第16話 眠らぬ父 ー秀長の延命に向けて
天正9年(1581年)1月 近江・長浜城 竹若
安土での滞在を終え、父とともに長浜に帰ってきた。
数日ではあるが、播磨に戻るまで時間があるようで、長浜の母や家臣に会いたいということだった。
この間、父と一緒にいる時間が多かったため、ゆっくりと観察することができた。
今の時点で、父に、病気の気配はない。
顔色は悪くない。
声にも張りがある。
歩調も確かだ。
武具を着けても苦にしないし、馬にも変わらず乗る。
どこから見ても、健康な武将だった。
だが――眠らない。
正確には、眠る時間を削っている。
夜、父の部屋の灯りが消えるのは、丑三つ時を過ぎてからだ。
鶏が鳴くより前には起き、すでに書付に目を通している。
評定、訴訟、国人の調停、兵站の指図、城普請の手配、年貢の算定。
それを、毎日。
家臣たちは口をそろえて言う。
「羽柴殿は鉄人だ」
「政務の鬼だ」
「殿下(秀吉)が戦に出られるのも、羽柴殿が後を守っているからだ」
称賛であり、事実でもある。
だが私は知っている。
父・秀長は、鉄でも鬼でもない。
ある夜、母が私を自室へ呼んだ。
人払いをしたあと、灯りを少し落とし、静かな声で言う。
「竹若……殿のことです」
「父上が、どうかされましたか」
「食事を残されることが増えました。夜半まで起きておられるのに、朝は変わらず評定へ出られる」
母は膝の上で手を重ねた。
「今は問題はないように見えますが……このままで良いとも思えません」
私は首を横に振った。
「私も良くないと思います」
「竹若殿にはどのように見えますか」
私は正直に答える。
「母上の言うとおり、今は病の兆しはないように思います」
「少なくとも一緒に過ごしている間、そのような気配は感じませんでした」
「しかし、今後もそうだという確証はありません」
母は不安で言葉がつまる
「では……」
「疲れは人を削っていきます」
「……削る?」
「人は、少しずつ壊れます。一気ではありません」
母は唇を結び、しばらく黙っていた。
翌日、私は母とともに小堀正次を訪ねた。
秀長の右腕であり、政務の実務を知り尽くした男だ。
母は率直に言った。
「殿には内密で、相談したいのです」
小堀は表情を変えずに聞き、やがて低く答えた。
「……実は、私も心配しておりました」
「どういうところですか?」
「書付の読み違いが、月に一度ほど」
「……」
「使者の名前を取り違えられたことも」
どれも致命的ではない。だが、兆しだ。
「殿は倒れぬ方です。だが……」
小堀は言葉を選んだ。
「削れた刃は、いつか折れます」
母は目を閉じ、顔を伏せた。
そんな母を見た小堀が、努めて明るい調子で言った。
「薬師を呼びましょう」
「越前から渡ってきた薬師に心当たりがございます。京で本草学を学んだとか」
母はパッと顔をあげ、力強く答えた
「呼んでください。すぐに。」
2日後、壮年の薬師が城に入った。
父には、お疲れの具合を母が心配しすぎて、母が病気になりそうだと、私と小堀が説得し、診察を受けてもらうことに成功した。
診察といっても、この時代のものは簡単なものだ。
脈を取り、目の奥と舌を見、腹を軽く押す。
私は母と小堀とともに、その場に同席した。
「病ではありません」
薬師はそう断言した。
「ただし……“労倦”が深こうございます」
「労倦?」
父が聞き慣れぬ言葉に疑問を挟む。
「働きすぎによる消耗です」
薬師が補足する。
「気血が減り、内臓が乾き始めています」
「今は支障はなくとも、このままでは判断力が落ち、いずれ臓を損ねます」
私たちが、薬師に予め心配ごととして伝えていた言葉をうまく発する。
こいつ、なかなかの演者だ。
母の顔が強張る。
「それは……治せるのですか」
薬師は首を振った。
「治療というほどのものではありません」
「養生です」
私は口を開いた。
「養生とは、どのような?」
薬師は私を一瞬見て、穏やかに答える。
「眠り、食し、温め、補う」
「強い薬は不要です」
「人参、黄耆、当帰、地黄、なつめ。いずれも滋養の草です」
薬師がこれらの文字を紙に書き留めながら言った。
「煎じて飲むのか?」
「病気でもないのに、薬を飲む必要はあるまい」
父が苦情を申し立てる。
「いやいや、薬というものではございません。身体によい膳を召し上がっていただくのです」
薬師がうまく誘導する。
「汁物、粥、煮物の献立をお渡ししましょう」
薬師が提案し、母が強い言葉で了承する。
「ありがとうございます。ぜひお願いいたします」
母が深く頭を下げた。
この流れでは父は拒絶することができず、ただ頷くしかなかった。
だが、問題はもう一つあった。睡眠だ。
「薬より、眠りの方が大切です」
薬師は言った。
「殿は、眠られません」
母の声はかすれていた。
母がちらっと父の顔を覗きこみ、父は苦笑いを返した。
そのあと、父は気を取り直し、威厳のある口調で言った。
「私は兄者から長浜の政を任されておる。北播磨、但馬もだ。」
「やならければならぬことが多いのだ」
「休んでいる暇などない」
ここだと思った私は、懐から小さな紙を取り出し広げた。
この時のために父の書庫で見つけてきた言葉だ。
「呂氏春秋に、こうあります。
中山の俗、
晝をもって夜となし、
夜をもって日に継ぎ、
もとより休息無し。
これ亡国の風なり。
国が滅びる前には、政治や制度以前に生活様式・行動様式が崩れる、という意味です」
「生活の基本が乱れると、それはゆくゆくは国の乱れに繋がります」
「孫子にもこのような言葉あります
近きをもって遠きを待ち、
佚きをもって勞れたるを待ち、
飽けるをもって饑ゑたるを待つ、
これ力を治むる者なり。
近くに陣して遠くの敵を待ち、休養した状態で疲れた敵を迎え、十分に食べて飢えた敵に対する。これこそが戦力を適切に管理・運用する方法である、ということです」
「いざというとき、大将が疲れた状態では、十分に戦うことはできません」
「戦国の世、いつでも勝つ準備を忘れないこと、これは将の務めではありませんか?」
小堀が小さく息を飲んだ。
薬師は口を開けたままあっけに取られている。
父は私が急に漢籍を持ち出したことに驚き、上擦った声を出した。
「いつのまに漢籍を読めるようになったのだ」
「孫子や春秋を引いてくるとは…まるで半兵衛殿のようではないか」
しばらく無言で私の顔を見つめていただが、徐々に気を取り戻し、言葉の意味を思案しだした。
腕を組み、考えに浸る父を横目に、母が決意したように言った。
「殿、“政務のため” 少しでよろしいので療養を」
「眠らねば、判断の誤りに繋がります」
「私と竹若のためと思い、何卒」
私は続ける。
「父上は、羽柴の要です。父上が誤れば、羽柴が誤ります」
小堀は苦く笑った。
「殿には、それが一番効きますな」
父も苦笑するしかなかった。
その夜、小堀が父の元に行き進言した。
「殿、夜の書付は奉行衆で整えます。朝にまとめてご覧ください」
「今後は、薬師に書かせた献立をもとに膳を作りますので、それを召し上がっていただきますよう」
「これはお方様のたってのお願いにございます」
父は眉をひそめた。
「皆がそこまでいうのであれば、従うことにしよう」
「それにしても、我が子から将の心得を説かれるとはな」
「私もまだまだだな」
父と小堀、お互いの妻が姉妹という、義理の兄弟が顔を見合わせて笑った。
7歳になる嫡男がどのような男になるのか、将来への期待を膨らませ、しばらく声もなく笑い合った。
その夜、父はいつもより早く部屋の灯りを消した。
翌日から、膳が変わった。
滋味のある汁物。やわらかい粥。甘みのある煮物。
「飯がうまいな」
父はそれだけ言って、膳を平らげた。
母は黙って微笑む。
私はそれを見て、胸の奥で静かに思う。
父は史実では、10年後に病死する。
それを止める。過労とストレスを緩和し、滋養のある食事を続けていけば効果は出るはずだ。
そして、すぐには変化は表れないが、これはれっきとした未来の改変だ。
私は父を守る。
本能寺から先に、変えるべき運命が、作っていきたい未来がある。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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