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娘のように、兄のように  作者: 長岡更紗
ロレンツォ編

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30/74

第30話 入試の日の彼女は

 コリーンが帰ってきたのはそれから二十分後のことだ。

 北水チーズ店まで往復十五分もかからないはずなので、なにかあったのかもしれない。しかしコリーンは帰ってくるなり部屋に入った。「明日入試だから、もう寝るね」と言い残して。


 次の日、コリーンを送り出すとロレンツォも出勤した。

 コリーンの元気がなかったようだが、大丈夫だろうか。試験に影響しなければいいがと思いながら、ロレンツォはリゼットの執務室に入る。中ではリゼットが困ったように笑っていた。


「昨日はヘイカーがごめんね、ロレンツォ」

「……いや。聞いたのか?」

「ええ、おおよそはね。あの子の言葉には偏りがあるから、鵜呑みにしてはいないけれど」

「今日仕事が終わった後、少しいいか? 話がしたい」

「わかった。終わり次第、貴方の執務室に行くわ」

「ありがとう」


 終業後の約束を取り付けたロレンツォはほっとした。

 とにかくリゼットには、約束を忘れてしまっていたことを謝らねばなるまい。それを知らせてくれたヘイカーには、心から感謝した。

 だがロレンツォの胸の内は、別のことで占められる。


(試験が始まった頃か。コリーンなら大丈夫だろうが、たまに抜けてるところがあるからな。試験会場までちゃんと辿り着いたんだろうな。今日は一段と寒いから、道が凍って滑って転んで怪我なんかしてないだろうか)


 一度不安に駆られると、そればかりを考えてしまう。

 コリーンに限って、と思うが、それはただの親バカだろうか。

 そんな不安に駆られた一日を終え、執務室で服を着替えて帰りの支度をしていると、リゼットが入ってきた。


「あ、ごめんなさい。着替え中?」

「別に構わんさ。俺の体くらい、何度も見たことがあるだろう?」


 そう言ってニヤリと笑うと、リゼットは頬を染めて視線を横に投げている。

 いつまでたってもスレない感じがいい。ロレンツォにも懐かしく、甘酸っぱい記憶が蘇る。

 着替え終えると、ロレンツォはリゼットの前へと足を運んだ。彼女はまだ、騎士姿のままだ。


「昨日は、すまなかった。大事な約束を、すっかり失念していた」

「こちらこそ、ヘイカーがいきなり殴りかかったようで、申し訳なかったわ」

「いいや、殴られるべきだったんだ。それどころか逆に殴り倒してしまったからな。奴には悪いことをした」

「ロレンツォ相手に、あの子は無謀なのよ。まったく、世話の焼ける……」

「リゼット。ヘイカーとはどういう関係だ?」


 単純な疑問だ。ヘイカーがリゼットのことを好きなのは、昨日の行動を見るに確定的だろう。リゼットの方はどうなのだろうか。


「別に……互いにアンナの家に出入りをしている、ただの知り合いよ」


 ただの知り合いと言われたヘイカーに少し憐れみを感じる。鈍感なこの女性は、自分が想われているなどと露ほどにも思っていないのだろう。


「貴方こそ、あのコリーンという女性とはどうなの?」

「……コリーンを知っているのか?」

「昨夜少し話をしたわ。可愛らしい女性ね」

「昨日、会っていたのか。コリーンは、なんて?」

「ロレンツォのことを庇っていたわよ。よほど貴方が大切らしいわね」


 コリーンとは家族なのだ。互いに大切に思っていて当然である。


「私との約束を忘れていたのは、あの女性が原因でしょう?」

「いや、そんなつもりは……」


 そう言いかけて、ロレンツォは言い淀んだ。つもりはない。が、コリーンと離婚した後、コリーンのことばかりを考えて、あのアパートに入り浸っていたのは確かである。


「結婚するの?」

「いや、まさか」

「ちゃんと考えてあげて。大切な人なんでしょう?」

「……ああ」


 大切な人であることに間違いはなく、ロレンツォはその言葉に肯定を示す。リゼットはそれを聞いて、寂しそうに笑っていた。


「私がいつまでも貴方との約束にこだわっていたせいで、くだらない争いをさせちゃったわね」

「……いや」


 ロレンツォの頭は、なぜか回らなかった。

 こだわっていたということは、今でもロレンツォが好きと同意義であるはずなのに、それに気付けない。

 それよりも、その前のリゼットの言葉が頭に響く。


(結婚? ちゃんと考える? 大切な、人……?)


 呆然としているロレンツォに、リゼットは背を向けた。


「ちゃんと話し合いの場を設けてくれて、ありがとう。私もこれからは前を向けそうだわ」


 そう言ってリゼットは出ていった。ロレンツォはその背中を、なにも言えずに見送るだけだった。

 しばらくぼうっとしていたロレンツォだったが、時計を見て慌てて本署を出る。

 今日のコリーンは入試だったのだ。すでに試験は終えて、家でロレンツォを待っていることだろう。コリーンなら大丈夫だろうが、出来具合を早く知りたい。


「ただいま、コリーン」


 急いで帰ってきたが、返事はなかった。鍵はかかっておらず、ロレンツォは首を捻らせる。


(そう言えば、前もこんなことがあったな。あの時は、確か……)


 ロレンツォはコリーンの部屋にそっと近付くと、中の様子を扉越しに伺った。すると案の定、中から激しい息遣いが聞こえてくる。


(最中か? とりあえず、声だけ掛けておくか)


 ロレンツォは軽くノックをし、声を上げた。


「コリーン、帰ったぞ。夕食はまだのようだから、今から作る。後でコリーンも手伝ってくれ」


 それだけを伝えて、その場を離れようとした時だった。


「はぁ、はぁ。ロ、ロレンツォ……ロレンツォ……う……」


(また俺を使っているのか?)


 眉を寄せて扉を見る。今声を掛けたというのに、えらく大胆だ。


「ロレン、ツォ……はぁ……待っ……開け、て……」

「……開けていいのか?」

「は、はや、く……」


 視姦されることに快感を見い出してしまったのだろうか。見ろと言われれば、見ないではないがと思いながら扉を開ける。

 そこにはまたもロレンツォの想像だにしなかった光景が広がっていて、ロレンツォは彼女の名を呼んだ。


「コリーン!」

「はっ、はっ……ロレンツォ……」


 自身のベッドの上に倒れ込んでいるコリーン。その体は汗ばみ、顔は赤く、苦悶に満ちている。

 ロレンツォはとっさに彼女の額に触れた。


「すごい熱じゃないか! 大丈夫か!? いつからだ!?」

「試験、受けてる……はぁ、最中に……」

「な……試験は、どうだった?」

「最後、の方……全然、解けなかっ……げほっ」

「……そうか……」


 ロレンツォは己の拳を握り締めた。明らかに、昨晩ヘイカーを送っていったせいだろう。この寒いのにコートも羽織っていなかった気がする。それでなくともアクセルのことで、心を痛めていただろうというのに。


(俺のせいだ……っ)


 コリーンのこの一年の頑張りを無駄にしてしまったかもしれない。自分がリゼットとの約束を覚えていなかったせいで。誰よりもコリーンを応援していた自分が、足を引っ張ってしまった。自責の念がロレンツォを襲う。


「……なにか、食べられそうか?」

「みず、飲みたい……」

「わかった」


 ロレンツォは水を汲んで口に含ませてやる。そして布を湿らせてその熱い額に当てた。

 コリーンはよほど苦しいようで、なにも口を聞かなかった。試験の結果を考えて落胆しているのかもしれない。

 ロレンツォは夜中もずっと、コリーンの看病をした。しかし朝になっても、一向に熱が下がらない。


「コリーン、少しの間一人でいられるか? 医者を呼んでくる」

「うん……ディーナさんに、休むって、伝えて……」

「わかった。すぐ戻るから待っててくれ」


 ロレンツォは医者に往診に来てもらうよう頼み、ヴィダル弓具専門店に寄ってコリーンがしばらく休む旨を伝えた。最後に騎士団本署に行き、自分も欠勤すると伝える。

 休む理由をなんにすべきか悩んだが、大切な人が風邪を引いたと正直に話した。今まで一度も休んだことのないロレンツォである。たいそう驚かれてしまったが、快く承諾してもらえた。

 帰りがけにリンゴを買って帰ると、それを剥いて部屋に持って入った。


「コリーン、リンゴなら食べられそうか? すりおろしてやろうか」

「だい、じょ……食べる……」


 ぜぇぜぇと言いながらコリーンは起き上がる。そしてリンゴを手に取ると、シャクリと食べた。


「ロレンツォ……仕事、でしょ……」

「休んだ」

「………え?」

「仕事は休みを取ったんだ。だから気にしなくていい」

「そ、んな……休んだこと、なかったのに……」

「こんな時くらい休んだって、バチは当たらないさ」


  コリーンがまだ幼い時に、こうやって休みを取って一緒にいてやればよかったという後悔が生まれた。

 あの時は、自分のことだけで精一杯だった。早く昇進することがコリーンのためになると思って疑わなかったのもある。

 風邪の時。しかもまだ幼い時分。どれだけコリーンは寂しかったことだろうか。

 これは、自己満足の償いに過ぎない。彼女が幼い頃、面倒を見てやれなかったことへの。そして、まともに入試を受けさせてやれなかったことへの。


(ごめんな、コリーン……)


 リンゴを食べて眠ってしまったコリーンの髪を、そっと撫でる。

 もし大学に落ちていたら、コリーンはどうするつもりだろうか。確か四月からは仕事を辞めると言って、ヴィダル弓具専門店は新しい人を雇ったようだった。その引き継ぎが済めば、コリーンまで雇う余裕はあの店にはないだろう。

 新しい職を探しながらまた勉強を始めるのだろうか。コリーンの大事な一年を奪ってしまったかもしれないことに、やはり罪責感が募った。


 医者が往診に来て薬を処方してもらうと、夜には随分とよくなっていた。

 汗臭いのでお風呂に入りたいというコリーンを制し、無理やり寝かしつける。


「もう。大丈夫なのに……汗臭いのって、地獄……」

「大袈裟だな」

「大袈裟じゃないよ、本当に泣きそう。ロレンツォ、香水持ってる?」

「コリーンセレクトならな」

「つけてよ」

「俺がつけるのか?」

「ロレンツォじゃないと、あれは似合わないもん」


 ロレンツォは自分の部屋に入るとコリーンセレクトをつけて戻る。息を吸い込んだコリーンが、ほっと顔を和らげた。


「はぁ。ロレンツォの香り。ほっとするなぁ」

「じゃあ今日も一晩、隣にいてやろう」

「え? もう大丈夫だけど」

「俺がいないと、汗臭くて眠れないんだろう?」

「汗拭いて着替えれば、マシになるでしょ。大丈夫だよ」

「そうか。じゃあ俺が必要な時はいつでも呼んでくれ。じゃあな、おやすみコリーン」

「おやすみ。明日は仕事行ってね、ロレンツォ」

「ああ」


 熱が引き始めてほっとするも、やはり心にしこりが残った。


(合格発表は、来週か……。受かっていればそれでいい。しかし落ちていたら……俺は、どうする?)


 ロレンツォは、自問自答を繰り返しながら眠った。

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