第15話 本能寺の男
天正9年(1581年)1月 近江・安土城下 竹若
その男の名を、私は何度も史料の中で見てきた。
明智光秀。
織田信長を討ち、天下を僅か10日あまり握り、そして山崎で敗れ落ちていく
―本能寺の変という巨大な渦の中心に立つ人物。
だが、今の私にとって彼は、まだ裏切り者でも謀反人でもない。
織田家中でも指折りの知将であり、坂本城主にして丹波平定の功臣。
律儀で、理知的で、そしてどこか疲れた目をした武将だ。
天正9年の新春。
私は父・秀長に伴われ、安土へ来ていた。
織田家の主だった諸将が年賀の挨拶で安土城に集まっている。
秀吉は播磨の情勢を鑑み、配下の国人や地元有力者との関係を優先して、安土には来ていない。
新年から少し時間を経て、弟の秀長を代理として安土に遣わした。
私は、外の世界を見るいい機会だということで、父に安土に呼び寄せられた。
さすがに城内に子供を伴うわけにはいかないが、安土という天下の中心を見せることが教育になる。
―父はそう考えたのだろう。
滞在先は、安土城下にある秀吉の屋敷。
私が安土に着いた翌日に父も到着し、久しぶりの父と息子の対面を果たした。
少し疲れたように見えるが、まだ歳は40歳、働き盛りの精悍な武将だ。
以前の蔵米の一件をことのほか褒めてくれた。
問題の核心に気づき、すぐさま良案を考え、実行したこと。
なにより、周囲に相談し、政策決定と実行の「形」を整えたことに感嘆していた。
父らしい評価だなと思った。
―父に褒められる。
前世の記憶をもつ私でも、息子が父に褒められるということはこれほど嬉しく、自尊心が満たされるものなのか。
もっと褒められたい。
前世から通算して45歳を超えた自分でも不思議なくらいそう思った。
そのあとは、母のこと、ねね様のこと、小堀や羽田のことなど身の回りの話をして親子団欒を楽しんだ。
翌々日、父が政務の会議に出かけ、私は屋敷で書を読みながら待っていた。
夕刻。
門の外がわずかに騒がしくなり、ほどなくして父が戻ってきた。
その隣に、もう一人、男がいる。
背は高くない。体躯も武辺者ではない。だが、周囲の空気がわずかに張り詰める。
「惟任日向守、明智様をお連れした」
父がそのように紹介した。
「竹若」
「こちらへ」
父に呼ばれ、客人の前へ進み、手をつく。
「羽柴秀長が嫡子、竹若にございます」
光秀は一瞬だけ目を細め、丁寧に礼を返した。
「これは……秀長殿の御子息。噂はかねがね」
噂、という言葉に胸の奥がわずかに動く。
私はすでに「賢い子」として家中に知られ始めている。
3人で控えの間に入り、簡単な食事が運ばれる。
私は退室しようとしたが、
「せっかくなのでこのまま話を聞いておけ」
「日向守様もよろしいか」と、
父が手を伸ばし座り直すよう合図をし、光秀に同意を求めた。
光秀は、こくりと頷いた。
父と光秀は、評定の続きを話し始めた。
丹波の統治
畿内の年貢
信長の命じた城普請
私は黙って聞いていた
しばらくして、明智様がふと父に言った。
「秀長殿は、戦より政の御方ですな」
「買いかぶりです」
父は静かに首を振る。
「戦も政も、兄・秀吉に比べれば及びませぬ」
「いえ」
光秀は父の言葉を否定した。
「戦で国は取れます。しかし、治められる者は多くない」
その言葉に、私は顔を上げた。
自然と光秀と私の目があった。そして光秀が口を開く。
「……竹若殿は、どう思われますか」
突然ではあるが、不自然ではない。
話の流れの延長だった。
「戦と政、どちらが大切だとお考えですか」
私は少しだけ考える素振りを見せてから答えた。
「どちらも大切だと思います」
「ほう」
「戦は壊し、政は作り直します。両方とも必要です」
光秀の眉がわずかに動く。
「作り直すとは?」
「戦が終わった後に、民や兵が帰る場所を作ること...だと思います」
「帰る場所……」
明智様は黙り込んだ。
やがて、小さく息を吐く。
「……大殿(信長公)は、戦を終わらせるおつもりです」
それは独り言のようだった。
「しかし、日の本の歴史や伝統、民の安寧には、あまり興味がおありでない」
「戦の世を終わらせるということは何よりも優先すべきこと...」
「しかし、すべてを壊したあと、大殿が作られる世は果たして幸福なのか...」
父の表情がわずかに曇る。
そして、確かな口調で答えた。
「戦の世が長く続き、何もかも壊れてしまっています」
「壊れたものをすべて元どおりに戻すことは難しいのではありませんか」
「我らは大殿こそ新しい世を作る方と思っております」
父の口元をじっと見つめていた光秀の目線が私に移った。
「もし、竹若殿が、この国を治める立場になられたなら、何を第一にされますか」
私は一瞬考え、そして努めて子供らしい言葉で答えた。
「続く形を作ります」
「続く形とは?」
「誰がいなくなっても、同じように回る仕組みです」
「家族や家臣がいつまでも憂いなく過ごせるようにしたいと思います」
光秀は、ゆっくりと笑った。
それはどこか楽しげな雰囲気を帯びていた。
「最も難しいことを、第一に挙げられるとは」
「……恐ろしい御子ですな」
褒め言葉でも、非難でもない。
そして、小さく呟いた
「これまで続いてきた形もそうやって作られてきた…」
「秀長殿は、得難い宝をお持ちだ」
光秀はそう言って、立ち上がった。
見送りながら、私は思う。
この男は、自らが守りたいと思う世界が、戻したいと切望する世界がある。
そして、その世界を壊す者を、許すことができない。
許すことができなかった。
だが、すでに壊れかけている世界を再構築する設計者にはなり得なかった。
ビジョンがない。
大風呂敷でもいい、世界を変えたいという熱い思いがない者に、人はついてこない。
おそらく、本能寺の変は起きる。
本能寺まで、あと1年と半年。
私はすでに、引き返せない場所に立っている。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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