第22話 北近江の裁き
天正9年(1581年)4月下旬 近江・長浜城 竹若
今後の方針を決め、まずは本能寺の変までの1年と少しを、どのように過ごすか考えあぐねていた矢先。
民にとって命そのものである田畑に争いの火がつき、避けようもなく広がった。
北近江、塩津の里と高月の里。
どちらも浅井の旧領で、今は羽柴家の支配下にある。
その二つの里を潤す用水路が、春先の増水で崩れた。
誰が直すか。
どこまでが誰の田か。
水を先に引くのはどちらか。
小さな主張の違いが積もり、やがて百姓同士の殴り合いになり、ついには里を束ねる国人同士が槍を持って向き合った。
本多俊政が兵を率いて割って入らなければ、小競り合いでは済まなかっただろう。
――その裁定の場が、長浜城に設けられた。
評定の間には、重苦しい空気が漂っていた。
上座には小堀正次
その脇に羽田正親
下座寄りに磯野員昌
壁際に本多俊政
そして、隅の席に――私、竹若
磯野員昌は腕を組み、深く腰を下ろしていた。
浅井の重臣。
北近江では今も「磯野殿」と呼ばれる男。
そして、母・お初の父。私の祖父だ。
白髪は増えたが、背はまだ真っ直ぐで、目だけが獣のように鋭い。
「水だの境だの……」
磯野が吐き捨てる。
「そんなもの、どちらかに決めてしまえば終わりだ」
「曖昧にするから揉める。揉めるから血が流れるのだ」
国人衆が息をのむ。
羽田が抑えるように言う。
「容易に決められるのであれば、このようなことにはなりませぬ」
「汗水流して耕した田畑は百姓たちの宝。簡単には譲れませぬ」
「里を束ねる国人衆も折れることはできませぬ。折れれば信を失います」
「それをまとめるのが国人衆の役割ではないか」
「己で決められぬからと、ここに問題を持ち込みよって」
磯野は一顧だにしない。
その声は低く、戦場の匂いがした。
証文が出され、双方の言い分が述べられる。
「祖父の代からこの水だ」
「浅井様の朱印状がある」
「戦功で与えられた土地だ」
どちらも嘘は言っていない。
だが、決まらない。
議論は堂々巡りだった。
そのとき、小堀が私を見た。
「……竹若様、何かございますか」
場の視線が集まる。
私は一瞬だけ迷い、口を開いた。
「分からないことがあります」
磯野員昌が睨む。
「何だ」
「昔と今で、境目は同じなのですか」
羽田が答える。
「この度の増水で川筋がずれました」
「では」
私は続けた。
「昔の約束通りに分けるのは、難しいのではありませんか」
小堀が小さくうなずいた。
私は国人衆を見た。
「どちらも、自分の里を守りたいだけですよね」
二人の国人は、黙ってうなずいた。
「利益は争うものではなく、分けるもの」
「一方が利を得る解決策は、結果的に双方にとって損をすると父から教わりました」
「それはこの地を預かる我々にとっても良策とは言えないのでは」
それだけ言って、私は口を閉じた。
磯野が鼻で笑った。
「甘い」
そう吐き捨てた。
だが、その目はわずかに細まっていた。
(裁定ではなく、落とし所を探るか…)
(それに、本当の利益が何かを知っている)
そう気づいたことを、磯野は口には出さなかった。
代わりに、じっと小堀の目を見つめた。
何かを促すように。
磯野と目で会話をしていた小堀が小さく頷き、沈黙のあとを引き取った。
「水路を新たに掘り直す」
「費用は羽柴家が出す」
国人衆がざわめく。
小堀が続ける。
「両里をしばらくの間、管理下に置く」
「加えて、年貢は今年だけ、収穫高で調整する」
国人衆は顔を見合わせた。
譲ったわけではない。
奪われたわけでもない。
面子は保たれ、実利もある。
塩津の国人が、ゆっくりと頭を下げた。
「……異存ありません」
高月も続いた。
両人は横目で相手の顔を確認し、そして頷いた。
その後、短く礼を述べ、腰を低くして部屋を出ていった。
両人が退室してすぐ、磯野が立ち上がった。
畳が小さく鳴る。
そのまま迷いなく私の前まで歩み寄り、見下ろした。
「……竹若」
低い声だった。
「甘いと思った」
私は何も言わず、ただ背筋を伸ばして受け止めた。
「だが」
磯野は、自分の分厚い胸を拳でごつりと叩いた。
「ここをわかる者は、そうはいない」
「水や土地は、確かに争いの種だ」
「だが……あやつらが本当に欲しかったのは、それではない」
私は小さく息を吸った。
「……立場、ですか」
磯野の口角がわずかに上がった。
「そうだ」
「国人というのは、土地よりも先に“顔”で生きておる」
「誰の下につくのか、どこまで許されるのか、どこからが奪われるのか」
「それが曖昧になれば、刀を抜くしかなくなる」
私は頷いた。
「はい」
「今の北近江で、血を流して猫の額ほどの土地を奪い合うのは愚かだ」
「それは、あやつら自身が一番よく知っている」
磯野は鼻を鳴らした。
「百姓は減り、田は荒れ、年貢は落ちる」
「勝っても、負けても、損をする」
「だがな」
そして、ぐっと拳を握った。
「一度上げた拳は、理屈だけでは下ろせん」
「面子というのは、命と同じくらい重い」
「だから――」
視線が鋭くなる。
「“自分たちが勝った形”を用意してやる必要がある」
「領民の前で胸を張り、家中で顔を保てる条件をな」
磯野は豪快に笑った。
「争いの種を、手柄に変えてやった」
「水路は羽柴の金で掘る」
「だが、あやつらはこう言うだろう」
声色を変え、芝居がかった口調になる。
『我らが殿に直訴し、里を救ったのだ』
「……とな」
腹の底から笑った。
「見事なものだ」
そして、私の頭を乱暴なくらい強く撫でた。
「甘いが、甘いだけではない」
「戦をせずに勝つ手口を知っている」
「武の家に生まれて、武を使わぬ勝ち方を覚えおった」
「それは才能だ」
評定の後、小堀正次が静かに私のもとへ来た。
「竹若様」
声は低く、慎重だった。
「今日の裁き……」
一瞬言葉を選び、
「領国経営の要そのものでございました」
私は首を振った。
「私はこの争いから得られるものに疑問を呈しただけです」
「決して裁いたわけではありません」
「解決策を出したのは小堀殿です」
「いえ」
小堀はきっぱりと言った。
「この争いに益はないと、核心をついたのは若君です」
「羽柴が金を使うことが、最も損がない方法だと気づかせていただきました」
「あの場にいた者全員が、解決の流れを作ったのは若様だと思っております」
「ですので、磯野殿があれだけお褒めになったのです」
そして、口角を少しだけ上げ、明るい声で続けた。
「争えば、領民の心に傷が残ります」
「金は減ってもまた増えます」
「それに、金は使うところで使わねば、ただの鉄クズです」
私は何も言えなかった。
小堀は深く一礼した。
その日を境に、北近江の国人衆の間で噂が立ち始めた。
「秀長様の御嫡子は、話を聞く」
「我らの立場を分かっている」
「勝ち負けより、家を残すことを考える方だ」
「子供だが……油断ならぬ」
やがて、言葉は変わっていく。
「治める、ということを知っている」
「人の心を知っている」
そして、必ず最後に付け加えられる。
――磯野員昌が認めた。
北近江では、それは武功一つに匹敵する重みを持つ名だった。
浅井の世から、戦で生き残ってきた男の評価。
まだ7つ。
城も持たず、兵もない。
だが――
国人たちは、その名を覚え始めた。
値踏みするように。
そして、少しの期待を込めて。
羽柴竹若。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
ブックマーク・評価・感想をいただけますと、今後の執筆の大きな励みになります。




