見えない
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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席替えをして次の日の朝。
私は廊下にて、先生が教室に入室するタイミングを狙っていた。
何故ならば、最高だと思っていた隣の席は、昨日からアリスの席になっているからだ。
視力がよくない。
席替えにおいて、その決められた采配をひっくり返す大技である。
私の隣の席の人間は、くじ引き時点では、
普通の、安心安全の、一般的なクラスメイトであった。
一家使用人離散投獄死罪爆弾でも、この世界の絶対的ヒロインでも無く。
しかし、その普通のクラスメイトこそ、油断してはならない相手だったのである。
彼女は視力がよくなかった。本来ならば、席替え前に、前の席への移動という、
嘆願をすることが望ましかったが、
レイド・ノクターが空気を掌握し、くじ引きで席を決めるという空気の中、
意見をすることは、難しい。この時期がある程度交流が深まり、
相手の事情を考える余裕が出来始めた頃ならまだしも、
四月最後の週と言っても、まだ四月の状況下。そしてはじめての集団生活。
まとまった空気の中、「私前の席がいいです」と同じクラスの生徒に言うのは難しい。
それに、もしかしたら前の方の席になる可能性だって捨てきれない。
わずかとも言い切れないその可能性にかけた結果、彼女の得た席は、最後列、廊下側二番目。
絶体絶命の窮地である、そんな、視力のよくない彼女は、
たまたま前の座席を得ていたアリスと、座席を交換した。
優しい、どんな人間にも慈愛を持つアリス。
「前の席じゃないと黒板が見えない」という生徒の願いを叶えないわけが無い。
視力のよくない生徒は、慈愛の守護神アリスにより、
「黒板が見えない」という状況から救われたのだ。
私の屍を越えて。
黒板が見えなければまともに授業を受けられない。
だから前の席に行くこれはもう仕方ないことだ。
しかし、私に訪れるのは深い絶望、そして悲しみである。
申し訳ない。
なんだよ、アリスが隣て。殺す気かよ。
これでレイド・ノクターまで近くの席だったら死んでた。
そうじゃなかったことを喜べということか、神よ。
何故私がアリスの移籍ならぬ移席の経緯を知っているのかと言うと、
アリス本人が話をし始めたからである。よろしくというあいさつの後に。
全てを話したアリスに私が返した言葉は「あっ……なるほど」だった。
簡単な相槌……例えば「へえ」ひとつでも、
冷たい「へえ」もあるし、興味のある「へえ」もある。
どう受け取られるかは相手次第。
レイド・ノクターがいい例だ。
私がうっかりザルドくんと話を盛り上げてしまうと、
彼の相槌はそれはそれは冷たい絶対零度の「へえ」になる。
逆に天候や季節などザルドくんに全く関係ない話題だと興味ありげな「へえ」になる。
だから「なるほど」を選択した。
本当は「あっ……」なんて初めにつける予定はなかったのだが、
気付いたら口から出ていた。
遠くから様子を窺うならまだしも、
至近距離でアリスの様子を窺い「睨まれたかも」と思われたら怖いし、
椅子を座り直してうっかりぶつかって「ぶつけられたかも」と思われるのも怖いし、
教科書や筆記具をうっかり飛ばしてアリスの頬に直撃、
なんて災厄が起きたら死ぬしかない。
その後の五限目六限目はいかに気配を殺し、動かないかに集中して授業を受けた。
今日だって本当は欠席したかったが、
席替えの次の日に欠席というのは露骨すぎるということで登校し、
良い具合の時間になるまで別棟のトイレの便座に着席していた。
最早トイレは学校内での私の屋敷と言っても過言では無い。
そして現在、鐘が鳴りジェシー先生がやってくるのを、
今か今かと待ちわびている。
扉の窓から察するに、おそらくアリスは既に着席している。
ほんの少し窓から窺う桜色はおそらくアリスの頭頂部だ。
その周囲には誰もいない。レイド・ノクターが周囲にいる感じも無い為、
安全と言っては安全なものの、念には念を入れる。
「ミスティア・アーレン」
振り返るとジェシー先生が後ろに立っていた。
「おはようございます、先生」
「おはよう、……ずっとここで待ってたのか?」
先生が不思議そうな顔をする。
あ、何かあって入らないのだと思われたかもしれない。
「ええ、あの、ちょっと廊下に用事があって」
「そう……か、悪い、わざわざ聞く事じゃなかった。
デリカシーが無いな、俺、本当悪い」
デリカシーとは一体。
「何してんの?」「ただぼーっとしてるだけだけど」
みたいなちょっと気まずくなる会話にしてしまった、ってことなのだろうか。
「いえ、大丈夫です」
「ああ、でも、残念だがそろそろ時間が」
「はい、席につきます」
教室に入り、着席する。
なるべく下を向き、誰とも目が合わないように。
朝のホームルームが始まると、アリスが「あ」と声を漏らした。
その後ごそごそと横から聞こえてくる。
気になるが、見ない。
あまり俯いていても不審だから、今度は視線を前に固定して、
ジェシー先生の言葉だけを聞き、先生だけを見つめ続ける。
「そして、今日の一限は俺の授業だ、このまま始める、
……その代わり、終了もその分早める、安心しろ」
先生は朝の連絡を終えると、教科書を取り出し、そのまま授業に移行する。
これはホームルーム終わりから、
一限授業開始の五分間、避難の為校内をうろつかなくて済む。良かった。
ジェシー先生の授業は、とても好きだ。
分かりやすいし、丁寧で、何より面白い。
物語を読み解く授業では、先生が何を思ったか、
というところも詳しく話をしてくれる為、「この話はあまり好きじゃないな」と思っても、
先生の話で身近に感じやすく、そして考えやすい。
鞄から教科書、筆記具、ノートを取り出し机にのせ、
いつも通りレイド・ノクターとアリスの位置を確認……、と横を向きはっとする。
そうだ、確認も何も、今私の隣はアリスだ。
アリスは鞄の中身を熱心に漁り、こちらを一切見ていない。セーフだ。
安堵しつつ、教科書を広げる、今日は確か新しい物語の読解だ。
学籍番号と今日の日付は関係ない。指名されて音読することは無いな、とペンを取りだし、
黒板に目を向けると、まだ隣からごそごそと音がする。
絶対分からないように俯き視線だけを横に移すと、
アリスの机には筆記具とノートは出されているものの、教科書は出ていない。
アリスは鞄を漁るのをやめ、顔を上げた。
急いで視線を前に戻す。
これは、もしかしなくても、アリスは教科書が無い。
ジェシー先生の授業は国語、教科書は必須だ。
科学や物理の実験で、実験してレポートだけ、なんてものではない。
教科書がメインだ。
横目で見やると、アリスは、教科書を机に出すことは無く、
ノートのみで授業に挑もうとしている。
忘れたのか、それとも隠されたのだろうか。分からない。
ミスティアは教科書は隠すより切り裂くもの派で、
アリスの教科書を目の前で燃やしたり切り裂きはしても、隠すことはしなかった。
やっぱり忘れた……?
忘れたとして、このままではアリスが授業を受けることは不可能だ。
ジェシー先生の授業は教科書の内容を黒板に書く、というより、
解説を書く授業。
でも、言葉を交わすのはリスクが高い。
アリスと会話をしているところを人に見られて、
「そういえば嫌味を言っていたな」なんて思われれば死ぬ。
……筆談。
鞄からメモを取り出し、
『教科書は?』
と書き込み、アリスに見せる。
アリスはメモをじっと見つめると首を左右に振った。
やっぱり無いのか。
流石に、机をくっつけることはいじめにあたらないだろう。
思い切り机ごとぶつかり相手に怪我をさせる、
くっつけると言いながらぶつける、などの暴力行為でなければ。
……いやでも相手が嫌がるかどうかだ。分からない。
聞くか。
『机を近づけてもいいですか』
メモに書き、アリスに提示するとアリスは戸惑った表情をしつつ、こくりと頷く。
机を慎重に、ぶつからないようにアリスに寄せ、
開いた教科書を中央に置き、上からさらに押さえつけアリスに見やすいようにして、
『よければ』
とメモをはさみ、そのままあとは視線を下に落とす。
多分、これで大丈夫なはず。
横目でちらりとアリスを見て、
アリスが教科書を認識しているのを確認し、
ノートを取り始めようとすると、アリスがメモを差し出して来た。
『ありがとうございます』
返事がわりに会釈をして、
前を向き黒板の内容を確認する。
今日の読解の内容は恋愛ものらしい。
そういえば、教科書が屋敷に届いた時読んだ記憶がある。
夜な夜な婚約者の屋敷に侵入して、
その姿を一目見て詩を書き、毎朝何食わぬ顔で
「今朝何となく思いついたんだ!」と詩を贈り届ける男の話だ。
男の、婚約者の姿だけを見て帰るわりに、
朝何食わぬ顔で詩を送り届けるところや、
夜来たことは言わず、詩の作成過程を偽る姿勢に、
疑問と恐怖を感じた為、強く印象に残っている。
この話を一緒に読んだメロが、
「屋敷の警備がなっていないのでは」と苦言を呈していた。
……そうだ、今週の休日は、護身グッズ探しだ。
ネイン家の一件で、両親、メロ、使用人の皆に対し不安を覚えた私は、
護身用品を、街で一度確認して、
見ておきたいという話を両親にした。
取り扱う店主を屋敷に呼ぶ、という案もあったものの、
丁度学校生活に慣れた時に必要なもの探しもあると、
街にでることになったのだ。
そうだ、休みは、護身グッズ探し。
屋敷の皆の安全の為に、しっかり探さなければ。
その前に、今は授業に集中しなければ。
長い間考え込んでしまった。
私は急いでノートに黒板の内容を書き写した。
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