えはただ一つ。


ヴィクターと踊るのも、少しは慣れたはず。

すっかり覚えた、香りは良く似合っていて少しスパイシーで甘い。向き合うと丁度ヴィクターの耳朶と襟から覗く滑らかな首が視界に入って、動く度に筋が綺麗に浮き出てその感触を確かめたくなる。


「何?」

「なにも……」


素直に触りたくなったなんて、そんな事は言えるはずもなく。それはなんだかキスよりも淫らな気がしてしまう。男性の首を露にするなんて、タイを外したり襟を外す訳なのだから……。


「じゃあ……挨拶を適当に終わらせて、抜けよう」

「え?」

「ずっとここにいる?」


ここにいて、全ての曲をヴィクターと踊るならそうしてもいい。だけれどそう出来ないのなら……。


レナは首を横に振り

「抜ける……」

ヴィクターといるとレナは何々しては行けません、という暗黙の了解というものを全て破ってしまいそうだ。けれどそれに罪悪感はさほど感じない。


「じゃあ気の進まない事はさっさと済ませて……楽しもう」

無邪気にも見える笑顔を浮かべたのに、レナも笑みを返して頷いた。


踊り終えたヴィクターは、真っ直ぐにアドリアンのいる壁際に向かったのだ。

「アドリアン」

「ヴィクター……それに、レディ レナ。こんばんは、良い夜ですね」

「こんばんは、アドリアン卿」


いかにも通りがかっただけだと、ヴィクターはそのままアドリアンの居たところを素通りして、アップルガース伯爵に挨拶をする。人柄の良い伯爵はヴィクターとレナの婚約を祝う言葉をかけた。そんな風に次から次へと、主な爵位をもつ方たちと挨拶をあらかた終えると、ヴィクターはレナを連れ広間を抜け出したのだ。


 ヴィクターはいつも使うような廊下ではなくて、使用人たちが使う通路に忍び込んだ。

「ヴィクター……!」

「しぃっ」


レナの声はけして大きくなかったけれど、廊下に反響した。

「見つかる」

そうは言っても、ヴィクターは見つかることを恐れてるのじゃなく、隠れることを楽しんでいるのだと分かる。

たとえ誰かに見つかったとしても、この王宮の使用人たちなら咎める事もしないであろうし、噂が広まることもないだろう。


時折仕事をするために行き交う彼らの目から逃れるために、空いたスペースにくっついて身を隠すのはまるで、子供の頃のかくれんぼみたいだし、楽しくさえあった。


「どうしてこんなに詳しいの?」

「それは、あちこちの邸のこういう通路を調べているうちに勘が働くようになった。建物なんてだいたい同じようなパターンがあるものだから」

いったいどれくらいの屋敷でこんな事をしてるのだろう?

そう考えると呆れるのと同時に、可笑しくなってきた。

レナの部屋に忍び込む事なんて、少しも難しくなかったのだろう。


従者たちは忙しく廊下を行き来するので、まさかこんな所に招待客が隠れてるなんて思いもしないらしくて、少しも怪しまれずに小部屋へと行き着いた。


「ここは?」

こじんまりとした部屋ながら、さすがに王宮らしく椅子や美術品等は上質の物が置かれている。


「大広間からはさほど離れていない。数人での会合に使ったり、こうして逢い引きにも」

「逢い引きって……!」

くつくつとヴィクターが笑う。


「もう、アドリアンの事は忘れられるな?」

笑顔を残したまま、だけど目はとても真剣でレナの心を覗きこもうとしているようだった。

「……忘れ、たい。あれで……大丈夫よね?」

「充分すぎる。破滅するならしても良いくらいに俺は思っていたけどな。レナが何も無かった(・・・・・・)と言うのならそうなんだろう。だから俺も、それでいい」

「ヴィクター……ありがとう、とても心強かった」


レナはおずおずとヴィクターの肩に頬をよせて、腰に手をかるく回していた。


だから、つい……そんな雰囲気は、甘いキスを呼び寄せてレナはそれを、さも当然であるかのように受け入れていた。


「……誰か、来る」

ヴィクターの声に、二人は咄嗟に入ってきた扉を開けて身を潜める。


「……隠れる必要、あったの?」

「見つかったら、何してたかバレる。それでも良かった?」


「良くない……」

くすくすとレナは笑って、続きをねだるかのように肩に手をかけた。それに応えるようにヴィクターの唇は、レナのこめかみに落とされ、耳に触れる。


「ジョエルと……コーデリアだ」

「……じゃあ、出ても大丈夫ね?」


声からそうと分かると、レナはヴィクターの唇をハンカチで拭い、形跡を落とし、ヴィクターはレナの髪を指で整える。


そして、出ようと扉に手をかけた所でヴィクターに手を押さえられた。


「駄目だ」

鋭く囁かれてレナは動きを止めた。


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