第23話 祖父との約束
天正9年(1581年)5月 近江・長浜城 竹若
北近江の国人衆が城を辞してから、十数日が過ぎた。
評定の間から人が消え、城は平穏な日常に戻った。
だが静けさの底で、何かが動いている気配は消えない。
噂は、風より早い。
帳面を抱えて廊下を歩いていると、遠くで近侍の侍達が話している。
「磯野殿が、若様を認めたそうだ」
「“あの子は地侍や国人の理を知っている”と…」
会話の内容が、私の耳にも入ってきた。
私は足を止めない。振り返りもしない。
ただ、胸の奥にひとつ石を置くように、その言葉をしまった。
――磯野員昌。
私の祖父。
旧浅井家の重臣であり、北近江の武断派の象徴だ。
国人衆は、羽柴の命よりも、磯野の顔色を見て動くことがある。
理屈ではない。戦国の土地には、そういう「重み」が残っている。
だから、あの老人の言葉が広まった意味は小さくない。
だが同時に、私は思った。
国人衆の心をほどくのは、言葉でできる。
だが、いざという時に城を守るのは言葉ではない。
ーー兵だ。
約1年後に起こる本能寺の変。
この長浜も騒動に巻き込まれる。
できればその時までに、自分達を守る力がほしい。
羽柴の兵ではなく、羽柴の家族を守る兵が。
難しいことはわかっている。
だが、何かきっかけがあれば。
その「きっかけ」が、思ったより早く訪れた。
数日後の朝、母のもとへ使者が来た。
私は居間の端で書を読んでいたが、母の声が少し硬くなったのを聞き、耳を澄ませた。
「父上が……こちらへ?」
使者は深く頭を下げた。
「はい。秀長様よりの御沙汰と聞き及びました」
「小堀様に、国人衆の軍役の状況を取りまとめよとご指示があり、それにあたり、磯野様の所見を踏まえよと」
母は一瞬、私を見た。
私は書を置き、黙って頷いた。
「承りました。お迎えの支度を致します」
使者が下がると、母は小さく息を吐き、私の側へ寄ってきた。
「竹若殿、お祖父様が来られるそうです。嬉しい?」
「……いえ、特には」
そう答えた自分の声は、我ながら少し硬かった。
「嘘」
母はすぐに見抜いた。
「あなたは、嬉しい時ほど顔を動かさないの。昔から」
図星だった。私は視線を逸らした。
祖父は、多くを語らない。
褒めもしない。叱りもしない。
ただ、必要な時に立ち、必要なことだけをして、黙って去る。
不器用で、無愛想で、融通も利かない。
それでも――
嘘をつかない。
約束を違えない。
母は、私の横顔を見つめながら言った。
「父はね、人付き合いが下手なの」
「そう…思います」
「でも、身内には不器用なりに、ちゃんと情を向ける人よ」
私は、小さく頷いた。
その通りだと思った。
私は、あの背中が嫌いではなかった。
先日の国人衆の諍いで、ずいぶんと褒めてくれた。
力で押し通すだけでなく、政もわかっている。
なによりも、同じ土地に生きる者たちへの愛情がある。
祖父と孫として、ただ話がしたい。
顔を見て、声を聞いて、同じ時を少し過ごしたい。
それだけで、十分だった。
だが、もし、同じ血を引く者として、力を貸してもらえるなら――
それはきっと、心強いことだろう。
母は、そっと私の頭に手を置いた。
「嬉しいなら、嬉しいって顔をしていいのよ」
「……努力します」
母は、声を立てずに笑った。
昼前、城下がざわついた。
「磯野様が来られるぞ」
門の方から声が飛び、武具の鳴る音が近づく。
私は母に伴われ、表の間に座した。
形式上は私的な挨拶の場だが、家中の目が集まるのが分かる。
やがて、襖が開いた。
磯野員昌は、黒ずんだ鎧に身を包み、腰の刀を揺らしながら入ってきた。
背は少し丸くなっているが、歩幅は広い。目が鋭い。
年を取っても、戦場の眼だ。
母が深く頭を下げる。
「父上。よくお越しくださいました」
「……うむ」
それだけ言って、磯野は私を見た。
私は膝を正し、頭を下げた。
「竹若にございます」
磯野の鼻が鳴った。
「先日の裁きは見事だった」
「その齢にしては、度胸、洞察力、機転、なかなかのものよ」
それは褒め言葉....だな、それしかない。
そう受け止めよう。
「過分なお褒めの言葉、ありがとうございます」
「しかし、裁いたのは私ではありません。結論を出したのは小堀殿です」
「ふん」
「小堀にも言われたであろう、お主が流れを変えたのよ」
「お主の手柄よ」
「それにしても、その賢しらな口ぶり、羽柴の血か?」
このとき、話を遮るように母が茶を出してきた。
「ご存じないのかもしれませんが、この子は私の子で、父上の孫でございますよ」
「それをおっしゃるなら、父上の血では」
磯野はバツの悪そうな表情を浮かべ
「わかっておるわ」
「誰もお前の子であることを否定してはおらぬ」
そう言うと口の端を上げて続けた。
「あの時も言ったが、国人は、田や水だけを争っているわけでない」
「領民に対して、家に対して、家中に対して、拳を下ろす理由が要る」
「それを作れば、滅多なことでは刃は抜かん」
私はじっと磯野の目を見つめ、静かに頷いた。
磯野の目が細くなる。
「ほう。この理屈を、7つにして理解しているとは」
そして、茶を一口飲んだ。
「秀長がわしを呼んだのは、兵のことのようだ」
「はい、そのように聞いています」
私は頷いた。
「北近江で動員できる兵は、羽柴直率となり三割ほどが播磨、但馬方面へ出ておる」
「もとより多くは半農半兵だ。根こそぎ動かせば、田が荒れる」
「西の攻略にどこまで出せるか、それを調べよという話よ」
私は杯に触れず、磯野をじっと見た。
「お祖父様」
磯野の眉がわずかに動く。
「……少しお願いがございます」
「願いだと?」
「はい」
私は一度息を整えた。
「北近江が、すぐに戦場になるとは思っておりません」
「敵に囲まれているわけでもありません」
磯野は黙って聞いている。
「ですが、国は得てして、外からではなく先に中から崩れます」
母の背が、わずかに強張ったのが分かった。
「織田の家も、羽柴の家も、急速に大きくなりました」
「誰か一人が欠ければ、もしくは思わぬ一つの事故で、均衡は崩れるかもしれません」
「そのとき、どの家が武を持つかで、立つ場所が決まります」
磯野が低く言った。
「……羽柴の家は、武が弱いと言いたいのか」
「武ではありません。羽柴は累代の土地も家臣も持たぬ家」
「寄って立つものが弱い...そう思います」
磯野は黙ったまま、湯呑を見ている。
私は言葉を続けた。
「織田家とは申しません。羽柴とも申しません」
「私の家族に大事が出来したとき」
「磯野員昌の孫である私に力を貸していただきたい」
「私の背後に武の家があると示したい」
座敷の空気が、静かに張りつめた。
磯野は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低く言う。
「今のこの織田の世で、お主は何を見て、何を感じているのだ?」
「今は戦国、下剋上の世。確かに、この先何が起こるか誰にもわからんが…..」
私は、瞬きもせず磯野の目を見つめ続けていた。
しばらくして、磯野は短く鼻で笑った。
「本当に、7つの口で言うことではない」
「お主が何を考えているかは知らんが」
「少なくとも、目の前の損得だけで物を言っておらぬことは分かる」
「家の先を見ている」
「それも、1年や2年先ではない」
磯野は、ゆっくりと息を吐いた。
「秀長は、よい男だ。情があり、頭も切れる。政もできる」
「だが――」
言葉を切り、私を見た。
「戦国の世は、政だけでは渡れん」
「家を守るには、理屈の裏に、刃が要る」
母が、そっと唇を噛んだ。
「お主の言う通り、羽柴は若い家だ。根も浅い」
「風向きが変われば、簡単に倒れる」
磯野は、低く笑った。
「だからこそ、面白い」
私は思わず瞬きをした。
そう言ってから、磯野は立ち上がった。
畳が、重く鳴る。
そして私の前に立ち、ごつごつした手で、私の頭を押さえた。
「その願い、受けてやる」
私は、息を呑んだ。
「磯野の兵は、磯野の兵だ」
「誰かに貸して使い捨てるものではない」
「だが、お主が立つ時」
「お主が自らの名を背負い、前に出る時」
「その背後に、わしは立つ」
「武の家として、祖父として」
胸の奥が、静かに熱くなった。
私は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
磯野は鼻を鳴らした。
「礼などいらん、その代わりに覚えておけ」
「わしは、お主を守る」
「だが、お主が百姓を捨てるなら」
「無駄な戦で人を擦り潰すなら」
「その時は、わしが最初に刃を向ける」
私は顔を上げ、まっすぐに答えた。
「その時は、そうしてください」
磯野の口の端が、わずかに上がった。
「よい顔だ」
そして母を一瞥し、
「……お前の子だな」
それだけ言った。
母は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、父上」
磯野は返事をせず、踵を返した。
去り際、
「今の話は帳面に書くなよ。腹内にでも書いておけ」
そう言い残し、襖の向こうへ消えた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
ブックマーク・評価・感想をいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。




