第24話 「笑顔で抜くのが一番!」〜常連さんは今日も元気〜
午前9時。外来処置室には、消毒液の匂いと朝の光が満ちていた。
(朝の低い光はステンレスの器具に細い線を描き、アルコール綿の匂いが“始業”の合図をする。
私は手指消毒を二度、手袋の縁を整え、今日の指先の温度を確かめた。)
今日のトップバッターは、もう顔なじみの常連さん──佐伯さん(68歳)。
持病の治療で定期的に点滴と処置を受けにくる温厚な男性だが、採血や点滴の針が入る瞬間だけは、
なぜか必ず冗談を飛ばすクセがある。
(冗談の調子で不安の波を隠す人だ。血圧は今朝も許容範囲、脈拍整。
けれど指の組み方が少し強い──“今日は大丈夫かな”の合図でもある。)
「おはようございます、佐伯さん」
あいかがカルテを片手に笑顔で迎えると、
「いやぁ、今日も天使の皆さんに囲まれて生き返るよ〜」と、相変わらずの調子だ。
「ほら、そういうの恥ずかしいから控えてくださいね〜」と軽くいなしながら、
あいかは血圧測定に入る。
(マンシェットの圧を抜く音は小さく、安心をほどく音に似ている。測定値をカルテへ、数値だけでなく“顔色良好”も必ず残す。)
「お美々、採血準備お願い」
「はい、あいか先輩!」
お美々は緊張しながらもテキパキと器具を並べていく。まだ新人の面影はあるが、
常連患者さん相手だと少し肩の力も抜けるようになってきた。
(針、駆血帯、滅菌ガーゼ、廃棄ボックス。お美々の並べた順が今日は正解。
私はうなずきだけ返す──言葉より確かな合図。)
そこに、ゆぃゆぃ先輩が颯爽と登場。
「おはよう、佐伯さん。今日も元気そうね」
「はい、ゆぃゆぃさんのおかげで!」
「ふふ、じゃあ今日も……抜きなさい!!」
唐突な檄に、あいかとお美々は思わず吹き出しそうになる。
(先輩の“抜きなさい”は合図でもあり、私たちの背筋を整える呪文でもある。)
採血の準備が整い、あいかが針を構える。
「じゃあ刺しますね〜、ちょっとチクッとしますよ」
「おぉ、チクッの後はスッキリだな」
──佐伯さん、そういう表現はやめてください、と心の中で突っ込みながらも、手は正確に動く。
(皮膚の張り、血管の蛇行、入射角は浅く。逆血を確認して固定、陰圧保持で無駄をつくらない。
呼吸合わせて、痛みの波を跨いでいく。)
ところが、抜去の瞬間だった。
「はぁっくしょん!!」
佐伯さんが盛大なくしゃみをして、あいかの手元がわずかに揺れる。
飛んだ生理食塩液のしぶきが──あいかの頬にピタリ。
「……顔射……?」
ぽつりと呟いたお美々に、処置室が一瞬凍りつく。
(一拍、空気が止まる。私はすぐにフェイスシールドを軽く下げて拭浄、環境表面の迅速清拭。
言葉より先に標準予防策が動く。)
「お美々!」
あいかが真っ赤になって睨むと、ゆぃゆぃ先輩は爆笑しながら背中を叩く。
「お美々、そういう時は“飛沫被弾”って言うのよ!医療用語で!」
「す、すみませんっ!」
(お美々の耳まで赤い。私は小声で「今の拭きは正解」とだけ伝える。失敗じゃない、学びの更新だ。)
一件落着後、処置は続行。
採血も終わり、点滴ルートを接続すると、佐伯さんは「やっぱり手際がいいねぇ」と満足げだ。
(滴下速度は規定、ライン内の気泡ゼロ、逆流防止の角度良好。
穿刺部位は滅菌ガーゼで軽圧、血管壁の戻りを待つ間、痛みスケールをさりげなく確認する。)
その後はリクライニングチェアで穏やかに点滴タイム。
「……それにしても」あいかがカルテを書きながら呟く。
「常連さんって、こっちが元気もらってる気がする」
「そうよ。患者さんが笑顔になれば、こっちも嬉しいじゃない」ゆぃゆぃ先輩が微笑む。
お美々も、処置の合間に「私、もっと上手くなりたいです」と真剣な表情を見せた。
(“上手く”は速度じゃない。安全と安心の両立。
それを身体で覚えるまで、手は必ずゆっくり始めて速く終える。)
点滴終了の時間。
「じゃあ針抜きますね〜」あいかが慎重に動く。
ゆぃゆぃ先輩が背後からぽつり。
「……抜きなさい」
その低い声に、なぜかお美々の背筋がピンと伸びた。
(抜去後は即圧迫、テープ固定、観察三分。数値の静けさと表情の静けさが一致するまでが“終わり”。)
処置が終わり、佐伯さんが帰り際に一言。
「今日も楽しかったよ、ありがとう」
それを聞いた3人は、同時に笑顔で頭を下げた。
(扉が閉まる直前、佐伯さんの肩が少し軽くなる。私たちはその“軽さ”を仕事にしている。)
外来の日常は、小さな笑いと緊張の積み重ね。
そして、抜く瞬間に込められるプロとしての誇り──。
(誇りは声にしない。代わりに手袋を替え、消毒を一度多くする。それが私たちの“言葉”。)
――
病気は、戦いというより付き合いだ。数値が良い日も悪い日もある。冗談を言えば、怖さは少しだけ形を変える。若い看護師さんの手は、針の前に心に触れる手だ。今日も笑った。笑えた。だから大丈夫。
家へ帰ったら薬を並べて、昼寝をして、夕方に少し散歩をしよう。次に来る日まで、歩けるだけ歩こう。
(器具の金属音が静かに遠のく。お美々は滅菌トレイを拭き上げ、私は記録に“表情安定、訴えなし”を残す。窓の光は少し高くなり、処置室は次の一人を迎える姿勢になる。)




