第20話 動きだす歯車
天正9年(1581年)4月 近江・長浜城 竹若
この世界に生まれて、7年目になる。
これまで、私の知っている歴史通りに、世界は動いている。
私の見えない場所で違う何かが起きている可能性はあるが、少なくとも、見えている範囲では歴史の流れは狂っていない。
ならば――
天正10年6月。
本能寺の変。
これも、間違いなく起きる。
今から約1年後、明智光秀は謀反を起こし、織田信長が討たれる。
京は混乱し、畿内は割れ、天下は宙に浮く。
そして羽柴秀吉が中国から引き返し、山崎で明智光秀を討ち、豊臣の時代が始まる。
私は長浜城の一室で膝の上に小さな帳面を広げ、その未来を反芻していた。
そのとき、足元で「くぅ」と小さな声がした。
「……マル」
白と薄茶の毛が混じった小さな塊が、帳面の端に鼻先を押しつけている。
先日、父から贈られてきた柴犬の子犬、私の愛犬、相棒のマルだ。
「今は遊ばない」
そう言っても、分かるはずがない。
マルは尻尾を振りながら、私の袖を軽く噛み、引っ張った。
「……やめろ。墨がつく」
仕方なく帳面を閉じると、勝ち誇ったように前足を膝に乗せてくる。
5歳の頃から書き続けてきた年表は、すでに何度も書き直され、墨の濃淡で層をなしている。
私はマルの頭を撫でながら、再び帳面を開いた。
本能寺
中国大返し
山崎
清洲会議
賤ヶ岳
小牧長久手
天下統一
そして――
指先が、二十年ほど先の一行で止まる。
豊臣滅亡
関ヶ原....大坂の陣...家名断絶
歴史学者だった私にとって、この流れは「必然」だった。
論文の中ではそう呼び、講義では「構造的崩壊」と説明していた。
だが、実際にその時代の中に立ってみると、その言葉はずいぶんと無責任に思える。
勝っているのだ。
羽柴は、あまりにも鮮やかに勝ち続ける。
全国規模の動員、未曾有の兵站。
それが可能とした、小田原征伐、そして朝鮮出兵。
どれも戦国の常識から見れば狂気だが、それを可能にしたのは偶然ではない。
検地
刀狩
奉行衆
兵站網
動員制度
戦国大名の寄せ集めに過ぎなかった軍勢は、「国家の軍隊」に変質していく。
秀吉は、その異常な装置を作り上げた天才だった。
マルが、私の膝の上で丸くなる。
「……重い」
そう言いながらも、どかすつもりはない。
―そんな豊臣が滅びる。
私は帳面を閉じ、マルの背中に手を置いたまま、天井を見上げた。
豊臣政権の崩壊は、誰かの裏切りや一度の敗戦で起きたものではない。
原因は大きく三つある。
一つ。
官僚集団と武断集団の分裂。
石田三成ら文治派の正しさと、福島正則ら武断派の怒り。
そのどちらもが正しく、そのどちらもが国家を壊す。
制度は武功を冷遇し、武功は制度を憎む。
正義と正義が刃を交え、国家は二つに割れる。
二つ。
権力の個人集中。
秀吉はすべてを決める。
誰も止められず、誰も代われない。
三つ。
後継者の不在。
家がない。
血統がない。
跡を決める制度がない。
豊臣という政権は、幸運と奇跡の連続で成立した。
だが、幸運や奇跡は相続できない。
マルが寝返りを打ち、腹を見せた。
「……無防備すぎる」
喉を撫でると、満足そうに目を閉じる。
本能寺は起きる。そして、最後に秀吉は勝つ。
それ自体は変えない。変えられない。
武力も権力もない今の私には、この流れを止める術はない。
なにより、羽柴の中枢に生まれた以上、それを邪魔する理由もない。
何もせずとも、天下を治める家の中心で、それなりの地位につけるのだから。
たが、それは途中までだ。
おそらく、私は第二の秀次になってしまう。
そして豊臣は崩壊する。
その潮流に流されないよう、手を加えていく必要がある。
−私が。
豊臣が「残る家」になるよう、流れは変えられる。
構造は整えられる。
そのためには、先にあげた3つの問題
官僚集団と武断集団の分裂
権力の個人集中
後継者の不在
これに、時間をかけて介入していくことが必要だ。
本能寺の変が史実通りに起きるなら、そのあとすぐに清洲会議が開かれる。
これに介入する余地はあるのだろうか。
清洲会議は、本能寺の変の後、織田家の後継と領国配分を決めるために開かれた会議だ。
出席したのは、織田家重臣の柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の四名。
最大の争点は「誰を織田家当主とするか」
最終的に秀吉の案が通り、信忠の子・三法師が織田家の当主となった。
秀吉は、以後「織田政権の後継者」としての立場を強めていく転機となる。
......これは、変に介入してはいけない。
秀吉の政治力、外交力が遺憾無く発揮され、この時点で秀吉が得られる最大限の利益を享受している。
これ以上、望むものはない。
やはり、当面は、政権内の構造改革に目を向けたほうがよい。
そのために知識を蓄え、周囲の信頼を得てきた。
父・秀長の延命にも気を配っている。
目立たぬよう小さな実績を積み上げ、秀長の嫡男は麒麟児という世評も作った。
秀吉のおぼえも、悪くはない。
誰が政権を継ぐのか。
武断と文治をどう同じ国家に押し込めるのか。
秀吉という天才を、どう「王」から「制度」に降ろすのか。
戦場で剣を振るう必要はない。
必要なのは、国家の土台を変えることだ。
私は父・秀長の姿を思い浮かべる。
穏やかで、実務家で、英雄にはならない人。
そして伯父。
笑顔が多く、残酷で、情に脆く、誰よりも人を欲しがる男。
マルが小さく鼻を鳴らした。
「……守るからな」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
豊臣政権を、続く国家に変える。
徳川にこの国は任せない。
農本主義と朱子学に縛られた、息の詰まる国にはしない。
もっと自由で、もっと豊かな国へ。
マルの頭を抱え、額を軽く押しつける。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は連載を続けながら、表現や構成を見直しつつ推敲を重ねています。
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