第13話 伯父と甥の対面
天正8年(1580年)11月 近江・長浜城 竹若
天正8年(1580年)11月 近江・長浜城 竹若
長浜城に、羽柴秀吉が戻った。
城下は朝から騒がしい。
船着き場には荷が積まれ、町の者は道の端に並び、武士たちは妙に背筋を伸ばしている。
私は、母・お初の袖に手を添えられ、廊下を歩いた。
「走らないで」
「走らない」
そう答えたが、胸の鼓動は速い。
伯父――秀吉。
まだ言葉を話せなかった頃、何度か会い、抱かれたことを覚えている。
だが、最近は会っていない。
少なくとも、赤子の時代を経て、秀長の子として活動するようになってから、この男と対面するのは初めてだ。
評定の間の襖が開く。
そこにいた。
笑顔が大きく、声が大きく、気分屋で、残酷で、情に脆く、誰よりも人を欲しがる男。
秀吉は、座っていない。立っていた。
まるで獣のように間を歩き回り、家臣の言葉を聞いては笑い、急に真顔になる。
ねね様が横にいた。
いつも通り穏やかだが、少し口元が緊張しているように見える。
「おおっ」
秀吉がこちらを見た瞬間、声が弾けた。
「来たか来たか! 小一郎のガキ!」
伯父の言葉は乱暴だが、悪意はない。
むしろ親しみを隠す気がないその言葉に愛情を感じる。
母が一歩前に出て、丁寧に頭を下げる。
「お久しゅうございます。筑前守様」
「堅い堅い!」
秀吉は手を振る。
「ここは長浜じゃ。儂の家じゃ。お初殿、顔を上げい」
母が顔を上げると、秀吉はすぐに私へ視線を落とした。
その目は、笑っているのに――測っている。
(試される)
私は理解した。
秀吉は、家族であっても試す。欲しいものほど試す。
愛と信頼、所有はこの男にとって渾然としている。
私は一歩前に出た。
礼をする。深すぎず浅すぎず。
子供の礼として自然な角度。
「……竹若にございます」
秀吉が鼻で笑った。
「聞いてたとおり、しっかりしとるな」
近づいてくる。顔が近い。
秀吉は私の頬を指で軽くつまんだ。
「こいつは可愛い顔しとる。小一郎には似とらんな、お初殿に似たか」
母が困ったように笑う。ねね様も微笑む。
場が和む。
だが、秀吉の目は笑っていない。
「ところでな」
急に声が変わった。
「長浜で米が上がって、市が荒れそうになったそうじゃの」
空気が締まる。
私は何も言わない。言い訳はしない。
秀吉は続ける。
「蔵を開けたのは誰の判断じゃ」
この問いは危ない。
「私がやりました」と言えば出過ぎる。
「知りません」と言えば逃げる。
「父の命です」と言えば父の権威を借りてしまう。
私は短く答えた。
「小堀と羽田が決めました」
秀吉の眉が上がる。
「ほう、ではお主は何をした」
「私は、荒れる前に止めた方がよいのではと言いました」
秀吉はしばらく黙って私を見た。
(ここで“賢い子”を演じすぎるな)
私は心の中で釘を刺す。
秀吉は才が好きだが、才が自分の外に立つのを嫌う。
賢さは「扱える範囲」で見せるべきだ。
秀吉が笑った。
「言っただけか… 誰に言った?」
「小堀殿に」
「それで、小堀が動いたか」
「はい」
秀吉はねね様の方を振り返る。
「ねね、文にあったのはこれか」
「はい。ですけど……」
ねね様は柔らかく言葉を選ぶ。
「蔵を開けるのは怖いことです。皆、よく決断しました」
秀吉は頷く。そして私に視線を戻す。
「竹若」
「はい」
「お前、米の値をいじったらどうなるか分かるか」
これは試しだ。答えを間違えると「口先だけ」と見なされる。
私は、できる限り子供の言葉で言う。
「腹が減ると、誰もが怒ります」
「怒ると、石や槍、弓を手に取ってしまいます」
「そうなると、刀で向かい合うことになります」
秀吉が目を見開き、それから大笑いした。
「はははは! そうじゃそうじゃ!」
「こいつ、物の順序が分かっとる!」
笑いながらも、秀吉は私の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
痛いが、耐える。
(気に入られた)
私はそう思った。
しかし、おそらく、これで終わりではない。
秀吉は気に入った相手ほど、深く仕掛けてくる。
「…もう一つ聞く」
やはり来た。
「お前、儂が怖いか」
場が凍る。
子供に問う内容ではない。
だが、秀吉は平気で踏み込む。
情に脆いのに、残酷なほど人の心を引きずり出す。
私はすぐには答えない。迷ったふりをする。
考える子供として自然な間を置く。
それから、少しだけ顔を上げる。
「……好きです」
秀吉の目が細くなる。
「ほう。なぜじゃ」
ここが肝だ。
媚びるのは簡単だが、すぐに飽きられる。
秀吉は、欲したものを手に入れた瞬間に、価値を下げる癖がある。
媚で懐に入るのではなく、関心を惹くことが重要。
私は、努めて無邪気に言った。
「父上が、伯父上の話をするとき、嬉しそうです」
秀吉の笑みが、ふっと柔らかくなった。
それを感じとったねね様が小さく息を吐く。
母の肩の力も少し抜けた。
秀吉は黙って私を見ている。
そして、ぽん、と膝を叩いた。
「来い」
私は近づく。秀吉は私を抱き上げ、膝の上に乗せた。
大きな腕。戦場で刀を振り、槍を突く人だが、今は妙に温かい。
「小一郎はな」
秀吉が独り言のように言う。
「儂の弟で、一番厄介で、一番頼りになる」
「厄介?」
私は聞き返す。
秀吉が笑う。
「儂の勝手を、止めるからじゃ」
その言葉に、私は内心で頷いた。
(止められる人間がいる政権は強い)
私が望むのはそこだ。
秀長が生き、秀吉が暴走しない形。豊臣が長く続く形。
私はそれを声に出さない。
ただ、秀吉の膝の上で、子供として振る舞う。
「伯父様は、勝手?」
秀吉がまた笑う。
「勝手じゃ。誰よりも勝手じゃ」
「だがな、勝手な奴ほど前が開ける。天が味方をしてくれる」
「竹若」
秀吉が優しい声で呼びかけた。
「はい」
「お前、儂の前で怖がらんのか」
私は首を振った。
「少し怖いです」
正直に言う。嘘は見抜かれる。
「でも、父上が怖がらないので、私も、真似します」
秀吉が一瞬、黙った。
それから、大声で笑った。
「そうか、そうか」
「真似できるなら、上等じゃ」
秀吉は私の背を軽く叩き、ねね様の方へ顔を向けた。
「ねね」
「こいつ、長浜に置いとくのは惜しいな」
ねね様は微笑むだけで、答えない。
答えを急がせない。賢い。
母は、私の顔を見て何か言いたげだったが、言葉を飲み込んだ。
秀吉は私を抱いたまま、軽い調子で続けた。
「小一郎が播磨で国をまとめとる」
「お前は、長浜でもっと成長せい。そして早く小一郎の役に立ってやれ」
「儂はまた西へ行く。帰ったらまた会いにくる」
そして、私の額を指先でちょこんと叩いた。
「次は、もっと面白いことを言え」
「儂は、面白い奴が好きじゃ」
私は小さく頷いた。
「はい」
(気に入られた)
だが同時に思う。
(欲しがられた)
この男に欲しがられることは、武器にもなるし、刃にもなる。
私は子供の顔のまま笑い、伯父の機嫌に寄り添う。
豊臣を潰さない選択肢の一つ「確実な後継を早期に確立」
そのための――養子。
この男の「情」を、こちらの味方にしておく。
それが、私にできる最初の政治だった。
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