第29話 白音、変身 その一
満ち足りた朝であった。
ふたつ並べたカップにドリップ式コーヒーバッグをセットし、湧かしたての熱湯を注ぎながら、なのに白音はかなり複雑な表情を浮かべていた。
ずっと絶対に叶わないと思っていた気持ちがリンクス? ディオケイマス? に届いた。
幸せの絶頂である。
しかし白音は前世で、彼に立ち塞がる敵はすべて自分が排除すると誓いを立てている。
その望みが叶えられなくなってしまった。
それに前世だろうと今世だろうと、男に守られて安全なところにいるのは白音の性分ではないのだ。
体にぎゅっと力を入れてみるが、やはり魔法少女には変身できない。
トースターでパンを焼きながら男独り住まいの冷蔵庫を勝手に覗くと、卵とベーコンくらいしか入っていなかった。
仕方なく白音は、ベーコンエッグを作り始める。
卵はふたつでいいのかな、リンクスから借りたシャツが汚れたら困るな、と思った。
もちろんエプロンなどリンクスが常備しているはずもない。
変身すれば汚れても平気なのにと、まるで莉美のようなことを考える。
もう一度ぎゅっと力を入れてみるが、やはりぶかぶかのシャツ姿のままだ。
「白音」
自分はミルクと砂糖が欲しいんだけどと探していた白音は、呼ばれてびくぅっとする。
「驚かせたか?」
「いえ、その呼ばれ方がちょっと新鮮で……」
「デイジーと呼ばれるのはなんだか嫌そうだったのでな。マイラキリーというのも、その……悪いがこの世界では変だしな」
「…………変ですね。マイラキリーも、ゾア……なんとかも今のわたしにとっては変です。なんでそんなのにこだわっていたんだか。デイジーが一番かわいくていいのにと思います。でも、白音、と呼んでいただけると嬉しいです。いろいろありましたが、今のわたしは白音です」
「そうか。では白音、これを」
デイジーの魔核を取り出して白音に見せる。
白音は昨日のことを思い出し、ぎょっとして後ずさった。
背中が後ろの食器棚にぶつかってガチャガチャと音を立てる。
「いや、違う違う。違うぞ。白音、お前はデイジー本人なのだ。体を乗っ取る、とかではない」
仕事を終えたトースターのタイマーがチン、と音を立てる。
コーヒーのいい香りが立っている。
「デイジーがお前…………君に転生したのだとして、ではこれはいったい何なのだろうかと考えていたんだ」
魔核は魔族にとっての魂である。
他方、転生とはおそらく魂が別の体に入って生まれ変わることだと思われる。
しかしそれでは、白音の魂がふたつあることになってしまう。
この世界、この場所に、白音は魂を持って確かに存在するのだから、魔核には魂が入っていないと考えるべきだろう。
「それで当時の状況をできるだけ思い出してみたのだが……」
リンクスにとってデイジーが殺された時の記憶は、あまり思い出したくないものである。
それ故しっかりと検証ができず、目を逸らしていたところがある。
「やはり最大の疑問は、何故人族はデイジーの魔核を破壊せずに去ったのかということだった。人族が、ゾア…………いやその、二つ名まで付けて恐れていた君の魔核を放置するとは思えないだろう?」
はい、と頷きながら余ったベーコンをひと切れリンクスに差し出す。
彼はそれを口で直接パクッと受け取ると、できあがった朝食をダイニングテーブルの方へ運んでくれた。
白音にとってもあまり思い出したくない記憶だった。
それが顔に出ていたのだろう。
リンクスは話題を変えた。
テレビの朝の天気予報で、今日は一日快晴でしょうと言っている。
日曜日で良かったと思う。
危うく素行不良になるところだった。
リンクスがベーコンエッグを載せただけのトーストを食べて絶賛してくれる。
白音はこんなの誰にでも作れますよと笑いながら応じた。
それで白音はもう少し手の込んだものを食べてみて欲しくなって、夕食を作ることを提案してみる。
感情があまり表に出ないリンクスだが、これにはかなり大袈裟に喜んでくれた。
向こうの世界では小さい頃はお抱えの料理人による宮廷料理、落ち延びて以降は野戦食。
こちらの世界に来てからは出来合いのものや外食ばかりだった。
幼い記憶の中にだけ父王の後添い、つまりデイジーの母であるトモエに時折作って貰った優しい手料理の想い出がある。
蔵間たちの家によく呼ばれるようになってからは橘香が美味しい手料理を出してくれて、リンクスはそれを少し憧憬していたらしい。
白音はその話にまた涙ぐみそうになりながら、しかししっかりと(なるほど、誰もこのおうちで手料理を振る舞ったことはないんですね)とチェックは入れておく。
「よし」
と、ちょっと覚悟をして白音は話題を戻す。
記憶が完全に戻った彼女は、もはや自分が死ぬ瞬間までもはっきりと思い出していた。
最期の敵は本当に強く、手も足も出なかった。
せめてもの時間稼ぎをするだけで精一杯だった。
全力を尽くしてリンクスを逃がすことに成功したその直後、白音は核を貫かれて息絶えた。
その次の記憶は白音としての3歳頃、若葉会や敬子お母さんのものとなる。
「あれ? 多分わたし核を砕かれましたよ?」
「やはりそうか。デイジーの魔核を取り出した時、それとは別に確かに核の破片のような物があったんだ。当時の俺は、敵が別の何かを魔核と誤認してくれたおかげで破壊を免れた、とそればかりだったのだが」
リンクスはテーブルに置いた純白の魔核を見つめる。
「転生を是認するならば、やはりあの破片がデイジーの核、魂だったんだろう。そして破壊され、君はこちらの世界へ転生した」
「でもその白い石も星石ですよ? 間違いなく魔核だと感じます」
魔核は、手近にあったエッグスタンドに載せてリンクスの前ある。
白い輝きを仄かに放って、ずっと白音を呼んでいるのを感じる。
そばに朝食のお皿があるので、なんだかお供え物をされているみたいだ。
「魔族が生まれながらにして魔核を持っているのは説明したと思うが……」
記憶を取り戻している白音はもちろん頷く。
リンクスから聞いたことだけではなく、魔族としてのひと通りの一般常識も既に頭の中にある。
「あまりたくさんの例はないんだが、どうやら英雄核も子供へ受け継がれるようなんだ」
白音はえっ!? と思った。
自分たちの子供って、また魔法少女になるんだろうか? それも生まれながらの。
ちっちゃい佳奈みたいなのが、自分の娘として野山を駆けまわっている姿を想像してしまった。
そして、勝手にリンクスと子供を作るところを想像しいるのに気づいて赤面する。
「ん……まあ、向こうの世界では敵である召喚英雄たちのことなど知りようがなかったからな。しかしこちらの世界ではいくつかの事例が存在する。そして…………」
リンクスがぐっと身を乗り出す。
「白音、君には母から受け継いだ英雄核、父から受け継いだ魔核、このふたつが在ったんじゃないだろうか」
「!! そんなことあるんですか?!」
「いや、そもそも魔族と人族の間に子が生まれること自体、俺は白音以外に聞いたことがない」
しかしだとすればすべてが符合する。
白音は英雄核を魂としながら魔族の国で育ち、魔核を使いこなす方法を周囲から学んだということだ。
デイジーを倒した敵は彼女の魂を砕くことに成功し、リンクスは一縷の望みをかけて魔核を取り出したのだ。
そして桜の星石が白音の魂と融合して新たな英雄核をなす。
転生という奇跡が、いや、白音とリンクスの長い旅が、再びふたつの核をここに邂逅させたのだ。
「それで、この魔核なんだが……」
リンクスがスタンドの上に鎮座している白い宝石を指す。
心なしか星石が偉そうにしているように見える。
「これは魔族としての君の力の源なんだろうと思う。完全に適合しているのは…………ああ、その……事前にかなり厳密に調べたから間違いない。それに君は呼ばれていると感じるのだろう?」
こくこく、と白音は頷く。
「これがあれば、君は魔族としての力を取り戻せるのではないかと考えるのだが…………」
白音がはっとして天啓を得たとばかりに核に手を伸ばそうとするが、リンクスがそれを止める。
「推測だけで、そうなる保証はないんだ。先例がなく、不確定な要素も多い。確かに君のものを君に戻すだけなんだが…………」
本音を言うとリンクスは、この話をしたくなかった。
ようやく会えたのに、何故わざわざ危険を冒さなければならないのか。
しかし話をしながらリンクスは、やはりデイジーはデイジーなんだなと思った。
ここで説得してやめたらデイジーじゃない。
懐かしくて、嬉しくて、そして怖い。
「一緒にいられても、一緒に戦えないのは嫌です」
嘆息したリンクスは、せめて白音が作ってくれた朝食をしっかりと味わって食べた。
ふたりで朝食の後片付けを終えると、白音をベッドに連れて行った。
何も言わないのに、白音はいそいそとシャツを脱ぎ始める。
「いやっ、ちょっ、待ちたまえ……」
ひとまず寝かせて毛布を着せる。
「脱ぐんですよね? 夕べもそうでしたし」
確かに核の移植は素肌の上から直接行わなければならない。
それに白音が魔族の力を得れば多分、服が邪魔になるだろうと予測はしていた。
「魔法少女のコスチュームって、変身したまま脱げるんですね。あの時はちょっと焦りました。フフ」
前世の力を取り戻せるかもしれないと聞いて、
受け容れることにした白音ですが。




