第25章 曇天
翌朝、午前十時ジャスト、会議は始まった。
いつもより開始時間が遅いのは、昨夜遅くまで捜査に参加した警官たちへの配慮と、東京から来県する田町刑事の到着を待ったためだ。城島警部の隣に田町刑事が座っているのも、もはや見慣れた風景だが、東京から来た田町刑事の横に若い篠塚刑事の姿はなかった。どうやらひとりだけで来県したようだ。
城島警部の口から昨夜の出来事が説明される。明るくなってから改めてトンネル先の空き地を捜索したが、やはり結果は昨夜と同じだったという。斜面の上、勝巳が山菜採りに使っている山道も捜索を行ったが、雨に濡れた道には足跡を始め、人が入り込んだ痕跡は一切発見できなかった。実際、歩いたあとから捜査員の足跡が道に残ったため、足跡を残さずに山道を通行することは不可能だ。
説明の間ずっと苦虫を噛み潰したような表情で、あからさまにイライラしていた田町刑事だったが、警部の昨夜の報告が終わるや否や挙手もせずに捲し立てた。
「いったいどうなっているんだ! 新潟県警の捜査は! 相模健と直に接触しながらも、みすみす取り逃がしただと? おい、その後の相模の足取りは掴めているのか」
これには織田刑事が起立して答える。
「目下のところ不明です。眠らせた被害者二名を運搬するためには車が必要だったと考えられますが、付近の聞き込みから不審車両及び、犯人と思われる人物の目撃情報は今のところ取れていません。レンタカー会社にも、相模らしき人物が訪れていないか確認を取っています」
「またか! いったい何をしているんだ!」
田町刑事は激高する。
会議が始まる前、刑事らの雑談に耳を傾けたところ、田町刑事は今度は東京で相模の犯行が起こると確信し、相模の標的となりそうな関係者に万全のガードを敷いて迎え撃つつもりだったようだ。何でも、警視庁は新潟県警のようなヘマはしませんと、相当大きな事を言っていたらしい。ところが、東京でかなり大がかりな捜査を行ったにも関わらず相模は一向に見つからず、そうこうしているうちに昨夜、新潟で相模の犯行声明による誘拐事件が発生した。相模は必ず東京にいると豪語した田町刑事の面目丸つぶれということだ。今日の激高ぶりには、そんな理由もあるのだろう。
「田町刑事」織田刑事を着席させ、城島警部が発言を交替する、「先ほども説明しましたが、犯人は袋小路のような場所から忽然と姿を消してしまったのです。それに、なぜ西根友美と時坂藍子の二人が誘拐されたのか、なぜ西根家の小屋に監禁されていたのか、謎が多く、一筋縄ではいかない事件です。すぐには答えは出ないと思われます。腰を据えてじっくり捜査をする必要があるかと」
「そんな悠長なことを言っているから、いつもいつも相模に先手を打たれるんだ! ゲーム屋の小僧ひとりに翻弄されているということじゃないか! 相模はどこへ消えたんだ。天に昇ったか地に潜ったとでもいうのか。まるで不可能犯罪じゃないか……不可能犯罪といえば、探偵、あの女探偵は出席してるのか?」
場内を見回す田町刑事。理真はいつもの最後部席からゆっくりと立ち上がった。
「おい、何か掴んだのか? 今度の事件は、まさに素人探偵向きの事件じゃないか」
「多少の考えはあります。ですが、まだお話しする段階ではないかと――」
「なぜだ? お前ら素人探偵はいつもそうだな! 何かと理由をつけて結論を先延ばしにして――」
「田町刑事、今後の捜査方針ですが――」
助け船を出してくれた城島警部の言葉も遮り、田町刑事は、
「もういい、今からこの事件は私が指揮を取る。私の捜査チームも連れてくる。県警は私の言うとおりに動け」
田町刑事の興味は理真から捜査指揮権に移ったようだ。
「ちょっと待って下さい。今度の事件はあくまで新潟県警管轄内で起きたものです。指揮権は我々にある」
織田刑事が立ち上がって言った。場内の方々からも、そうだそうだ、と声が上がる。
「君たちに任せておいた結果がこの様じゃないか」田町刑事は場内を見回して吐いた。
「それでは、あなたが最初から指揮を取っていたら犯人はもう捕まっていたとでも言うんですか」織田刑事も引かない。
「当たり前だ。君たちとは凶悪犯罪を経験している場数が違う」
場内の刑事たちも立ち上がり、侃々諤々の騒ぎとなった。
前にもこんなことがあったな。そのときは城島警部が場を治めてくれたのだったが。私は警部のほうを見る。やはり、出番か、とばかりに城島警部が立ち上がったが、声を出すより先に懐に手を入れた。取り出したのは携帯電話だ。着信があるようで、警部は携帯電話を耳に当てながら会議室のドアを開け廊下に出た。場内は相変わらずの騒ぎだ。
「何だって!」
突然聞こえてきたその声で、場内の喧噪は一瞬で静まった。廊下に出て電話をしている城島警部のものだ。
「……間違いないんですか? ……はい……そうですか。ありがとうございました」
通話を終えた城島警部が会議室に戻った。神妙な面持ちだ。何があったのだろうか。
警部は席に戻り、皆に聞こえるよう立ったまま話し始めた。
「……長野県警から連絡があった」
その一言で場内は再びどよめいた。長野県は相模の故郷だ。相模が故郷に姿を見せる可能性もあるため、長野県警にも長野県内で相模捜索の協力を取り付けているということだったっけ。その長野県警からの電話ということは……どよめきが治まるのを待って、警部は告げる。
「……相模健が発見された」
誰もが驚きの声を口にした。起こったどよめきは先ほどの比ではなかった。
「いつの間に長野に移動したんだ」「始発の新幹線を乗り継げば」「いや、昨夜のうちに高速道路を自動車で」
そこかしこで様々な憶測が飛び交う。
「長野のどこにいたんですか!」
織田刑事が先を促す。相模捜索班の長としては、誰よりも気になるだろう。
「故郷の佐久市のはずれの山中で見つかった。死体でな。遺書を持っていた。自殺と見られているそうだ」
場内は一瞬で静まった。自殺?
「それじゃあ、奴の復讐はこれで終わり?」
田町刑事が呟く。だが、城島警部はそんな田町刑事の横顔を一度、複雑そうな表情で見てから正面に向き直り、
「……その死体だがな。医者によれば、どう少なく見積もっても死後一ヶ月は経過しているそうだ」
死後一ヶ月? 皆、一様に狐につままれたような顔をしている。
「間違いないんですか? 相模健に?」
織田刑事が食い下がるが、警部は、
「ああ、涼しいところなので腐乱の状態も見た目の判別はつく程度で済んでいたそうだ。血液型、歯の治療痕も一致している。DNA鑑定の結果はまだだが、所持品などから見ても本人に間違いはないと。相模健は、ひと月前に死んでいた……」
捜査は暗礁に乗り上げた、というレベルではなくなっていた。何せ、最大の容疑者と目されていた人物が、すでに死んでいたというのだ。事件が起こるひと月も前に。
遺書の内容によると、病気を苦にした自殺ということだった。相模健は、自分を病に罹らせた相手へ復讐するなどという気持ちは持てないタイプの人間だったのだ。
田町刑事は相模の死体を確認するため長野へ行くという。長野県警の鑑識結果から、相模の死体なのは明白なのだ。今更確認もないが。
一応、城島警部も、織田刑事ともうひとりの刑事を長野へ向かわせることにした。田町刑事も一緒の車に乗せていこうかと思っていたようだが、田町刑事は新幹線で向かうと、一足早く新潟駅へタクシーを飛ばしてしまった。長野までの長い道中、狭い車内で織田刑事と一緒になるのを嫌がったに違いない。
城島警部、中野刑事、丸柴刑事は捜査陣に合流するため署を出た。
私と理真は、須賀の持ってきてくれた時坂保の薬の写真を見せてもらうため、署の応接室を借りた。
「保さんの病室から回収した薬を撮った写真だよ。カプセル剤、錠剤、粒剤、たくさんの薬を飲んでいたんだね、保さんは。写真に収めたあと、全て開封して調べたけれど、シアン化カリウムが混入されていたものはひとつもなかったよ」須賀は写真を並べて言った。
「……やっぱりね」一枚の写真を手に取り理真は言った。「一回一カプセル、食後に飲む薬、これだわ」
その写真に写っていたのは。二×六の一ダースのカプセル薬だ。薬の袋と一緒に写されている。袋には確かに、〈食後一回一カプセル〉と服用法が表記されている。薬は、一列六個あるうちの、五個までが殻になっており、隣の列の六個は全て残っている。こういう状態の薬を、私は見たことがある。
「理真ちゃん、西根家の人達がその薬を病院に持ち込んだのは、土曜日の朝だよ。そして死んだのは日曜の昼。土曜の朝は麻酔が効いて眠っていたとしても、殺されるまでに、土曜の昼、夜、日曜の朝と、三回も薬を飲んだはずだよ。日曜日の昼に狙って毒入りの薬を飲ませるなんてことが出来る?」
「ええ、保さんの薬の飲み方の習慣を知っていれば」
理真は須賀に礼を言って、私と一緒に署を出た。
「これからどこへ行くの?」私は理真に訊いた。
「横手病院」
「友美ちゃんと藍子ちゃんに話を聞きに?」
「殺された久慈村さんについて、病院の人に話を訊きに行こうと思って」
「久慈村さんのこと?」
「うん、正確には、久慈村さんの過去のこと。多分一筋縄では行かないでしょうね。何日か時間をかける覚悟よ」
「いったい何を調べようっていうの?」
「最後に残る動機を調べるのよ。久慈村さんの過去に、今回の事件の動機が隠されているはず。私の考えが確かならね」
「最後に残る、って?」
「あとは動機だけってこと。犯人もトリックも分かったから」
「ふうん、そうなんだ……えっ! 犯人? 誰なの?」
だが理真は私の質問には答えず、黙って愛車の運転席に乗り込んだ。
「分かりました……全てお話しします」
過去、横手病院で働いていた元看護師、新島幸子は、ようやく重い口を開いた。
理真の言った通り、やはり一筋縄では行かなかった。
久慈村医師と仕事上で関係のあった医師、看護師に尋ねること数十人、現役で横手病院にいる医師、看護師ではないだろうという理真の読みは当たっていた。すでに他の病院へ移ったもの、退職したもの、伝手を頼って接触し、青森県の小さな町でようやく探していた人物に出会えた。
最初の反応は芳しくなかった。当然口止めされているはずだ。久慈村が死んだことはニュースで知っていたという。何度も警察に行って全てを喋ろうかと考えたそうだ。しかし、口止め料として金銭を受け取った事実があり、また、引退する年齢である彼女らの世代にとっては、一度した約束を違えるということにも、かなりの抵抗があったに違いない。
「私は全てを知っています。新島さんの口からは、確認を取りたいだけなんです」
全てを知っているというのは理真のはったりだったろう。しかし、それで意思を揺さぶられたようだ。そして、次に言った理真の言葉が決定打となって彼女は籠絡した。
「どうしても話を聞かせてほしいんです。久慈村先生が過去に『リューゲルフェン製剤』を誤投薬したことについて」
友美と藍子は、病院に運ばれた翌日の夕方に退院した。樹実彦は意識の回復は見せたものの、容態が優れないため引き続き入院することとなった。友美と藍子が見つかったことを聞かされると、安堵の表情と、目には涙を浮かべていたという。
青森から帰ってきた翌日の日曜日。理真と私は部屋で呼び出した人物が来るのを待っていた。この家には今は誰もいない。好都合だった。窓から見える空は、いつひと雨来てもおかしくない曇天。
階段を上がってくる足音が聞こえてきた。私は思わず居住まいを正す。
さっきの『呼び出した』という言い方は、おかしかったかもしれない。私たちのほうから、彼女の部屋で会いたいと伝えると、今外出しているから勝手に上がって待っていて欲しいと言われたのだ。
ノックもなしにドアが開いた。
「安堂さん、江嶋さん、何ですか、用事って」
入って来るなり彼女はそう言ったが、私たちの用事は分かっていたのではないだろうか。
理真は静かに口を開く。
「自首して下さい。友美ちゃん」




