隠れた呪縛
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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週明けすぐ、委員を任されてから三日後。
朝、私は別棟の空き教室で一人、数多ある用紙と格闘していた。
「よーう、呪われた体育祭員、何してんだよ朝っぱらから、変態かよ」
「選手決めです」
そう、選手決めである。
有志の手伝いに志願した週末。
そして週明けに有志の手伝いから体育祭員に変化した私は、
希望をとった競技の選手を、実際に選定する作業を任されたのだ。
まだ選定し委員会へ提出する期限まで余裕があるものの、
希望が通らない生徒だって当然出てくる。
説明も時間も必要であるし、昼と放課後に委員会の仕事もある。
ただでさえ出遅れ参加の為、覚えなければいけないことも山ほどある。
選手決めは全体に関わることでもある。早々に決着させた方がいいと、
空き時間と睡眠時間を削り時間を捻出し、
さらにこうして朝の退避時間を有効活用しているのだ。
いや変態ってなんだ。
人を露出狂みたいに言うのはやめてほしい。
「呪われた委員会に在籍した気持ちはどうだ呪われ」
「偶然なので何とも思いません」
クラウスの問いかけに手早く答える。
エリクも先輩も大変だなあ、と思っていたら、まさかの私のクラスでも欠員が出た。
元の体育祭員の生徒は家庭の事情というが、若干顔色が悪かったし、
体調も良くなさそうで、「これ本当に呪いとかいわくとか、危ないのでは」と疑わざるをえないが、
呪いと認識してしまえば怖くなるし、なるべく偶然だ、非科学的だと考えるようにしている。
クラウスは尋ねておいて、望む回答が得られなかったのか、
ため息交じりに生返事をすると私の前の椅子にまたぐようにして座った。
「あの、アリスさんの素性について黒板に書いたのって、貴方ですか」
アリスが、平民だと書かれた黒板。
アリスを平民だと知るのは、私か、クラウスか、教師陣だ。
教師がそれをする理由は無いし、となると消去法でクラウスになる。
しかし、クラウスが黒板に書いたと考えても、どうにも腑に落ちないのだ。
面白いことが好き、人の苦しむ顔が大好きという彼はむしろ書かない理由が無い。
にもかかわらず、どうにも納得できない、違和感がある。
……直感と言えば、それまでだが。
「ちげーって言ったら信じるのか?」
クラウスは試すような目をこちらに向けた後、大きく溜息を吐いた。
「まーあ? 俺じゃないけどな、あんなゴミクソつまんねータイミングで晒しても、
なーんにも面白くねーしよ」
「では、いつがいいタイミングだと思いますか」
「間違いなく体育祭前後だな、クラスメイトの馬鹿共のユージョーが、
いーい感じに煮詰まった時だ。アリス単独じゃなく、全員分。
今まで一緒に汗を流し、頑張ろうって言いあってた温い雰囲気が、
一気に凍り付くなんて最高に楽しいだろ、今から俺のクラスでしても悪くねえな」
「……そう言う人は、校外学習の次にはしませんね……」
クラウスは信憑性に欠ける人物ではあるが、
彼の享楽主義の性格には、彼の言うベストタイミングの方が合致する。
……となると、一体誰が。
アリスを平民にして、陥れたい人物なんて、いるだろうか?
シナリオの強制力が働いたのか、
私以外に、ここがきゅんらぶの世界だということを知っている人間がいるかだ。
しかし同じような人間だとして、アリスを平民と知らしめ、陥れるメリットが無い。
アリスの苦しむ姿を見たい、なんていう人間はミスティアか、
それこそどんな人間の苦しむ姿も見たいクラウスくらいだろう。
……調べた方がいいのだろうか。
考える私の顔を見て、クラウスが気だるげに口角を上げる。
「探偵ごっこ始めたところで、全く意味ねーと思うぜ」
「どういうことですか」
「呪われ女のてめーが気付くよーな間抜けなら、もう既に消されてるだろ。
てめーが気付く間抜けなら消えてて、てめーが気付かねー間抜けでもまあ消えてる。
まあどっちみち消えてるわけだ。
そうじゃねー奴なら、ぜってー分かんねえだろてめーも、……多分俺も」
右と左の人差し指を突き立て、くるくると回しながらクラウスは話す。
分かる相手なら消されて、分からない相手なら絶対分からない。とは一体。
「消されてるって誰にですか」
「誰、ってもんでもねーし、俺も全員把握は出来てねーからな、
俺の知らねー中で、あと一人は確実にいるっつーのは分かったんだけどよ……
クソ手強いっつーか、中々尻尾出さねーんだわ、これが」
クラウスは机の上にあった選手希望用紙を一枚つまむと、それを気怠そうに指ではじく。
「……選手名簿ねえ、うーわあ、くそつまんねーなあ、学年リレーは絶対嫌ですだあ?
なあこいつ、学年リレーにしろよ」
「いや、絶対しませんよ、嫌って言ってるんだから」
それを取り返すと、案の定中心に皺が寄っていた。
皺を伸ばしながら抗議すると、クラウスは心底うんざりした顔をする。
「はーゴミ、良い子ちゃんゴミ発想、こういうやつ走らせて。
クラス中から非難受けさせれば楽しいパーティーが始まるだろ」
相変わらず、発想が下劣極まりない。
そしてそれを楽しいと本気で思っているから手に負えない。
人の嗜好をとやかく言うのはよくないことだが、
クラウスの嗜好は放っておいては危険な気がしてならない。
「……貴方は何の競技に出るんですか」
「ただ走る奴ぜーんぶ」
「全部って、本気ですか?」
そんな精力的な性格なのか、彼は。
むしろ競技の妨害や、ラフプレーをいかに審判にばれずにすることを競いそうなのに。
「おー、障害物は面倒、借り物は面倒、後も面倒、
そして俺は走るのが得意。
つーことで、クラスの馬鹿共からの評価一気に集められるいい機会なんだよ」
「何が狙いなんですか、人望を集めて、何する気ですか」
「相変わらずつまんねー奴だなお前は、信用を得られれば、好きなだけ引っ掻き回せるだろ?
お前の彼女、この間あの家の子息と歩いてた、なんてゴミみてーな一言が、
信頼してる相手から言われたら鉛になんだよ」
「痴情をもつれさせる為に……走る……」
「俺はなあ面白いことなら何だってする男なんだよ。
……なあ、お前の信用も俺に分けろよ、どーせ分かんねーんだから」
「は?」
クラウスが、私を指で差し、その指をぐるぐると回す。
「お前は底ぶち抜けたくそ花瓶だからなあ」
「馬鹿とか、そう言う意味ですか?」
「いーや? ……少なくとも俺の花瓶に底はあるからな、
ただ途方もなく入り口がせめえだけだ、むしろ針くらいしか通らねえだけで、俺のは」
クラウスの真意が見えない。
いや、彼の真意が見えたことはほぼ無いが、脈絡が無いような、
しかしそれでいて物凄く真理をついているような。
酷く不安な気持ちに陥る。
「まあ、ぶち抜けてなかったらなかったでどうせぶっ壊れてるから、どっちもどっちか」
クラウスは立ち上がると、鼻で笑いながら去っていく。
いや去るなら去るで椅子片付けて去ってくれ、と思いながら前の椅子を戻した。
「終わった」
競技と希望を組み合わせる、最終的にパズルゲームだと思うことで脳をフル稼働させた結果、
ゲームだと思えば簡単だった、はずもなく苦行であった。
顔を上げると、時刻は朝の予鈴が鳴る前。
このまま教室に戻って、仮の選手名簿を発表して、
どうしても変えてほしい人がいないか聞けば、丁度ジェシー先生が訪れ、
いい感じに退出が出来るだろうと算段を立てた私は、速やかに教室に戻ることにした。
自分のクラスの扉を開くと、さっきまで賑やかであったクラスが静まる。
まごうことなき通夜の空気である。
それか、給食費が無くなり、犯人捜しをしているかのような緊迫感がこの教室を包み込んでいる。
この緊迫とした空気を作り上げている犯人こそ私だ。
そう、競技には定員が決まっているのだ。
数多ある競技の中、クラス全員が同じ競技、学年全員が同じ競技、
果ては学校全員が同じ競技を選択すれば、体育祭はただのナントカ大会に変わってしまう。
定員という制度によって、体育祭を無法地帯の運動大会にならないようにしているのだ。
そしてその定員制度こそが、希望と競技を組み合わせるパズルゲームをより難化させる原因である。
そして何より度し難いのは、何故か徒競走が絶大な人気を誇ったことだ。
前世時代、「徒競走」というのは、完全に実力が物を言う競技、
うっかり足の速い俊足集団にでも入れられようものなら、
公開処刑という悲劇の末路を辿る莫大なリスクを伴う競技とされ、敬遠されていた。
同じ走競技なら、足の速さが誤魔化せる、一縷の望みにかけられる借り物競走、
そして障害物競走が消去法のように選択され、徒競走は足が速い生徒が他薦され埋まる競技であったのだ。
しかし、今回の我がクラスで絶大な人気を誇り、最大倍率を叩き出した競技こそが徒競走なのである。
クラスの約九割が徒競走を選択していたのだ。恐ろしい偏りである。
流石に前世時代の感覚と、今世の感覚は似ている様で違うことは理解しているが、
まさかひとつの、そして徒競走にそこまで希望が偏るとは予想外であった
しかし、よくよく考えてみれば、この世界では学校は十五歳から通うもの、
小学校も中学校も無い、いわば運動会や体育祭を経験していないのだ。
よってクラウスほどの面白狂いでもない限り、
何かよく分からない、経験したことの無いことをする競技より、
ある程度想像がつく競技に人気が集中するのは必然である。
ということで、俊足の生徒を徒競走へ、
障害物走の中に楽器演奏という「は?」としか思えない演目があった為、
障害物走には音楽をしている生徒を、借り物競走は物おじしない、
誰にでも話しかけられる生徒を、と選んだのである。
その為この三日間、生徒を観察したり、素性や特技などを調べ上げたのだ。
世が世なら確実に捕まっていることだろう。
教卓の前に立つと、教室全体の空気がどんどん張り詰めていく、
「こいつは一体何を言い出すんだ」と思われているのだろうが、
体育祭のことしか話さないから安心してほしい。
「体育祭実行委員としての連絡です、希望表を見て、選手を決めましたが、徒競走を希望した方が多く、
徒競走を希望した方につきましては、半数以上の方がご期待に沿えない結果になりました。
以下、決定した結果を配ります、競技ルールも書いてあるので、一度ご確認ください」
とりあえず一人ひとり、名前とどの競技なのか書いた紙を配っていく。
一枚の紙に書いて張り出した方が手っ取り早いが、
後の競技をどうしても変更したいという相談をする時にし辛いかと思い、
面倒だが一枚一枚個別に通知することにしたのである。
「なんらかの事情がある場合や気になったことがある場合は、明日までに相談して頂ければと思います。
都合がつかない場合、この箱にメモを入れておいてくだされば対応します」
そう言って、箱を教室後ろの棚に置く。
現在私は教室遊泳の民ならぬ浮いた人間である。
直接会話はちょっと……というほぼ大多数の為に用意したのだ。
レイド・ノクターは探るような目をこちらに向けてきたものの、
「徒競走選んだのに徒競走じゃないなんて! 死ね!」と暴れだす生徒も出ず、
説明および結果の通達は穏やかに終了した。
選手仮発表から一夜明けた放課後、廊下を歩く。
特に変更は見られず、そのまま提出する運びとなった。
後は、決定した選手表を委員会……体育祭委員会室に提出するのみである。
流石貴族の学校、莫大な寄付金により、各種委員会専用の教室というものが存在するのだ。
しかし委員会全員が入れる訳では無く、
あくまで各種委員会の委員長、書記、
会計などの委員会の中でも上位の人が利用する部屋、らしい。
位置は本校舎最上階。本校舎に滞在する時間が極端に無く、
ゲームでも未登場の為知らなかった。
ちなみに最上階最奥には生徒会室があるらしい。
最上階への階段は一つだけ。
体育祭実行委員会、文化祭実行委員会、保健委員会、風紀委員会と各種部屋が並ぶのは、
なんだかとてもゲームの四天王感がある。各部屋でボスを倒して、奥のラスボスに挑む……みたいな。
心の中で厨二病染みた妄想をしながら本校舎の階段を上っていると、
丁度前方から妹さんのほうのネイン先輩が下りて来た。
「あら、ミスティアさん。
今お帰り……じゃないわね、もしかして委員のお仕事?」
「はい、選手決めの紙を提出に、委員会室へ」
「あら、もう決まったの?」
「……徒競走の倍率が高くクラスの半数以上が徒競走を選択したので、
半数以上の希望は通っていませんが…………」
「やっぱり、一年生は徒競走が人気なのね」
目を見開くネイン先輩に、現状を伝えると、
ああ……と、納得したように頷いた。
「一年生は」ということは、一年生だけに人気、ということだろうか?
徒競走が? そんな特殊な競技では無かったはずでは……?
「二年生になると変わるのですか?」
「ええ、一年生の時にね、徒競走を選んで、足の速い生徒と一緒に走って……
何て言えば良いのかしら、引き離されてしまう生徒が多くて……
そういった風にはなりたくないと、二年生の時には皆、徒競走以外を選択するの」
公開処刑大会による、心の傷……。
気持ちはすごく分かる。トラウマになる。
……あれ、じゃあ先輩は徒競走以外の競技なのだろうか。
「先輩はどの競技を選択されたのですか?」
「徒競走よ、走ることは嫌いではない…… ううん、好きなの。ミスティアさんは?」
「私は走ることより、じっとしている方が得意なので、借り物競走です」
そう答えると、先輩は楽しそうに笑う。
先輩は走ることが好きなのか。何だか意外だ。
ここのところ昼や放課後、元気な、というか通常状態の先輩を見る機会が増えたけれど、
そのどんな姿も、生粋の御嬢様……。
頭の先からつま先まで美しい所作で、完璧な令嬢という印象だ。
レイド・ノクターが完璧な王子様だとしたら、先輩は完璧な王女様だと思う。
それか、前世的に言えば大和撫子だ。
「……困ったことがあったら、何でも言って頂戴ね。
恩を返したいというのも、勿論あるけれど、
ミスティアさんは突然委員になったのだから、大変でしょう?」
「ありがとうございます、心強いです」
先輩が、労うように私の手を取る。
どうやら先輩は、私が突然委員になったことを心配してくれているらしい。
ありがたいと思っていると、
先輩が思い出したように口を開いた。
「そういえば、私、ミスティアさんに……
ずっと言いたいと思っていたことがあったのだけれど、いいかしら?」
「どうぞ」
「もしよければ、私の事は名前で呼んでもらえないかしら」
一瞬思考が停止する。
名前で、呼ぶ? 何か、警告とか、注意とかではなく?
目を見開く私を見て、先輩はああ、と付け足す。
「ミスティアさん、ずっと私のことを、
先輩、とだけ呼んでいるでしょう? もしかしたら、
どう呼ぶべきか悩んでいるのではなくって?」
確かにそうだ。
フィーナ先輩と名前で呼んでしまうのは、
なんだかとても馴れ馴れしい気がするし……、
とどうすべきか悩んでいた、それに……。
「理由は……そうね、ネイン先輩、だと、兄と被るからかしら」
「……実は、そうです」
その通りだ。ネイン先輩と呼ぶ選択が、
ネイン先輩が二人いる、ということで出来ない為、もう呼ぶときは先輩しかない。
しかし二人と相対したときどうするか、いやでもそんなことはあるのか?
と、どうすべきかと思っていた。
「名前でいいのよ、気軽に呼んで頂戴」
「……では、よろしくお願いします。フィーナ先輩……」
名前で呼ぶと、フィーナ先輩は穏やかに笑う。
何か、いいな。穏やかな友情を築けそうな気がする。
エリクとも主従とかじゃなくて、こんな風に築きたい。
そのまま自然な流れで委員会室へ向かうべく階段を上っているうちにふと気づいた。
あれ、先輩も委員会室に用事なのだろうか?
でもさっき、委員会のお仕事? と尋ねられたし、何かあるのだろうか。
「あの、先輩はどちらへ?」
「私は、役員である兄の手伝いをしに生徒会室へ、
生徒会の役員なのよ、私の兄は」
「そうなんですか……」
生徒会の役員ってすごいな……。
あれ、でもそういう重要な役職って攻略対象……にはいないか。
きゅんらぶの攻略対象は出揃っているし、関係ない。
「では、私はここの奥だから、ミスティアさん、頑張ってね」
「はい、ありがとうございます、失礼いたします」
考えながら進んでいくと、体育祭実行委員会の教室に到着した
フィーナ先輩に挨拶をして、私は実行委員会の教室に入った。
「ああああ……」
選手表を提出した私は、畳まれた布、
いや畳まれた爆弾を持ち、本校舎の階段を下っていた。
材質は紛れも無く布であり、燃焼性は布そのものだが、これはただの布では無い、
クラス旗の布だ。
どうやら毎年、クラスごとで大旗を作り、その大旗を応援の時に使うらしい。
渡されたのは、あらかじめ線画が完成された状態の布で、
いわばこれから大きな布にクラスの皆で協力して、塗り絵をする。
この五月というクラスが一丸となったりなっていなかったりする時期に、
クラス旗を完成させ、体育祭に向けある程度クラスの団結力を高めておいてね、
というのが学校側の方針だと説明され、
「配りに行こうと思ってたんだけどラッキーだなあ ハハハ」と渡され、今に至る。
クラス旗をほんの少し広げてみるが、結構な大きさがある。
……別にクラスから浮こうとかどうでもいいやと調子に乗りに乗り、
最早サーフィンをしていたくらいだが、
これでは調子に乗れない。どうにかしてクラスの協力を仰ぎ、
クラス旗を完成させなければクラスの根幹に関わる。
これは、わりと、いや、かなり深刻な状況だ。
……頭を下げよう。
それしかないな、一人で何とかできる量でも無いし、
「クラスのみんなで団結する思い出」をクラスから奪っていい理由なんてない。
気を取り直して階段を下りていると、後ろから突然現れたかのような足音がする。
振り返るとエリクが立っていた。
「ご主人」
「ハイム先輩」
エリクも旗の布を持っている、委員会室の帰りか。
あれ、でも行きにも帰りにも、会っていないような。
「ハイム先輩ど……」
「どうして、フィーナ嬢と仲良くしてるの?」
「え、どうしてって」
「フィーナ嬢のこと、フィーナ先輩って呼んでたよね? 僕はハイム先輩なのに」
それなら僕は、ハイム先輩じゃなくてエリクって呼んでよ」
私が、フィーナ先輩と呼び始めたのは、ほんのさっきのことだ。
でも、あの場にエリクはいなかった。
どうしてだろうと考えていると、エリクが呟いた。
「もしかして、呼びたくないの?」
「いや、呼びたくない訳では……」
人の前でフィーナ先輩を「フィーナ先輩」と名前で呼ぶことと、
彼を「エリク」と名前で呼ぶことは大きく異なる。
フィーナ先輩は女の子だし、実際ネイン先輩二人問題がある。
それに呼び方が何であろうと、友達であることには変わりない。
「……ねえ、僕たち、友達だよね?」
「うん、友達だよ、でも、名前で呼ばなくても、とも……」
「ならさ、友達は名前で呼ばないと」
「でも」
「それとも、ご主人は、僕と、友達じゃなくなっちゃった?」
エリクが、今にも泣きそうな顔をする。違う、そんな顔をさせたいわけじゃない。
エリクには、いつだって笑っていてほしい。
「違う!」
「じゃあ、名前で呼んで? また、昔みたいに。
本当は邪魔だけど、先輩はついてていいからさ」
「……」
エリク先輩、なら、まだ、呼び捨てよりは、いい……。
しかしエリクの様子が異様に感じ、安易に頷けない。
どう、言葉をかけていいかも分からない。
何か言わなきゃと言葉を探しても見つからず、俯く。
「一緒にいてくれるって、約束してくれたもんね、ご主人は」
そう言って、エリクは私の左手を取ると、小指を掴み、指切りをするように自分の指と絡め、
また、解く。
「約束、破らないでね」
エリクの、今まで、全く聞いたことの無い声に驚き、顔を上げると、
彼は柔らかく笑っている。
しかし、確かに、目の前にいるのはエリクのはずなのに、どことなく違和感がある。
間違いなく、今の彼は、致命的に何かが違う。
「あの……」
「じゃあ、またね、ご主人」
「……はい、また……」
エリクは、笑顔で私の肩をぽんぽんと叩いてから、踵を返し、去っていった。
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
◇予約ページ◇https://tobooks.shop-pro.jp/?mode=grp&gid=3106846
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