第21話 「ヌキ屋ゆぃゆぃの隠された実力」
夜勤明けの休憩室。
あいかはソファに沈み込み、カップのホットコーヒーを両手で抱えていた。
隣では、ゆぃゆぃ先輩がポケットから折り畳まれた紙束を取り出し、真剣な表情で見つめている。
普段は天真爛漫に「きっちり抜いて、スッキリさせてあげなさい!」と笑っている先輩の、
珍しい――いや、異例の真顔だ。
──夜勤の残像がまだ脳裏にこびりつく。
排液判定モニターの光、骨盤底筋の微細な痙攣、体温と心拍の同期ずれ。
患者の体内精排液量、血圧再負荷、ナトリウム値低下に伴う倦怠性震戦。
人工陰圧装置のノズル先端に残った微小泡は、血中乳酸の増加を思い起こさせる。
(数ミリの操作の差で、ホルモン暴走が再燃する。ほんの一秒で命が傾く世界…)
「あれ? ゆぃゆぃ先輩が資料見てるなんて珍しいじゃないですか」
「しーっ…これはまだ内緒。あいかちゃんにだけ特別見せるんです。
ヌキ屋の裏メニューみたいなもんですよ」
差し出された紙束には、
精液過多症患者における安全抜去量と生体負荷の臨床データが細かく記されていた。
国内外の文献、院内での処置記録、そしてゆぃゆぃ先輩自身の現場ノートまで。
その密度は、単なる趣味や好奇心では片付けられないレベルだった。
(ゆぃゆぃ先輩は、冗談ばかり言うけど…その裏に、誰より痛みと死を見てきた人の目がある。
「笑って救う」って、簡単な強さじゃない。)
「これ…学会に出したら、かなり注目されますよ」
「でしょ? ここからが国境なきヌキ団の第一歩です!」
「……名前の響きが物騒すぎますって」
あいかが苦笑してカップを置いた瞬間、院内アナウンスが鳴った。
『第3処置室、精液過多症の急患搬送中。対応可能スタッフ、至急』
二人は目を合わせると、条件反射のように立ち上がり、走り出した。
処置室のドアを開けると、ベッドの上で顔を真っ赤にして苦しむ青年がいた。
医師の説明によれば、発症からすでに12時間以上。
下腹部は不自然に張り、呼吸は浅く早い。一般的な排出法では間に合わない状況だ。
──既に体内精排液が持続漏出し、精排液起点部の血管は張り詰め、熱反応は臨界。
自律反射は過緊張、呼吸パターンは高頻度・低深度。
(この速度…下手に触れば迷走神経反射で倒れる)
「脈拍の上がり方、普通じゃないですね…」
ゆぃゆぃ先輩はカルテを一瞥し、すぐにグローブを装着。
普段の明るい笑みは封印し、鋭い眼差しで患者とモニターを交互に見つめた。
それでも口元からは、いつもの決まり文句が静かに漏れる。
「今抜きますからね~、がんばってください!すぐ楽になりますよ!」
(先輩の声、震えてない。怖さを隠す技術…私も、あそこに届きたい。)
あいかはモニター係に回り、お美々が器具を準備。
連携はスムーズ…のはずだったが、ここで思わぬトラブルが発生する。
「えっ、なにこれ…あっ!」
お美々の手元からジェルの容器が滑り、噴射口が横に割れた。
次の瞬間、冷たい飛沫があいかの頬に広がる。
「うわっ…顔に…!」
(お美々:ミス…でも止まらない、動く、補填する。絶対に手を止めない。それが現場。)
「お美々! 予備ジェルを!」
「は、はいっ!」
お美々が慌てて棚から新しい容器を取り出す間も、ゆぃゆぃ先輩の手の動きは一切乱れない。
負荷の強弱を巧みに変え、患者の反応を細かく見極めていた。
その動きは、まるで精密機械のようだ。
──導管角度を変え、陰圧を段階変調。
筋反射を読み、神経応答の隙間に排出リズムを乗せる。
(呼吸と排出反射を“合わせる”。助けるためのテンポ…)
数分後、患者の全身から力が抜け、呼吸が深くなる。
モニターの数値も安定し、ゆぃゆぃ先輩がゆっくりと手を離した。
「はい、スッキリしましたね。もう苦しくないでしょう?」
青年はかすれた声で「…ありがとうございます」と呟き、安堵の表情を見せた。
(命が“戻る”瞬間って、何度見ても泣きそうになる。)
処置室を出ると、あいかは額の汗をぬぐいながら言った。
「…ゆぃゆぃ先輩、本当にただのお馬鹿じゃないですね」
「ふふん、ヌキ屋は笑顔と技術の二刀流なんです。あいかちゃん、覚えときなさい」
そのウィンクに、あいかは思わず笑ってしまう。
夜、帰宅前のナースステーション。
あいかの机には、ゆぃゆぃ先輩が置いていった資料のコピーがあった。
端には小さな文字でこう書かれている。
『このデータ、世界に出すなら、あいかちゃんと一緒に』
――この人、本気で世界に行くつもりだ。
そしてその時、自分もきっと隣にいる。
あいかは静かにそう確信した。
(私も、誰かの命を軽く救うんじゃなくて、重さごと抱える人になる。)




